2018年12月3日月曜日

雨の合間に

雨が止んでくれるのを待って出かけると
てるてる坊主が待ってくれていました(^_^)v
  世の中に武者(むしゃ)おこりて、西東(ひんがし)北南いくさならぬところなし。
  うちつづき人の死ぬる数きく、おびただし。
  まこととも覚えぬ程なり。
  こは何事のあらそひぞや。
  あはれなる事のさまかなと覚えて

死出(しで)の山越ゆる絶え間はあらじかしなくなる人の数(かず)つづきつつ
(『西行』井上靖 学習研究社 昭和57年)
世の中に武士というものが現れて来て、
東西南北、いくさをしていなところはなくなってしまった。
次から次へと、人は死んでゆき、
その数は聞くところによると夥(おびただ)しいもので、まこととは思えぬほどである。
一体これは何事の争いなのであろうか。
あわれというか、おろかというか、沙汰の限りに思われて。

亡くなる人は次から次に続いて、
死出の山(冥土の山)を越えてゆく人の群は絶えることがない。
おそろしいことである。
(『西行』井上靖 学習研究社 昭和57年)
  絶えざる死者の群れ

 これは治承(じしょう)4年(1180)からあと、
五、六年続く源平争覇(そうは)の乱世時代の地獄の様相に対する懐(おも)いを、
怒りをこめて詠んだものである。
従って、西行の63歳(治承4年)から68、9歳あたりまでの間に作られたものと見ていいであろう。
 まことに、この数年間は「西東(ひんがし)北南いくさならぬところなし」である。
治承4年5月に頼政(よりまさ)が以仁(もちひと)王を奉じて、平氏打倒の兵を挙げている。
頼政の戦死、以仁王の自刃(じじん)で、この乱は治まるが、
8月は頼朝(よりとも)が伊豆で挙兵、9月には義仲が信濃で同じく兵を挙げている。
そしてこれを契機として関東にも、関西にも合戦騒ぎが起こり、
越前、北陸では、平氏の追討軍が次々に義仲の軍に破られている。
(『西行』井上靖 学習研究社 昭和57年)
 寿永(じゅえい)2年(1183)7月には義仲は京に入り、平氏一門は西国に奔(はし)る。
しかし、それから幾許(いくばく)もなく翌3年正月には、
義仲の軍は宇治にて義経に破られ、義仲は粟津(あわづ)で敗死している。
続いて翌4年3月には、壇ノ浦(だんのうら)にて平氏一門は滅亡する。
こうした打ち続く戦乱で喪(うしな)われた人の数はたいへんなものであろうと思われる。
まことに「死出の山越ゆる絶え間はあらかし」である。
(『西行』井上靖 学習研究社 昭和57年)
伊勢と言えばすぐに思いつくのが伊勢物語(^_-)
伊勢物語第六十九段の現代語訳を転記します。

  第六十九段  狩の使
 昔、男がいた。
その男が伊勢の国に狩の使で行ったときに、その伊勢の斎宮だった人の親が、
「いつもの勅使より、この人をよくもてなしなさい」と言ってやったので、
親の言葉だったからたいそう鄭重(ていちょう)にもてなした。
朝には狩の仕度(したく)をととのえて送り出し、
夕方に帰って来るとすぐに自分のそばに招いた。
こうして心をこめた世話をしたのだった。
(『伊勢物語』中野幸一訳注 旺文社文庫 1990年)
二日めという夜、男が「ぜひともお逢いしたい」と言う。
女もまた、どうしても逢いたくないとは思っていない。
けれど人目が多いので逢うことができない。
使いの中でも代表格の人なので、遠くの所に泊めたりもしない。
女の寝所の近くにいたので、女は人々を寝静まらせて、
(ね)の一刻のころに男のもとにやって来た。
男もまた寝られないので、外の方を見やって横になっていたが、
月の光がおぼろにさす中に小さい童女を先に立てて人が立っている。
男はとても嬉しくて、自分の寝所に連れて入って、
子の一刻から丑(うし)の三刻まで一緒にいたが、
まだどれほども語り合わないうちに帰ってしまった。
男はたいそう悲しくて、そのまま寝ないで過ごしたのだった。

子の刻は午後11時から午前1時までの二時間。
 これを四刻に分けて一つ二つと呼ぶ。
 「子一つ」は午後11時半ごろ。
丑の三刻 午前2時半ごろ
(『伊勢物語』中野幸一訳注 旺文社文庫 1990年)
翌朝、気がかりでならないが、こちらから使をやるわけにもいかないので、
ひどくじれったい気持で待っていたところ、
すっかり夜が明けてしばらくしたころに、女のもとから、手紙の文句はなくて、

  君や来(こ)しわれやゆきけむおもほえず夢かうつつか寝てかさめてか

(あなたがおいでになったのでしょうか、それとも私がうかがったのでしょうか、
 夢の中でのことだったのか、現実のことだったのか、
 寝ているうちのことだったのか、目ざめているときのことだったのか、
 それさえはっきりわからないでいるのです。)
(『伊勢物語』中野幸一訳注 旺文社文庫 1990年)
男は大泣きに泣いて歌を詠んだ。

  かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとは今宵(こよひ)さだめよ

(悲しみにまっ暗になった心の闇の中でさまよって、何も判断がつきませんでした。
 ゆめであったか現実であったかは、今夜おいでになってはっきりさせて下さい。)

と詠んでやって狩に出立した。
(『伊勢物語』中野幸一訳注 旺文社文庫 1990年)
野を狩して歩いていても心はうわの空で、
今夜だけでも人を寝静めてたいそう早く逢おうと思っていると、
伊勢の国守で斎宮寮の長官を兼任している人が、
狩の使いが来ていると聞いて、夜を徹して酒宴を催したので、
まったく逢うこともできず、夜が明けると尾張の国へ立つことになっているので、
男は人知れず血の涙を流して嘆くが、逢うことができない。
(『伊勢物語』中野幸一訳注 旺文社文庫 1990年)
夜がしだいに明けようとするころに、女たちの席から出してよこした盃の皿に、
(女は)歌を書いてさし出した。
手に取って見ると、

  かち人の渡れど濡(ぬ)れぬえにしあれば

(徒歩で行く人が渡っても濡れないほど浅いご縁でしたので……)

と書いて下(しも)の句はない。
(男は)その盃の皿にたいまつの燃え残りの炭で、歌の下の句を書き継いだ。

  またあふ坂の関はこえなむ

(ふたたび逢坂の関を越えて逢いに参りましょう。)

と詠んで、夜が明けたので尾張の国へ国境を越えて行ってしまった。
斎宮は水尾の帝(みかど)の御世のお方で、
文徳天皇の皇女、惟喬(これたか)の親王(みこ)の妹にあたる方である。
(『伊勢物語』中野幸一訳注 旺文社文庫 1990年)
再び雨がポツポツと降り出したので帰りを急ぎました。
後日、古文の方を転記したいと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿

申し訳ありませんが,日本語だけを受けつけますm(_ _)m