歩き始めは曇り空でした。
それでも風があまり吹かなかったから昨日のような寒さを感じませんでした。
昨日の記事で、旧暦では30日までしかなかったので
年越しそばを食べたと書きましたが(^_-)
旧暦について短くまとまった文章があったので転記しますφ(..)
陰暦と太陽暦
江戸時代の暦は陰暦あるいは旧暦(太陰太陽暦)と呼ばれるもので、
月の運行を元に作られたものでした。
ただし実際の季節の移り変わりは太陽の運行によって決まっています。
しかし、陰暦の場合には、これにかかわらず
1年を月の運行を元に十二か月に分けるので、
実際の季節とずれが出てきます。
そのずれを調整するために閏月を設けました。
(『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版』
青木直己 ちくま文庫 2016年)
閏月というのは、十二か月のうち同じ月が二度あることを言い、
伴四郎が江戸生活を迎えた万延元年(安政7年3月に改元)には、
3月に続いて閏3月があって3月が2度続いたのです。
また、閏月は後月とも呼ばれていましたが、閏月のない年もあり、
閏月が設けられた月は年によってまちまちでした。
そして月の大小も現在とは違い大の月が30日、小の月が29日で、
月の大小などを記した暦は家庭の必需品でした。
(『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版』
青木直己 ちくま文庫 2016年)
明治政府は近代化を推し進める必要から欧米の太陽暦(グレゴリオ暦)を採用し、
明治5年(1872)12月3日を明治6年正月元旦としました。
その結果、ほぼ一か月の違いが生まれ、
この約一月の違いが日本人の季節感に大きな影響を与えています。
(『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版』
青木直己 ちくま文庫 2016年)
良い例が節供(節句)でしょう。
3月3日の雛祭(上巳の節供)は水辺に出て汚れを払ったり磯遊びをします。
また、ヨモギを摘んで草餅を作って食べました。
雛祭りに貝を象(かたど)った菓子を食べるのは、
この日が水に関わる日に関係があるのでは、と私は考えています。
しかし、新暦に3月3日では磯遊びをするにはちょっと寒そうです。
例えば伴四郎が国元で娘の雛祭りを祝った万延元年の3月3日は、
新暦に直すと3月24日になります。
(『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版』
青木直己 ちくま文庫 2016年)
節供の例をもうひとつ、5月5日の端午の節供に柏餅を食べます。
この風習は江戸を中心に広まったものですが、
江戸時代の端午の柏餅にはみずみずしい新葉が用いられていました。
柏は新しい葉が出るまで古い葉が残っていることから、
家系の連続を第一に考えた武家など、
当時の人々の気持ちにも沿ったものでした。
しかし、今では保存しておいた前年の葉を使っています。
また、本来梅雨の晴れ間をさした五月晴れという言葉の使われ方も、
随分と違ってきました。
(『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版』
青木直己 ちくま文庫 2016年)
こうした例は年の初めの年賀状にも言えます。
あの寒い時に初春と言われてもピンとこないのですが、
旧暦の元旦は立春も近く梅の開花をひかえ、
まさしく春を迎えるに相応しい時でした。
(『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版』
青木直己 ちくま文庫 2016年)
最近では旧暦を見直す動きが盛んになって
「旧暦カレンダー」なども作られています。
一度旧暦で季節を味わってみるのも良いかも知れません。
(『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版』
青木直己 ちくま文庫 2016年)
正月さん 正月さん
どこまでおいでた
ばんばのこしまで
みやげは何じゃ
榧(かや)にかち栗
だいだいに楪(ゆずりは)
楪に餅いれて
重箱にごっつお入れて
飲み飲みござる (京都)
京の子どもたちは、「ばんば」とよぶ
舟岡山の南ふもとの姥ヶ懐(うばがふところ)(姥ヶ北町)まで、
正月の神を迎えに行った。
そこには、岩神社もあり、
山姥(やまんば)の出没する伝説もあったところである。
今は、その姥ヶ北町も、西陣の機音にみたされている。
(『わらべうた ― 子どもの遊びと文化』相馬大 創元社 1976年)
一年間はあっという間ですね(゜o゜;)
訪問していただいたみなさんに感謝しています。
来る年が皆様にとって幸多い年でありますように祈念しています。
明日は、新年の挨拶をするのですが、
伯母(父の実の姉)が5月に亡くなったので挨拶を控えさせてもらいます。
祖父は父が尋常小学校1年生の時に亡くなりました。
その時伯母は尋常小学校4年生だったと聞いています。
祖母と5人の子どもたちは(一番下の叔母はまだ祖母のおなかのなかに)
以来、極貧の生活を余儀なくされたことを何度も聞いています。