2018年5月6日日曜日

穏やかな連休最後の朝(^。^)

午後からは怪しい天気になりましたが
朝は、晴れて穏やかでした。

  この年の春
草むらに白き十字の花咲きて罪なく人の死にし春逝く
(「皇后陛下 御歌三首 平成二十三年」より)
イボタノキ(モクセイ科
ネコハエトリのメスだと思います。
睡蓮に跼(かが)みしことは今はじめ  後藤夜半
(『講談社版 カラー図説日本大歳時記[座右版]』 昭和58年)
  けしの散る光ひまなし枕元  桜井梅室(さくらいばいしつ)

病臥中の作であろうか。
枕もとの花瓶(かびん)にさしてあるけしでもよいし、縁先の庭に咲いているのでもよい。
その白い花びらがつぎつぎにひらめき落ちる気配が、臥(ふ)していても感じられるのである。
けしの散るときは、まことにもろく、とめどもなく散る。
その連続として散るさまを「光」としてとらえたのは、確かに鋭い感覚ともいえるが、
「ひまなし」はやや言いすぎの感がある。
季語は「けし」で夏。
(『近世俳句俳文集 日本古典文学全集42』
       栗山理一他校注・訳 小学館 昭和47年)
坂道をくだり来つれば薔薇苑は香に籠りつつうすら日の照る
(『明石海人歌集』)
  朴散華即ちしれぬ行方かな  川端茅舍(ぼうしゃ)

 散華(さんげ)とは仏に供養するため花を散布すること。
あるいは花のように散る意から華々しい戦死をいう。
<朴(ほお)散華>は朴の白い花の散ることだが、死を意味する心象風景の造語だろう。
作者は庭に朴の木を植え、大輪の花を愛していた。
それが散るときわが運命も尽きると臨終の床で考えながら、死後の世界が分らない。
そんな自問の果てに得た一句である。
 茅舍は岸田劉生(りゅうせい)に師事した画家志望だったが、
病弱のせいもあって画業を断念。
すでに「ホトトギス」で頭角を現しており、やがて俳句に専念するようになった。
長年親しんできた仏教語を駆使して茅舍浄土ともいわれる俳世界を構築し、
最期(さいご)の絶唱ともいうべきが掲出句である。
中七<即ち>に覚悟が見えて安らかな辞世の句というべきだろう。
(『きょうの一句 名句・秀句365日』村上護/新潮文庫 平成17年)
野いちごの朱に初恋の人おもう  小寺燕子花
(『川柳歳時記』奥田白虎編 創元社 昭和58年)
桑の実に昔話の花が咲き  杉崎かつみ
(『川柳歳時記』奥田白虎編 創元社 昭和58年)
(たちばな)ではありませんが…

  廬橘(ろきつ)、衣(ころも)に薫(くん)
うたた寝の 夜の衣に かをるなり もの思ふ宿の 軒(のき)のたちばな

物思いをしながらうたた寝をしていると、わが家の軒の橘が匂ってきて、
夜着が馥郁(ふくいく)と薫っている。
廬橘、衣に薫ず 橘の花が衣に芳香を漂わせている、の意。
(『金槐和歌集(旧版)』昭和56年)
  虫のため害(そこな)はれ落ツ柿の花

柿の白い花が落下し続ける。
こんなにたくさん落ちるのはただごとではない。
虫害のためだというが、その通りかもしれない。
理詰めにならず、かえって詩情をたたえる妙趣。
(『與謝蕪村集』)
今朝の父の一枚です。
アゲハが翅を広げて体温を上げているようでした。
人には気持ちいい気温でも、蝶には低いようです。

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