まだ咳が出ますが、体慣らしに歩いてみました。
大人しい霧と層雲
霧と層雲(そううん)は表裏一体で、
地面に接しているか大気中に浮かんでいるかの違いだけしかありません。
大人しくて可愛らしいこの子たちのしくみをフォローしておきましょう。
雨上がりの晴れた夜から翌朝にかけては放射霧(ほうしゃぎり)に出会えます。
日中は太陽からの放射で地上気温は上がりますが、
夜間は地球から赤外線の放射が宇宙に向って放出されて
気温の下がる放射冷却(ほうしゃれいきゃく)が起こります。
降雨で地上が湿っているときに放射冷却で気温が上がって生まれるのが放射霧で、
盆地や平野部で出会いやすい子です。
(『雲を愛する技術』荒木健太郎 光文社新書 2017年)
また、沿岸部では海霧に出会えます。
海霧は冷たい海面上に温かく湿った空気が
移流するときに生じる移流霧(いりゅうぎり)の1つです。
海上で発達した海霧が陸上に流れてくると、
あっという間に見通しが悪くなります。
(『雲を愛する技術』荒木健太郎 光文社新書 2017年)
冬の朝などに川から湯気のように立ち昇る川霧(かわぎり)も素敵です。
これは温かい水面上に冷たい空気が流れ込んで発生する蒸気霧(じょうきぎり)の1つで、
冬には畑や日本海など様々な場所に現れます。
このほかにも山地斜面で空気が上昇して発生する滑昇霧(かっしょうぎり)、
温暖前線の全面や寒冷前線の後面などで降水を伴って
地上の空気が飽和して生じる前線霧(ぜんせんぎり)、
層雲の雲底が低下して地上に達する雲底低下型の霧などがあります。
冬に積雪域に雨が降って水分量がなると、
積雪の融解で地上付近の空気が冷えるとともに
積雪中に水が蒸発して飽和に達することで生まれる霧もいます。
(『雲を愛する技術』荒木健太郎 光文社新書 2017年)
層雲や層積雲などでの層状の雲が大気下層にいるとき、
それを山の上などから見れば美しい雲海(うんかい)に出会えます。
層積雲は高度2km以下にいるので、ある程度高い山から見るのがオススメです。
霧(層雲)では特に放射霧は厚さ数十m程度で濃くなることもあるため、
高層ビルやマンションなどからでも雲海を楽しめます。
都心の高層マンションにお住まいの方は、
濃霧注意報が出た翌朝にはぜひ早起きをして、
霧に包まれた幻想的な街並みを激写してみましょう。
(『雲を愛する技術』荒木健太郎 光文社新書 2017年)
写真が豊富な本です。オススメですよ(^_^)b
楽しみに見ている番組「不思議な猫世界」(Eテレ月曜 午後9時30分~)
番組の中で『徒然草』の第89段が出ていました。
好きな段なので今日は、古文の方を転記したいと思います。
いつものことですが、原文通りではありません(o_ _)o
後日、現代文を転記しますφ(..)
第八十九段
「奥山(おくやま)に、猫またといふものありて、人を食(くら)ふなる」
と人の言ひけるに、
「山ならねども、これらにも、猫の経上(へあが)りて、猫またに成りて、
人とる事はあンなるものを」
後日、現代文を転記しますφ(..)
第八十九段
「奥山(おくやま)に、猫またといふものありて、人を食(くら)ふなる」
と人の言ひけるに、
「山ならねども、これらにも、猫の経上(へあが)りて、猫またに成りて、
人とる事はあンなるものを」
と言ふ者ありけるを、
何阿弥陀仏(なにあみだぶつ)とかや、連歌(れんが)しける法師の、
行願寺(ぎやうぐわんじ)の辺(へん)にありけるが聞きて、
独(ひと)り歩(あり)けん身は心すべきことにこそと思ひける比(ころ)しも、
或所(あるところ)にて夜更(よふ)くるまで連歌して、
たゞ独(ひと)り帰りけるに、小川(こがわ)の端(はた)にて、
音(おと)に聞きし猫また、あやまたず、足許(あしもと)へふと寄(よ)り来て、
やがてかきつくまゝに、頸(くび)のほどを食(く)はんとす。
(『新訂 徒然草』西尾実、安良岡康作校注 岩波文庫 1985年改版)
肝心(きもごゝろ)も失(う)せて、防(ふせ)かんとするに力もなく、
足も立たず、小川(こがは)へ転(ころ)び入(い)りて、
「助けよや、猫またよや猫またよや」
と叫(さけ)べば、
家々(いへいへ)より、松どもともして走り寄りて見れば、
このわたりに見知れる僧なり。
「こは如何(いか)に」とて、川の中より抱(いだ)き起(おこ)したれば、
連歌の賭物(かけもの)取りて、
扇(あふぎ)・小箱(こばこ)など懐(ふところ)に持ちたりけるも、水に入(い)りぬ。
希有(けう)にして助かりたるさまにて、這(は)ふ這ふ家に入(い)りにけり。
(『新訂 徒然草』西尾実、安良岡康作校注 岩波文庫 1985年改版)
飼(か)ひける犬の、暗(くら)けれど、
主(ぬし)を知りて、飛び付(つ)きたりけるとぞ。
(『新訂 徒然草』西尾実、安良岡康作校注 岩波文庫 1985年改版)
何阿弥陀仏 浄土宗・時宗において、僧侶の法名の下に付けた称号。
阿弥陀号・阿弥陀仏名(みょう)・阿号とも言い、略して、何阿弥・何阿とも称した。
この法師は、おそらく、時宗の僧について出家・受戒した、在家の沙弥・遁世者であろう。
そして、連歌にも半職業的に携わった者であろう。
行願寺 1004年、行円(ぎょうえん)が開いた寺。
革堂(かわどう)とも言われ、京の一条の北、油小路の東にあった。
現在は、中京区寺町通り竹屋町に移っている。
小川の端 行願寺のあたりを流れる川の名。「端」は、川のへり。
(『新訂 徒然草』西尾実、安良岡康作校注 岩波文庫 1985年改版)
あやまたず、足許へふと寄り来て 狙(ねら)いはずさず、足もとへツイと寄って来て。
やがてかきつくまゝに すぐにとびつくや否や。
肝心も失せて 正気を失う。肝をつぶす。「防く」は、このころは清音。
助けよや、猫またよや猫またよや 助けてくれよう。猫まただよう、猫まただよう。
松どもともして 松明(たいまつ)に火をつけて。
連歌の賭物 勝負事に賭ける物品。
連歌の席では、秀逸な句を作った者に与えることになっていた。
(『新訂 徒然草』西尾実、安良岡康作校注 岩波文庫 1985年改版)
* 「猫またよや『猫またよや』」など<くの字点>の箇所を替えています。
何阿弥陀仏(なにあみだぶつ)とかや、連歌(れんが)しける法師の、
行願寺(ぎやうぐわんじ)の辺(へん)にありけるが聞きて、
独(ひと)り歩(あり)けん身は心すべきことにこそと思ひける比(ころ)しも、
或所(あるところ)にて夜更(よふ)くるまで連歌して、
たゞ独(ひと)り帰りけるに、小川(こがわ)の端(はた)にて、
音(おと)に聞きし猫また、あやまたず、足許(あしもと)へふと寄(よ)り来て、
やがてかきつくまゝに、頸(くび)のほどを食(く)はんとす。
(『新訂 徒然草』西尾実、安良岡康作校注 岩波文庫 1985年改版)
肝心(きもごゝろ)も失(う)せて、防(ふせ)かんとするに力もなく、
足も立たず、小川(こがは)へ転(ころ)び入(い)りて、
「助けよや、猫またよや猫またよや」
と叫(さけ)べば、
家々(いへいへ)より、松どもともして走り寄りて見れば、
このわたりに見知れる僧なり。
「こは如何(いか)に」とて、川の中より抱(いだ)き起(おこ)したれば、
連歌の賭物(かけもの)取りて、
扇(あふぎ)・小箱(こばこ)など懐(ふところ)に持ちたりけるも、水に入(い)りぬ。
希有(けう)にして助かりたるさまにて、這(は)ふ這ふ家に入(い)りにけり。
(『新訂 徒然草』西尾実、安良岡康作校注 岩波文庫 1985年改版)
飼(か)ひける犬の、暗(くら)けれど、
主(ぬし)を知りて、飛び付(つ)きたりけるとぞ。
(『新訂 徒然草』西尾実、安良岡康作校注 岩波文庫 1985年改版)
何阿弥陀仏 浄土宗・時宗において、僧侶の法名の下に付けた称号。
阿弥陀号・阿弥陀仏名(みょう)・阿号とも言い、略して、何阿弥・何阿とも称した。
この法師は、おそらく、時宗の僧について出家・受戒した、在家の沙弥・遁世者であろう。
そして、連歌にも半職業的に携わった者であろう。
行願寺 1004年、行円(ぎょうえん)が開いた寺。
革堂(かわどう)とも言われ、京の一条の北、油小路の東にあった。
現在は、中京区寺町通り竹屋町に移っている。
小川の端 行願寺のあたりを流れる川の名。「端」は、川のへり。
(『新訂 徒然草』西尾実、安良岡康作校注 岩波文庫 1985年改版)
あやまたず、足許へふと寄り来て 狙(ねら)いはずさず、足もとへツイと寄って来て。
やがてかきつくまゝに すぐにとびつくや否や。
肝心も失せて 正気を失う。肝をつぶす。「防く」は、このころは清音。
助けよや、猫またよや猫またよや 助けてくれよう。猫まただよう、猫まただよう。
松どもともして 松明(たいまつ)に火をつけて。
連歌の賭物 勝負事に賭ける物品。
連歌の席では、秀逸な句を作った者に与えることになっていた。
(『新訂 徒然草』西尾実、安良岡康作校注 岩波文庫 1985年改版)
* 「猫またよや『猫またよや』」など<くの字点>の箇所を替えています。