6ヶ月に一度の眼底検査を受けました。
前回と硝子体剥離(飛蚊症)の症状が進んでいないようです。
全身麻酔で手術をした影響もありませんでした。
散瞳剤(瞳孔を広げる目薬)の影響で外に出ると眩しくて
午前中は家で大人しくしていました。
午後から図書室に向かいました。
行きは小雨程度でしたが、3時過ぎに帰ろうとしたら土砂降りになっていました。
父の故郷奄美地方は梅雨入りしたそうです。
図書室で石牟礼道子さんの『石牟礼道子歳時記』を転記していました。
というのは
ETV特集「わが不知火はひかり凪(なぎ) 石牟礼道子の遺言」
を見て、石牟礼さんの本を読んでみたくなったのです。
5月10日(木) 午前0:00~(水曜深夜)に再放送があります。 |
品切れになっている 『石牟礼道子歳時記』(日本エディタースクール出版部 1978年) |
手型の樹
(…略…)
そのようなわたしにも、五官の箍(たが)がすっかり解けほどけて、朦朧たる酔いの中に落ちこむような季節が年に一時期やってくる。
蜜柑の蕾がほころびはじめる五月である。
蜜柑は眺める花ではなくて、わたしどもを昆虫のような気分にさせる花である。
夕闇に、山深い谿の底をたばしる、水の匂いを嗅いだような気がしきりにする。
家に来ていた若い友人が、
「あら、なんだか蛍の匂いがする」
という。
彼女は海辺の高校の先生をしているのだが、故郷の山に気の早い蛍が出ていて、それを嗅ぎ当てているのかしら。
それにしても彼女の故郷は、ここから百三十粁(きろめーとる)の彼方である。
「蛍、蛍かな?」
また彼女は鼻をくんくんさせた。
なんだか惑わされかけるが、彼女のくにからぐっと下った南方の渚辺である。
蛍というのはいかにも早すぎる。
ああと思い当ってわたしは胸ときめき、昏れやらぬ外に出る。
宵の空に、まだ開かぬ蜜柑の白い蕾がびっしり、若芽のあいだに泡立つようにふくらみながら浮き出ているのである。
深山の谿の匂いのように感ぜられるのは、蜜柑の樹の下に、露を含みはじめた羊歯(しだ)や黄楊(つげ)や、蘭のいろいろや、夜香木の類のいとなみによるのだろう。
それにもまして、ふうわりふくらんで、まだ開かぬ蕾の中からひろがってくる高い香りがる。
「谿の匂い、水の匂いに似ている! そういえば、蛍の匂いかも」
「はい、蛍のいる水辺の匂い」
彼女が蕾の粒々を見上げながらそうこたえた。
ただでさえ分厚い葉を密生させる南国的なこの樹は、着果後の摘果を怠り、実を成らせすぎると、枝の端が地上に垂れて来て、天にむけて伸びるいとまがない。
昔、ここらの海岸の崖などに流れついていた、原生種の蜜柑は、こんなにやわな、実をつけるとたわんでしまうような樹ではなかったのだが、近年の栽培種は、実沢山に実沢山にと悪改良して、うっかりすると枝先が地上に垂れてしまう。
そのような樹であれなんであれ、毎年開花の時期がくる。
来る年も来る年も、いっぽんの樹からこのように甘美で、高雅な香りを発するとは、いかなる神秘が宿っているのであろうか。
こういう香りに逢うとは、樹というものの官能は、よほどに奥深いいとなみを隠しているにちがいない。
ましてやこの香りが、したたるような果実となるのである。
植物界と人間界とは分かち難い間柄にあって、いのちを養ってもらったお返しに、死ねば昔は、野山のこやしとなるのが当たり前だった。
わたしの父は遺言によって土葬にしたが、その後わが村でさえ、墓地が過密になって値上がりして、新しい墓など買えたものではない。
それに近ごろ、火葬にして、お墓のアパートにはいるのがハイカラなような風潮でもある。
父の墓のあるところを桜山と称び、梶井基次郎さんの小説を思い出すが、桜の巨木が年毎に大きくなって、
「桜山の死人さんたちは、毎年毎年、よか花見じゃなあ」
と村の人たちは云う。
茣蓙を持って行って墓の間に座りこみ、死人さんたちといっしょに花見をしたりする。
人は桜の下に埋めるが、蜜柑の樹の下には、牛馬や犬や豚や、山羊や兎、もっともひんぱんには、猫たちが代々埋められている。
そのようなものたちの墓じるしとして育っている蜜柑の樹が多い。
そもそも、今実をつけている蜜柑や梅や枇杷や、柿や桃などを植えておいた人間たちは、もうほとんど、この世のものではないのである。
わたしの村でおぼえているかぎり、おじいさんたちとか、ひいじいさんたち、あるいはその前の人たちが植えたものが多い。
そのような人たちは、稚木の苗を持って来て植えこむとき、微笑みながら云った。
「我が口にゃ、入るみゃあばってん、墓の中から、孫どもが喜こぼうで」
わたしの家の松太郎じいさまもそう云って、天草から「とてもよか夏蜜柑の苗」をわけてもらって来て、山こば、と称んでいる段々畑の片隅に植えておいてくれた。
彼は墓の中に入り、孫どもの代になってから、特別おいしい夏蜜柑が成るようになった。
友人たちに送ってよろこばれているが、水俣病にかまけているうち、鉄砲虫とかにやられ、一番大きな、姿のよかった樹が、去年から枯れはじめた。
この樹はわが家代々の牛一頭と、犬三匹と、山羊一頭と、猫たちの墓じるしでもあった。
実の成る有用植物のことを、ここらあたりでは「成る樹もの」という。
そしてまた、「死んだものの手型の樹」ともいう。
よその家の畑の、成る樹ものの下に、子供たちが行かぬように、むかし子供の頃、よその成る樹ものが欲しくてならなかった年寄りたちが、苗を植える。
若い盛りには働きもあるから、桃栗三年柿八年などと、成るやら成らぬやらわからぬ苗を植えるような、気長なことは云っておれぬ。
蜜柑も買える、桃も買えると思う。
老い先短くなってくると、まだ生まれてもいない子孫にむけて、おじいさんおばあさんが居った、というしるしを、成る樹ものに託して植えておくのである。
「うちのじいちゃんが、死ぬ前に植えておいて呉れらした樹ですばい。死んだものの足の型は残らんばってん、手の型は残るちなあ。おかげさまで、孫どもが口に入りますがな」
孫や曾孫どもは、祖父母の手型の樹を教えられるが、祖父母の顔は知らないのである。
そういう梨の大樹や、枇杷の古木の花期によく出逢う。
つい三十年くらい前までは、どんな貧しい家でも、梨か柿か梅か蜜柑か、どれか一本なりと子孫のために植えこむ庭の片隅というものがあった。
借地であっても、そこにいる間は植えたものたちの樹であった。
いま、果物類さえ季節が来ぬうちに市場に氾濫し、くされてしまう生産機構を考えようとすると、果物の心ももう殺されて、金になるモノとしてしか扱われていないことに気がつく。
なんだか、作って出す方も買う方も、煩悩がうすくなった。
いまはなき人たちの手型の〝成る樹もの〟の実が、ごくまれに、大量速成栽培の果物類にまじり、先祖たちの心を知るすべもない都市生活者の味覚に、まぎれこむことがあるかもしれぬ。
そのような樹の実は、味の密度と香りがひときわ鮮烈である。
往年の甘藷畑、すっかり蜜柑団地となった不知火海沿岸の、開花の時期ともなれば、見えない虹のように幾重にも流れてくる香に搦めとられ、嗅覚の無防備なわたしは、幾週間もうわのそらですごす。
(『石牟礼道子歳時記』日本エディタースクール出版部 1978年)
普段の記事ではこんなに長く引用できませんので転記しましたが、
原文通りではありませんし、誤記入があると思いますので
図書館などで読んでみてください。
こんばんは~
返信削除ほんとうに今日の雨は土砂降りでしたねぇ~。
>硝子体剥離(飛蚊症)の症状が進んでいないようです
進んでいなくてよかったです。
術後は少し心配になりますね。
私も緑内障が前回同様に進んでいないと聞いてほっとしました。
最近、ある年齢になると眼科検診も大事だなぁ~と思っています。
カイさんこんばんは(*^O^*)/
削除今日も雨が降って肌寒かったですね…
>私も緑内障が前回同様に進んでいないと聞いてほっとしました。
Kazeも1年に1回視野検査をしています。
視野に障碍がおきても脳がそれをカバーしようとするので
自覚症状が出てくるころには病状が進行しているそうです。
定期的に病院で検査を受けることが大事ですね!