2018年5月3日木曜日

憲法記念日

雨が止んでくれたのでリハビリ散歩に出かけましたp(^-^)q
公園に入ると甘い蜜柑の花の香がただよってきました♪

公園には橘の花は咲いていませんが

六十段
五月(さつき)待つ花橘の香をかげば
     むかしの人の袖の香ぞする

<五月を待って咲く橘の花の香をかぐと、昔なじみの人のなつかしい袖の匂いがする>
着物に香をたき染(し)める習いであったので、橘の花の香から昔なじみを思い出す、というのである。
(『伊勢物語』)

蜜柑の木にいたのが
アゲハチョウのよう虫」(動画)

隣にいるのはヨコバイの仲間(^。^)
(かへるで)のプロペラ型の実を見れば南風(みなみ)うけつつそよがぬぞなき
(『宮柊二歌集』)
雨明くなりし目前(まさか)のひつじ草  臼田亜浪
(『講談社版 カラー図説日本大歳時記[座右版]』 昭和58年)
セグロセキレイに久しぶりに会えましたが、忙しそうでした(^0^;)

夕風や水青鷺(あをさぎ)の脛(はぎ)をうつ

夕風立ちそめた水辺に、身じろぎもせずに立ち尽くす一羽の青鷺。
小波(さざなみ)がその脛(はぎ)を打ち続ける。
「波」でなく実質的な「水」、「脚(あし)」と説明せず「脛」と擬人化した具象化に注目される。
(『與謝蕪村集』)
マガモのつがいのようなんだけど…
ここで夏を過ごすつもりかな?
我が国へ渡来するカモ類の渡りについて」(環境省)
薔薇が咲き日がさしそれが見えてゐるこんなことさへただのことなのか
(『明石海人歌集』)
なんかにらまれているように見えました。
ナガサキアゲハのメスのようです。
(ゆ)の花やゆかしき母屋(もや)の乾隅(いぬゐずみ)

母屋の北西の一隅に、何代も前からの柚(ゆず)の花がひっそりと香気を放っていて奥ゆかしい。
柚の花(花柚とも)は寒地にも生育するが、成長は遅い。
夏、白色五弁の小花を開く。
この「ゆかし」は芭蕉の「柚の花や昔しのばん料理の間」(『嵯峨日記』)を踏むか。
毛馬(けま)村の生家の回想かもしれない。
乾隅 北西隅。屋敷神を祀(まつ)る方位。
(『與謝蕪村集』)

与謝蕪村と都島」(大阪市都島区)
歩道やベンチが真っ白になる位…
母と来ていた時もコーヒーを飲みながら眺めていました。
あかしやの花ふみくれば薬局に昨夜のままなる灯が残りゐて
(『中城ふみ子歌集』)
今朝の父の一枚です。
ツバメを撮していましたp(^-^)q

○ ○ ○ ○

夕食は、父と妹と三人で外食です。
今日は、少し寒かったので温かい鴨なんばんをいただきました(*´∀`*)

● ● ● ●

今日は「憲法記念日」です。
なにかを隠し、我々を欺すために空しい言葉を発しているように思える
そんな首相が憲法を変えようとしていることに危惧を感じます。
直接、憲法論議と関係の無い蕪村の句ですが、
竹西寛子さんの言葉に対する真摯な姿から
学ぶことが多いと思いますので、長くなりますが転記したいと思います。

  愁(うれ)ひつつ岡(をか)にのぼれば花いばら

 漢字には、同じよみでも意味の違うものがたくさんある。
違い方は、ごくわずかの場合もあれば大きく開いている場合もある。
「見る」と「視る」、あるいは「看る」。
「思う」と「想う」、「憶う」。
「立つ」「建つ」「佇つ」「樹つ」、など。
漢和辞典を引けば分ることなので、ここでいちいち義解はしない。
 この使い分けを面倒だと言ってしまえばそれまでだが、そうではなくて、物や事への関わり方を、つまり事物との関係を、つね日ごろなおざりにではなく見分け、感じ分け、考え分けた古人の遺産だと思うと、ただ面倒だと言ってはいられなくなる。
難しい、難しいと言って逃げるばかりではすまなくなる。
すでに生き、すでに死んだ人々の心のはたらきが、物に対し、事に応じていかに多種多様であったかを証明している例の一つなのだから。
古人の心を知るには、学ばなければならない。
 ただ、用いる漢字は多ければいいというものではない。
かりに「おもう」を「思う」一語に限るとすれば、「想う」や「憶う」で表された心の状態と内容は、「思う」の前と、「思う」のあとに続く言葉との関係で補い表してゆくことになる。
 単純をとうとぶのは自由、簡潔も大切だが、本来多様であり得る心のはたらきを、すすんで単純にしなければならない理由はないと思うし、心のはたらきの多様さは、人間らしさのうちなので、自分からすすんで人間らしさを捨てることもあるまい。
私自身は、両者を臨機応変、自由に活用するのがよいと考えている。
 蕪村の右の句、「愁ひつつ」は、なぜ「憂ひつつ」でないのか。
「憂愁」という語もあることだし、大差はないと言われる方があるかもしれないけれど、私は大差があると読むので、一句の中の一文字の重みは決していい加減にはできない。
それほど発句という詩型は、作者にも読者にも緊張を要求する。
「愁」はむろん「憂」ではない。
「旅愁」「哀愁」「愁眉(しゅうび)」「愁嘆」の「愁」。
「愁ひつつ」が「憂ひつつ」ではなく生きるのは、「花いばら」とのつり合いにおいてだということが、句をくり返し読んでいるうちに自然に分ってくる。
牡丹とも、大輪のばらとも違う「花いばら」。すなわち野ばら。
「愁い」は「憂い」ほど重く沈まない。
「困ったこと」とか「悩みごと」という意味にとると、限定されすぎて、そこはかとない広がりをせかれてしまう。
平安時代の若い貴族が、男といわず女といわず、人生の初期に経験するとりとめのない「ものおもい」を、私たちは歌や物語、日記の中でしばしば知らされてきたが、あのような気分がいちばん近いのではないか。
 この句の「愁ひ」は少年少女の心境ではないし、壮年、老年に入った人の思ひでもない。
やはり青春期の心の状態をさしている言葉としか思われず、だから句の場としての岡も、「花いばら」も、いっそう「愁ひ」をひき立てるという関係であろう。
 この句と、高浜虚子の、「春風や闘志いだきて丘に立つ」をくらべてみる。
すると、一句一句で読むよりも、個々の句の特色がはっきりする。
虚子の、挫(くじ)けそうなわが志を鞭打(むちう)って雄々しく丘に立つ句にくらべると、蕪村のほうは、うつ向き加減な甘さが特色である。

(…略…)

「愁ひつつ」の句は、そうした拠り所を教わっても、ひとり立ちしている蕪村の句としての確固としたリズムがあって、五、七、五、どの語句も、互いを必要とする緊密さで成り立っている。
「花いばら」の使い方がうまい。 
(『竹西寛子の松尾芭蕉集 与謝蕪村集』集英社 1987年)

2 件のコメント:

  1. こんにちは~=^_^=
    アゲハチョウの幼虫の動画見ました
    初めて見ましたがなるほどこうなるんだって勉強になりました
    普段は中々この様な変化は見れませんから
    旦那様もおぉ~と言って見入っていました=^_^=

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    1. 蘭☆☆さんこんばんは(*^O^*)/
      「NHK for School」の「クリップ」に見たいなと思うことを入力する
      授業で使われている動画を見ることができます。

      http://www.nhk.or.jp/school/clip/

      理科だけでなく、いろんな動画がアップされているので一度ためしてみてください(^_^)v

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申し訳ありませんが,日本語だけを受けつけますm(_ _)m