2018年12月30日日曜日

日向に出ると…

手袋をしていても指先が痛いほどでした。
歩いている間に日差しが暖かくなり、日向に出るとホッとしました(^。^)
旧暦では30日までしかないので今日が大晦日になります。
と言うことではないですが、明日の混雑を避けて
父と妹の三人で年越しそばを食べてきました(^。^)
調べると「歳暮」という本来の意味が昔と今では変わってきています。
歳暮(せいぼ)
 正月を前にして、年末に行われる贈答。
中元とともに、普段、世話になっている人々に
感謝の意を込めて贈り物をする機会とされ、
食料品をはじめとするさまざまな物がやりとりされている。
子から親へ、仲人子から仲人親へ、分家・別家から本家・主家へ、
弟子から師匠へなど、総じて子方から親方へ贈るケースが多く、
現代では会社の上司や取引先が主たる対象となっている。
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 三省堂 1999年)
最近では12月の声を聞くとすぐに歳暮商戦がはじまるが、
もともとは暮のごく押し詰まった時期に行われていたもので、
本来は大晦日に限られていたようである。
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 三省堂 1999年)
反物や履物・日用品なども用いられたが、
伝統的には鮭や鰤(ぶり)・鱈(たら)などの
魚(地方によりスルメや鰯(いわし)なども)を用いることが多く、
米や餅・そばなどもよく使われてきた。
これらは要するに年取りの食物である。
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 三省堂 1999年)
中元が盆の魂祭りの供物に発していると考えられると同様に、
歳暮は暮から正月にかけての魂祭りの供物で、
年神への供物ないしは年神から授かる年玉と一つ所から分化したもの、とする考え方がある。
たとえば静岡県焼津市には、大晦日に墓に供える香花をお歳暮花と呼んでいる。
 (小嶋)
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 三省堂 1999年)
東都歳時記』より「歳暮交加圖」(63/73 国立国会図書館)
今日の「龍谷ミュージアム元館長のつぶやき」に

マハトマ・ガンジーの墓碑に記されている「七つの大罪」。

「理念なき政治」「労働なき富」「良心なき快楽」
「人格なき知識」「道徳なき商業」
「人間性なき科学」「献身なき崇拝」

改めて噛みしめたいと思います。
道元の『正法眼蔵随聞記』より
八 真実内徳無うして人に貴びらるべからず」の口語訳を転記したいと思います。
〔口語訳〕
 夜話に言われた。
 ほんとうに内におさめた徳もないのに、人からあがめられてはならない。
わが国の人は、真に内徳をさぐり知ることができず、
表に見えるかたちだけで人をあげめるので、
道心のない修行者はすぐさま悪い方へひっぱられ、
仏道をさまたげる魔の手下になってしまう。
人にあがめられまいと思うのはたやすいことである。
身を捨て世間にそむく様子をして見せる人は、かえって、
うわべだけで真実の道心者ではない。
表面はただ、なんということもなく世間の人と同じようにしていて、
内心を調えてゆくのが、ほんとうの道心ある者である。
(『正法眼蔵随聞記』水野弥穂子訳 ちくま学芸文庫 1992年)
 であるから、古人も、「内を空(むな)しくして外は世の中の風に従う。」と言って、
心のなかに自分に対する執着がなく、表面は一般の人と同じようにしていくのである。
自分の身、自分の心ということを全く忘れ去って、
仏法に入り、仏法のきまりどおりに行ってゆけば、
内心も表面もともによく、現在も将来もよいのである。
(『正法眼蔵随聞記』水野弥穂子訳 ちくま学芸文庫 1992年)
 仏法の中でも、むやみに身を捨てて、世間にそむくからといって、
捨ててはならない事をすてるのは間違いである。
わが国では仏法者とか道心者とかを表看板にしている人の中にも、
身を捨てたのだからといって、人はどうとも見るがいいと思って、
わけもなくみっともないふるまいをし、
あるいはまたこの世に執着しないといって、
雨ふりに仕度(したく)もせず、ぬれながら歩いたりするのは、
内心のためにも、表面の行ないのためにも、ともに無益であるのに、
世間の人はすぐさまこれをありがたい人だ、
世に執着しないなどと思っているのである。
かえって、仏のきまりを守り、戒律の内容もわかって、
自らの行ないも他のための行ないも仏のきまりどおりに行なう人を、
名誉、利益を気にする人だと思って、世人も相手にしないのである。
けれどもそれがまた、自分にとっては仏の教えにも順い、
内心の徳も、表にあらわれた徳も、できてくることになるのである。
(『正法眼蔵随聞記』水野弥穂子訳 ちくま学芸文庫 1992年)