(ミゾソバ タデ科)
今朝は、今にも雨が降り出しそうなので悩みましたが、少し歩くことにしました。
ここ数日、台風の影響か体調が悪かったです。
昨日は晴れたので出かけたかったけど
脈拍が寝ていても100以下にならなかったので大人しくしていました。
今朝も体調は、いまいちでしたが出かけることにしました。
歩いていると少しずつ気分がよくなりましたし、雨も小雨ほどでした。
あまり台風の影響を受けなかった大阪で体調が悪くなるのですから
台風19号の被害に遭われた方は大変だと思います。
被災地ではこれから雨が降るようですし
「関東甲信・東北 被災地で雨の見込み 増水や土砂災害に警戒を」(NHK)
昨日のラグビーは思わず力が入りました。
強豪のスコットランドに簡単に勝てるはずないと思っていましたが
途中、スコットランドの猛攻に見続けることができませんでした(^^ゞ
〝「容赦ない攻撃で歴史作った」日本のベスト8に海外メディアは〟(NHK)
その結果を首相がすぐにTwitterやFacebookに載せているのでアレッと思った…
と言うのも確か
〝安倍首相 「人命第一 夜を徹して作業を」対策本部で指示〟(NHK)
と指示されていたはずなのにと思って
「首相動静 10月13日」(時事ドットコムニュース)を見て納得
「午後5時34分、東京・富ケ谷の私邸着。」
だからラグビーの結果をすぐにアップできたんだ。
ちなみに10月12日は全日公邸で過されていた。
日野原重明さんの『死をどう生きたか 私の心に残る人びと』より
「死を受容した十六歳の少女―担当医としての最初のハプニング」
の続きを転記しますφ(..)
半世紀前の結核の治療
私の受け持った少女は、結核性腹膜炎のほか、肺にもすこし陰影があり、軽い肺結核も当然あったように思われたが、喀痰(かくたん)の塗抹(とまつ)標本の直接結核菌染色では、いつも陰性であったので、彼女は結核病棟にはまわされず、普通病棟の南病舎に入院したのである。
(『死をどう生きたか 私の心に残る人びと』
日野原重明 中公新書 1983年)
彼女は、3、4日おきに、38度前後の熱を出し、ときどき下痢をした。
当時は、まだ抗結核薬のストレプトマイシンその他はないので、ピラミドンという解熱薬と、サルチル酸という鎮静剤のブロム剤とカルシウム剤の合剤のザルソブロカノン20ccの注射液を、隔日に静脈内に注射していた。
下痢に対しては、今日でも使っているタンナルビンと蒼鉛剤とを、先輩の指導医に教わって処方をしたが、服薬させると便秘しすぎ、下剤を使わなくてはならなくなってまた下痢をした。
下痢には腹痛がしばしば伴って、患者はひどく苦しんだ。
腹水がかなりたまり、膨満したお腹には、当時、結核に対する唯一の、しかしあまり効果の期待できなかったグアヤコールという消毒薬をひまし油にまぜて塗り、その上に油紙をおき、さらにその上に腹帯をあてがって、腹水の吸収を待ったわけである。
そのころの看護婦の仕事は、朝夕この湿布薬を換えることと、用便の世話、食事の供給、体温・脈拍の測定といったことくらいであった。
結核に対する検査としては、結核菌の探索の他は、ときどき採血して赤沈値を測ったり、貧血を検査するくらいであった。
治す術なく、やせていった患者
父親のないこの少女は、母とともに紡績工場の女工として働いていた。
母親は娘の入院の費用や生活費を稼ぐために、娘の病気の世話に来院して付き添うことがむつかしく、2週間に1回くらい、滋賀から見舞いにくるのが精一杯であった。
梅雨になり、むし暑い日がつづき、彼女の食欲はますます衰えた。
上腕はひどく細くなって、血圧測定のための腕帯をまくのに、まるで細い棒にまいているようであった。
採血をするにも、医師として不慣れであったことと、彼女の血液量が少なくなって腕の静脈が出ないこととで、1週に1回の静脈血採取には、ずいぶん苦労した。
何回も針を刺しているうちに、針の中の血液が凝固してしまい、針を変えて穿刺(せんし)をくり返さなければならないことがよくあった。
しかし彼女は、いつも痛みを訴えず、私の採血が成功するまでは、いやな顔をせずに辛抱してくれた。
日曜を淋しがる私の患者
そのころ私は、平日は毎日、診察した患者の記録をできるだけ細かく記載するために、夜遅くまで病棟にいた。
自分の患者の検査のほか、友人の患者の腰椎穿刺をするのを手伝ったり、そのほか検査室で、検尿や検便、白血球数計算やその分類をしたり、結核菌を染色して調べたりするなどで、試験室や病棟で過す時間が長かった。
少女はときどきひどい腹痛で苦しむことがあり、そのたびに病床に呼ばれたが、積極的な治療法はなく、痛みがどうしても止らなければ、やむなくパビナール・アトロピンという麻薬を注射して、なんとか彼女の苦しみを和らげていた。
そのころの私は、日曜日に当直でなければ病棟に出ず、教会の礼拝に朝から出席していた。
当時15名くらいの若い教会員が聖歌隊を組織していたが、私はたまたまその指揮を頼まれるようになったので、礼拝前のコーラスの練習や、礼拝後は次の日曜礼拝の聖歌の練習のために時間がとられ、また夕方は友人の家などを訪問して、日曜日だけは医師の仕事から解放されていた。
入梅のころから、彼女は日曜日になるとよく、39度くらいの高熱を出して苦しむことがあった。
彼女は8人部屋の総室に入院していたが、日曜日には、部屋の他の患者には、家族が数多く見舞いにき、重い患者の場合には、家族の誰かがベッドのそばの床の上に蒲団をしいて泊り込み、昼間はベッドの下に付添いの夜具をしまっておくというのがならいであった。
このような風景は、戦前だけでなく戦後も日本においてはつづいていた。
昭和30年のころ、甲状腺の研究で有名なハーバード大学のミーンズ教授が三ヵ月、客員教授として聖路加国際病院に招聘(しょうへい)されたとき、私は、先生を案内して東大に行き、沖中教授とともに廻診についたが、その廻診のときミーンズ教授は、患者の付添いが床(ゆか)の上で休んでいるのを見て驚かれ、「近世と中世とが同居している」などと、冗談げにいわれたのを記憶している。
話はまた現在に移るが、昭和57年5月に私は、アメリカのテキサス州ヒューストン市の癌の専門病院とし有名なM.D.アンダーソン病院の小児科の病棟を見学したとき、案内してくれたテイラー教授はこういわれた。
「私は終戦直後、日本に軍医として進駐し、伝染病院だった東京の駒込病院を訪れたとき、親がルームインしていた光景を見た。帰国してM.D.アンダーソン病院の小児科病棟に入院している死の近づいている白血病の小児患者には、親が補助ベッドに夜、添い寝するシステムを始め、いままでそれをつづけている。
これは、自分が日本から学んだシステムだ」と笑いながらいわれた。
(『死をどう生きたか 私の心に残る人びと』
日野原重明 中公新書 1983年)
今朝の父の一枚です(^^)v
もうキンモクセイは終わったのかなと思っていたら
また蕾が見えている。
ほんのりと甘い香りがして明日から咲きだすのかな?
「キンモクセイの2度咲き」(京都府立植物園 平成24年10月19日)