2018年12月2日日曜日

歩き始めは寒かったけど…

歩いているうちに日ざしが暖かいのでポカポカしてきました(^_^)b
(「天照大神の聖巡行」の続きです)
 天照大神が巡行した地は、天武天皇による壬申の乱に深く関わるところで、
これらの地を味方につけることによって天武の勝利がもたらされたことがわかる。
しかしこの天照大神の巡行と天武の転戦の経路を重ねることによって、
天照大神を単に天武の守護神のように位置づけることは早計だろう。
(『日本の聖地』久保田展弘 講談社学術文庫 2004年)
 もっとも天照大神と倭姫命の関係を、神と巫女の関係と見るか、
倭姫命をもって神の依代(よりしろ)と受けとめるならば、
祀る神が祀られる神になったと考えることも可能だろう。
しかし問題は、巡行のおわりに天照大神が倭姫命にたいし、
「この神風の伊勢の国は、常世(とこよ)の浪(なみ)のしきりに打ち寄せる国」
であるといい、
だから「この国に居たいと欲(おも)う」と述べるところである。
(『日本の聖地』久保田展弘 講談社学術文庫 2004年)
 伊勢は「海の彼方の幸いをもたらしてくれる理想郷」である常世、
そして「不老不死の生命の根源」であるところの
常世からの波が絶えず打ち寄せる国であったのだ。
志摩半島に接する伊勢野生みは、その豊饒を湛え、
天照大神はそれを知り得た神であった。
しかも伊勢は尾張・三河へとつづく海路の要地でもあったのだ。
(『日本の聖地』久保田展弘 講談社学術文庫 2004年)
 道教の中心的教説として広まってゆく神仙思想の伝来は、
この常世の表現によってもわかるが、
天照大神自身が欲し、鎮座した地が常世につながるところとなれば、
天照大神は神仙思想と深く関わる存在ということになる。
(『日本の聖地』久保田展弘 講談社学術文庫 2004年)
 伊勢に鎮座しようとする天照大神の言葉に、
伊勢について「傍国(かたくに)の可怜(うま)し国なり」とあるが、
垂仁帝の当時、伊勢は大和を中心とする王朝の観念からは「傍らにある国」であり、
しかし「美しい国」であったのだ。
王朝といっても、天武天皇の時代ですら、
たかだか東は三輪山・初瀬のあたりまでが王朝人の視界であり、
伊勢は大和の青垣である日向(ひむかい)の地、
さらに日出(い)ずる日の本(もと)の地である三輪山と、
日没するところの二上山とを結ぶ東西軸・聖なるラインのその東の果てであった。
しかしその東の果ての、つまり紀伊半島の東端の地こそ、常世に接する、
日の神の鎮座するにふさわしい聖地であったのである。
(『日本の聖地』久保田展弘 講談社学術文庫 2004年)
伊勢に関わる歌人は多いですが、その中から西行を紹介します。

厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど) 63歳~68歳ころ

  福原へ都遷(うつ)りありと聞きし頃、伊勢にて月の歌よみ侍(はべ)りしに

 雲の上(へ)や古き都になりにけりすむらむ月の影はかはらで

福原遷都の噂を聞いた頃、伊勢に居て月の歌を詠みました。
高貴の方々がお住いになっていた京も、いまは古い都となってしまいました。
月は相変わらず澄んでいるのでしょうに。
(『西行』井上靖 学習研究社 昭和57年)
  清盛京を出る
 治承(じしょう)4年(1180)、西行、63歳の時の作である。
 治承3年から4年にかけては長く全盛を誇っていた清盛を首班とする
平家一門に何となくひんやりとした暗い影が差し出した時期である。
性温厚で武勇の人として人望があった清盛の長男重盛の他界は治承3年7月で、
清盛と朝廷との対立の和解につとめて来た
(ただ)一人の人物は喪(うしな)われたことになり、
重盛の死は平氏一門にとっては大きな打撃であった。
 続いて4年4月には源頼政(みなもとのよりまさ)が以仁(もちひと)王を奉じて、
平氏打倒の兵を挙げている。
この乱は間もなく鎮圧されたが、
清盛はこの時期に山門、
南都堂衆(なんとどうしゅう)の動きに油断できぬもののあるのを感じ、
そうしたことを避けるには、都を、
自分たち平氏一門の地盤である福原に遷すことが最上だと考えた。
 遷都は突如行われた。
6月2日のことである。
後白河院初め、朝臣公卿(ちょうしんくぎょう)たちは即日福原に移った。
(『西行』井上靖 学習研究社 昭和57年)
 しかし、この遷都にはいろいろ無理が重なっていたので、
さすがの清盛もこれを押し切るわけにはゆかなくなり、
僅か半歳足らずの日子(にっし)で、11月22日に新都を棄て、
再び京へ還(かえ)らねばならなかった。
福原遷都は清盛がその晩年になした大きな失敗であった。
これと、前後して、東国(とうごく)に於ては各所に源氏が蜂起することになり、
清盛自身の死も一年足らずの先に迫っている。
 こうした歴史的背景を置いてみると、
伊勢に於て福原遷都の噂を耳にした時、西行の眼に浮かんだ京の町と、
そこに照る月の光は、ある凄絶なものを持っていたことであろうと思われる。
この歌には西行のいろいろな感懐が入っているだろうと思う。
(『西行』井上靖 学習研究社 昭和57年)
今朝の父の一枚です(^-^)
ついよくばって歩いてしまったと話していました。
また、母に近い年齢の方も同じ道を通らなくてもいいから
歩くのが楽しいと仰っていました。
一番助かるのは、自転車を気にせずに歩けることです(^_^)v

0 件のコメント:

コメントを投稿

申し訳ありませんが,日本語だけを受けつけますm(_ _)m