2018年12月27日木曜日

穏やかな朝

昨日は、皮膚科でウオノメとタコをとってもらいました。
だいぶ前に左足の小指と親指にマメができて
そのうちに治るだろうと思っていました。
でも、いつまでたっても治るどころか痛みが増してくる…
先週、皮膚科を受診してテープを貼ってもらいました。
「1週間後に来てください」といわれて、昨日受診しました。
テープを剥がすとマメがかさぶたのように白くふやけていました。
それをピンセットでゆっくり剥がしてもらいました。
麻酔をする必要もなく剥がれました。
治療の明細書を見ると「鶏眼(けいがん)・胼胝(べんち)」と記入されていました。
マメとばかり思っていましたが、ウオノメ(鶏眼)とタコ(胼胝)でした(^^ゞ
25日の記事の最後に
岩崎眞美子さんの『和ごよみで楽しむ四季暮らし』より
田道間守(たじまもり)が垂仁天皇に

「時じくの香の木の実」と呼ばれる不老不死の実を
持ち帰るよう命じた話が記されていますが、
それは今の橘の実であったと言われています。


と紹介しましたが、この話は日本書紀と古事記に書かれています。
日本書紀と古事記とでは、違いがあるのですが
古事記の方を紹介したいと思います。
最初に現代語訳を転記します。
なお、古事記では「多遅摩毛理(たじまもり)」となっています。
多遅摩毛理(たじまもり)
 また(垂仁)天皇は、三宅連(みやけのむらじ)たちの祖先で、
名は多遅摩毛理という人を、常世国(とこよのくに)に派遣して、
季節を問わず芳しく実る〝ときじくのかくの木(こ)の実(み)〟をお求めになった。
(『新版古事記 現代語訳付き』中村啓信訳注 角川文庫 2009年)
そして多遅摩毛理は、ついにその国に行くことができ、
その木の実を手に入れて、冠(かんむり)の形に実のついたもの八連、
串刺形(くしざしがた)に実を貫いたもの八本を持ち帰る間に、
天皇はすでに崩御なさっておいでであった。
(『新版古事記 現代語訳付き』中村啓信訳注 角川文庫 2009年)
そこから、多遅摩毛理は、冠(かげ)状の物四連と串状の物を分けて皇后に献上し、
冠状四連・串状四本を天皇の御陵(ごりょう)の入り口に供え置いて、
その木の実を手に取り礼拝し、叫び泣いて、
「常世国(とこよのくに)の、時じくの香(かく)の木(こ)の実を持ち帰り参上し、
 御前に仕え居(お)ります」と申し上げた。
(『新版古事記 現代語訳付き』中村啓信訳注 角川文庫 2009年)
多遅摩毛理はそのまま叫び泣き果てて死んだ。
その時じくの香(かく)の実というのは、今の橘(たちばな)のことである。
 この天皇の御寿命は百五十三歳。
御陵は、菅原(すがわら)の御立野(みたちの)の中にある。
(『新版古事記 現代語訳付き』中村啓信訳注 角川文庫 2009年)
また、その皇后比婆須比売命(ひばすひめのみこと)の薨去(こうきょ)の時に、
石棺作(いしきつくり)を定め、また土師部(はにしべ)を定めた。
この皇后は、狭木(さき)の寺間(てらま)の御陵に葬り申し上げた。
(『新版古事記 現代語訳付き』中村啓信訳注 角川文庫 2009年)
(古文)

 また、(垂仁)天皇、三宅(みやけ)の連等(むらじら)が祖(おや)
名は多遅摩毛理(たぢまもり)をもちて、常世(とこよ)の国に遣はして、
ときじくのかくの木の実を求めしめたまひき。
かれ、多遅摩毛理、つひにその国に到りて、
その木(こ)の実を採り、縵八縵(かげやかげ)・矛八矛(ほこやほこ)をもちて、
(も)ち来(こ)し間に、天皇(すめららみこと)すでに崩(かむあが)りましき。
(『古事記』西宮一民 新潮社 昭和54年)
しかして、多遅摩毛理、縵四縵(かげよかげ)・矛四矛(ほこよほこ)を分けて、
大后(おほきさき)に献(たてまつ)り、縵四縵・矛四矛をもちて、
天皇の御陵(みはか)の戸に献り置きて、
その木の実を擎(ささ)げて叫(さけ)び哭(おら)びて白(まを)ししく、
 「常世の国のときじくのかくの木の実を持ち参上(まゐのぼ)りて侍(さもら)ふ」
と、つひに叫び哭びて死にき。
そのときじくのかくの木の実は、これ今の橘(たちばな)ぞ。
(『古事記』西宮一民 新潮社 昭和54年)
 この(垂仁)天皇の御年、壱佰(もも)ちあまり伍拾(い)ちあまり参歳(みつ)ぞ。
御陵(みはか)は菅原(すがはら)の御立野(みたたしの)の中にあり。
また、その大后比婆須姫(おほきさきひばすひめ)の命(みこと)の時に、
石梘作(いはきつくり)を定め、また土師部(はにしべ)を定めたまひき。
この后は、狭木(さき)の寺間(てらま)の陵(はか)に葬(はぶ)りまつりき。
(『古事記』西宮一民 新潮社 昭和54年)
多遅摩毛理 天之日矛(あめのひほこ)の子孫。新羅系帰化人の氏族。
 但馬(たじま)の国守(くにもり)の意であろう。
常世の国 理想郷。
ときじくのかくの木の実 「時じく」は、時を定めず常にあること。
 「かく」は「香(かぐ)」ではなく「輝く」の意。
 橘の黄金色をいう。
縵八縵・矛八矛 「縵八縵」は葉のついたままの数多くの橘。
 「矛八矛」は串刺しにした多くの橘。
 橘は新嘗祭供御料(しんじょうさいくごりょう)として重要であった(『延喜式』内膳司条)。
大后 皇后比婆須姫(ひばすひめ)命をさす。
叫び哭びて 悲しみのあまり絶叫慟哭する。
 「おらぶ」は大声で泣き叫ぶの意。
 古代の橘は、今日の橙(だいだい)の類。
 髪飾りとして長寿を願い(今日でも正月の飾り物)、街路樹として植えた。
壱佰ちあまり伍拾ちあまり参歳ぞ 百五十三歳。
菅原の御立野 今の奈良市尼辻(あまがつじ)町の地にある。
石梘作 「石梘作」の「梘」は「櫬(ひつぎ)」の古字か。
 墓の石棺石室を作る部民。
土師部 土器の埴輪を作る部民。
狭木の寺間 今の奈良市山陵(みささぎ)町山陵前の地にある。
(『古事記』西宮一民 新潮社 昭和54年)