ネムノキの蕾が膨らんでいました(^-^)
クリの花(雌花)
栗のいがまだをさなくてゆさゆさとゆるる家族を信州に置く 岡井 隆
(『現代の短歌』)
いらだちてゐること多きと思ひをりざくろの朱(あか)花揺るる日を 中大路佳郷
(『昭和萬葉集 巻二十 昭和五十年の回顧 昭和50年』講談社 昭和55年)
をみなにてまたも来む世ぞ生(うま)れまし花もなつかし月もなつかし 山川登美子
『現代短歌全集』第17巻の内「山川登美子(とみこ)集」(昭4)所収。
師与謝野鉄幹への愛を鳳晶子(ほうあきこ)に譲り、よそに嫁したが夫に死別、
「明星」に復帰して才筆をうたわれたのもつかの間、死病を得て三十歳で夭折した。
後半生はとても幸福とはいえなかったのに、間近に迫る死の予感の中で、
来世もまた女に生れたいもの、と歌う。
なぜと問う隙も与えないほど切実な、「花もなつかし月もなつかし」の調べ。
(『新編折々のうた』大岡信/朝日新聞社 1983年)
松の木ではありませんが(^_-)
松の木に蜘蛛の網(い)かきたるに、露(つゆ)の置(お)きたるを見て
ささがにのいとどはかなき露といへど松にかかれば久(ひさ)しかりけり
と見ゆるほどに、消(き)ゆれば
はかなしや朝日まつ間(ま)の露を見て蜘蛛手(くもで)に貫(ぬ)ける玉(たま)と見(み)けるよ
「ささがに」は蜘蛛。
「いとど」は、もともとはかないのが、蜘蛛の巣にかかると一層、の意。
「はかなしや」 露のはかないことと、自分のたあいないことをかけた。
「や」は間投助詞。
「朝日まつ間…」 朝日を待って消えるまでの間、松の梢の間にかかった露を見て、
蜘蛛の手のように四方八方に貫いた玉と見ていたことよ。
(『和泉式部集・和泉式部続集』)
紅薔薇に雨少年の日の孤独 山上樹実雄
(『図説俳句大歳時記 夏』角川書店 昭和39年)
罌粟(けし)ひらく髪の先まで寂しきとき 橋本多佳子
(『日本の詩歌30 俳句集』中央公論社 1979年)
花びらを受けとめている
ひと日臥し卯の花腐し美しや 橋本多佳子
(『季語辞典』文 関淳子 パイインターナショナル 2012年)
シジュウカラの頭が風に吹かれて
ニワトリの鶏冠(とさか)のようになっている(^。^)
タイサンボクの花が下の枝でも咲いてくれている。
母は目の前に咲いている花を見るのが好きだった。
天恵へ泰山木は花捧ぐ
(『俳句で綴る変哲半生記』)
卯月野のほとけの親にあひに来し 西島麦南(ばくなん)
前書に「展墓帰郷」とある。作者は熊本県の出身。
一時は武者小路実篤の「新しき村」に参加した。
上京後は岩波書店に勤め漱石や露伴、龍之介の著作を校正し、校正の神様とも称された。
熊本へは何十年ぶりかの帰郷だったという。
時がたてば、親の死もなつかしいものの一つ。
その情緒は<ほとけの親>の表現ともなっており、
卯月すなわち陰暦四月の明るさの中に<あひに来>たというのだ。
俳句は飯田蛇笏(だこつ)に師事し「雲母(うんも)」創刊時からの古参。
「吹く風もふるさとの香の椎(しい)の花」
「迎火や六親風のはるかより」などの句もあり、
掲出句は人生を達観した人の故郷への感慨がさらりと表現されている。
(『きょうの一句 名句・秀句365日』村上護/新潮文庫 平成17年)