2018年12月13日木曜日

青空が見えて(^-^)

青空が広がり気持のいい朝でした(^-^)
昨日の記事で白洲正子さんの言葉の中に「ほかいびと」がありました。
その「乞食者(ほかひ)」の歌が万葉集に二首載っています。
長いですが転記したいと思います。
行変えをしていますが、原文は続いてます。
巻第十六(有由縁 雑歌を幷せたり)  3885
  乞食者(ほかひ)の詠(うた)二首

いとこ 汝背(なせ)の君 居(を)り居り 物にい行くとは 
韓国(からくに)の 虎(とら)といふ神を 
(い)け捕(ど)りに 八(や)つ捕(と)り持ち来(き) 
その皮を 畳(たたみ)に刺(さ)し 八重畳(やへたたみ) 
平群(へぐり)の山に 四月(うづき)と 五月(さつき)との間(ま) 
薬狩(くすりがり) 仕(つか)ふる時に 
あしひきの この片山
(かたやま) 二つ立つ 
(いちひ)が本(もと)に 梓弓(あづさゆみ) 
(や)つ手挟(たばさ)み ひめ鏑(かぶら) 八つ手挟み 
鹿(しし)待つと 我(わ)がをる時に 
さ雄鹿
(をしか)の 来立(きた)ち嘆(なげ)かく 
たちまちに 我は死ぬべし 
大君(おほきみ)に 我は仕(つか)へむ 
(あ)が角(つの)は み笠(かさ)のはやし 
(あ)が耳は み墨壺(すみつほ) 
(あ)が目らは ますみの鏡 
(あ)が爪(つめ)は み弓の弓弭(ゆはず) 
(あ)が毛らは み筆(ふみて)はやし 
(あ)が皮は み箱(はこ)の皮に 
(あ)が肉(しし)は み膾(なます)はやし 
(あ)が肝(きも)も み膾はやし 
(あ)がみげは み塩(しほ)のはやし 
(お)いはてぬ 我(あ)が身一つに 
七重(ななへ)花咲く 花咲くと 
(まを)しはやさぬ 申しはやさぬ
  右の歌一首は、鹿(しか)の為(ため)
  痛(いた)みを述(の)べて作りしものなり。
(『万葉集(四)』佐竹昭広他校注 岩波文庫 2014年)
◆乞食者の歌二首
いとしい人、我が背の君が、ずっと家に居たままで、
どこかへ行くというのは辛(から)いという韓国(からくに)の虎という神を、
生け捕りで八頭捕らえて来て、その皮を畳に縫って作り、
(八重畳)平群の山に、四月と五月の間に薬狩にお仕えする時に、
(あしひきの)この片山に、二本立つ櫟の木の下に、
梓弓を八張(やはり)手に持ち、ひめ鏑の矢を八本手に持って、
鹿を待つために私がいる時に、牡鹿が来て立ったまま嘆いて言うことには、
たちまち私は死んでしまうでしょう。大君に私はお仕えいたしましょう。
私の角は御笠の飾り、
私の耳は御墨壺、
私の目は澄んだ鏡、
私の爪は御弓の弓弭、
私の毛は御筆の料、
私の皮は御箱の皮に、
私の肉は御膾の材料、
私の肝も御膾の材料、
私の胃は御塩辛の材料に。
老い果てた私の身一つに、
七重にも花が咲く、八重にも花が咲くと、
申し上げて誉めそやして下さい。
申し上げて誉めそやして下さい。
  ◇右の歌一首は、鹿のために痛みを述べて作ったものである。
(『万葉集(四)』佐竹昭広他校注 岩波文庫 2014年)
▽「乞食者」は、吉事を招くため歌舞し祝言を献ずる巡遊の芸能者。
初句の「いとこ」は人を親しんでいう語。
「居り居りて」は、ずっと家に居続けての意。
第三・四句は、その後に他の所へ行くのは
「辛(から)し」という気持から「韓国(からくに)」を導く序詞。
「虎といふ神」は、「虎」を畏敬して言う。
虎皮は敷物の料。
「畳に刺し」とは虎皮を敷物に仕立てること。
以上、初句から「畳に刺し」までは「八重畳」の序詞。
「八重畳」はその「やへ」のへの同音で地名の「平群」の枕詞。
「平群の山」は奈良県生駒郡平群町の山。
「薬狩」は鹿の袋角(鹿茸)や薬草などを採取する行事。
「ひめ鏑」はどんなや鏑矢か、未詳。
(『万葉集(四)』佐竹昭広他校注 岩波文庫 2014年)
「たちまちに」以下は牡鹿の言葉。
「我が角」「我が耳」と、身体の各部分がそれぞれめでたく
「大君」の御用に立てられることを「物尽くし」風に列挙する表現は、
弘計(おけ)王(顕宗天皇)が鹿の角を頭に被って踊りながら詠った
室寿(むろほぎ)の歌の
「築(つ)き立つる柱は、この家長(いへのきみ)の御心のしづまりなり、
 取り挙ぐる棟梁(むねうつはり)は、この家長の御心のはやしなり…」
(日本書紀・顕宗天皇即位前紀)にも似る、芸能者の祝言の一つである。
「み笠のはやし」の「はやし」は、「栄やし」で、
立派にするもの、ここは好材料の意。
角・耳から肝・みげまでの鹿の九つの部分のうち、
耳が墨壺に、目が鏡になると言うのは、実際の用途ではなく、
鹿の角が墨壺の形に似ていて、
鹿の目が鏡のように物の影をよく映すことによる見立てであろう。
「墨壺」は材木に直線を引くための大工道具。
「ふみて」は「筆(ふで)」の古形。
鹿毛の筆は、文字用ではなく、主に罫線を引く際に用いた。
(『万葉集(四)』佐竹昭広他校注 岩波文庫 2014年)
巻第十六 3886
おし照(て)るや 難波の小江(をえ)に 
(いほ)作り 隠(なま)りて居(を)る 葦蟹(あしがに)を 
大君召
(め)すと 何せむに 吾(わ)を召すらめや 明(あきら)けく 
わが知ることを 歌人(うたびと)と 
(わ)を召すらめや 笛吹(ふえふ) 
(わ)を召すらめや 琴弾(ことひき) 
(わ)を召すらめや かもかくも 命受(みことう)けむと 
今日今日と 飛鳥(あすか)に到(いた)り 立てれども 
置勿(おくな)に到り 策(つ)かねども 
都久野
(つくの)に到り 東(ふむがし)の 中(なか)の門(みかど)ゆ 
参納
(まゐ)り来(き)て 命(みこと)受くれば 
馬にこそ 絆(ふもだし)(か)くもの 
牛にこそ 鼻縄(はななは)はくれ 
あしひきの この片山の もむ楡
(にれ)を 五百枝剝(いほえは)ぎ垂(た) 
天光(あまて)るや 日の異(け)に干(ほ)し 
(さひづ)るや 唐臼(からうす)に舂(つ)き 
庭に立つ 手臼(てうす)に舂(つ)き おし照るや 
難波の小江(をえ)の 初垂(はつたり) 
(から)く垂(た)れ来て 
陶人(すゑひと)の 作れる瓶(かめ) 
今日行き 明日取り持ち来(き) 
わが目らに 塩漆(ぬ)り給ふ 
(きたひ)(はや)すも 腊賞すも
  右の歌一首は、蟹の為に痛(いたみ)を述べて作れり。
(『万葉集 全訳注原文付(四)』中西進 講談社文庫 1983年)
照りわたる難波の入江に、
小屋を作って隠(かく)れている葦蟹を大君が召されるという。
どうして私を召されるはずがあろう。
そのことは私もはっきり知っているものを。
歌うたいとしてお召しになるはずもない。
笛吹きとしても召されることがあろうか。
琴弾きとして召すはずもない。
とにかくも御命令を受けようと、今日の日、今日の日と明日になる飛鳥に到り、
物が立っているのに、わざわざ置勿に到り、
杖をつかないのに都久野に到り、
大宮に着くと東の中の御門から参り入って来て御命令を受けると、
馬にこそ絆は掛けるもの、牛にこそ鼻縄はつけるものだのに。
あしひきのこの片山の、もむ楡の皮を五百枝も剝いで垂らし、
空に照る日に毎日干し上げ、
囀るような唐臼に舂き、庭に据えた手臼で舂き、
照りわたる難波の入江で採れた塩の初垂を辛く垂らし、
陶器師の作った瓶を今日いって明日には持って来て、
私の目に塩を漆られて、乾肉として賞味なさるよ。
乾肉として賞味なさるよ。
(『万葉集 全訳注原文付(四)』中西進 講談社文庫 1983年)
 仮の宿り。蟹の掘る穴をいう。
葦蟹 葦辺の蟹。
召すらめや メスは食料として。
 ところが蟹は伎人として召すと解し、後半の食料としての様子と対比させる。
 フミ(踏)ホダシ(絆)の約。
 自由に歩けないようにするもの。
 腹をしばる縄のことか。フンドシの語源。
(『万葉集 全訳注原文付(四)』中西進 講談社文庫 1983年)
陶人 陶器(すえき)を作る人。
 陶器は素焼の土師(はじ)器に対して釉をかけた器。
 渡来人の住む特定地域で生産。
 当時蟹は腊(せき)と胥(しょ。舂いて塩漬けにしたもの)として宮中に食された。
蟹の為に痛を 鹿の歌同様、蟹運びの集団が所作をもって歌った歌謡で、
 蟹の立場に立つ痛みを述べる要素と、貢上者への奉仕とを歌う。
 蟹踊り歌は応神記にもある。
(『万葉集 全訳注原文付(四)』中西進 講談社文庫 1983年)
共に進化するオンリーワンのパートナー
イヌビワ クワ科
[木をおぼえる短歌]
イヌビワのコバチ接待冬の花 仲人終わり秋の甘い実

 イヌビワはイチジクの仲間で、ビワの仲間ではありません。
名前をつける時、イチジクがまだ浸透してなかったので
(イチジクは江戸時代以降に渡来)、
ビワより劣るという意味の名前になってしまいました。
イチジクの仲間は、葉や枝を傷つけると白い液が出てきます。
これは防虫の役割があると思われます。
イチジク属の最大の特徴は、袋のような物の中に花が咲くことです。
一見実に見えるものが花で、コバチの仲間が穴に入り、受粉を助けます。
イチジクの仲間はイタビカズラやアコウ、ガジュマルなど、
南方の木が多いですが、イヌビワは関東から九州にかけて分布し、
寒さに適応した種類です。
秋の黄葉はとてもきれいで、低木なので目を引きます。
甘くて黒い実がなり、鳥が食べて広げ、
都内の公園には増えているように見えます。
(『散歩が楽しくなる 樹の手帳』岩谷美苗 東京書籍 2017年)
 イヌビワの実は、イヌビワコバチがいないと受粉できません。
そのため、イヌビワはイヌビワコバチに
食事つきの冬の別荘(雄花)を準備しています。
越冬し羽化したコバチは若い雄花にたどりつき、中で産卵し、死にます。
一方、雌の花に入ったコバチは産卵できる花を探しまわり、
結局産卵できずに、死にます。
コバチがいなくなると、イヌビワは実がならないし、
イヌビワが無くなるとコバチは産卵できないのです。
この共生関係丸ごと一緒に進化してきたので、
個々ではなくイヌビワとセットで扱うべき生き物たちなのです。
(『散歩が楽しくなる 樹の手帳』岩谷美苗 東京書籍 2017年)