2018年5月23日水曜日

大阪市立美術館~四天王寺

雨が降っていたので大阪市立美術館にやってきました(^-^)
(時間がなくて転記間違いが多いと思います)
目的は特別展「江戸の戯画-鳥羽絵から北斎・国芳・暁斎まで」を見たかったのです(^。^)
ここは、撮影スポット!
こういうサービスは楽しいですね(^-^)
盛りだくさんだったので途中で座ったりしながらのんびり楽しみました♪
見ていると笑いの原点は変わらないなと思いました。
通天閣を横目に見て
茶臼山(ちゃうすやま)・河底池(かわぞこいけ)・和気橋(わけばし)
 大坂冬の陣では徳川家康の本陣となり、
夏の陣では真田幸村が布陣(ふじん)し激戦地になった茶臼山は、
奈良時代に和気清麻呂(わけのきよまろ)が河川内(かせんない)の流水を
南に引こうとした河底池とともに、天王寺公園の風景となっています。
 和気橋は、延暦7年(788年)和気清麻呂が
旧大和川(やまとがわ)の流れを変えるために
上町台地(うえまちだいち)を開削(かいさく)した際、
茶臼山古墳の濠(ほり)を利用した名残が
河底池であると伝えられていることから「和気橋」と名付けられています。
 一心寺仁王門縁起
この山門は平成9年4月、第十二期お骨佛開眼大法要にあわせて、
平成7年より二ヶ年をかけて建立されました。
仁王尊は彫刻家・神戸峰男氏による5メートル余の青銅像であります。
左側・口を開いている阿形(あぎょう)像は心の邪念を戒(いまし)め、
右側・口を閉じた吽形(うんぎょう)像は世の紊(みだ)れを睨(にら)んでおります。
扉の四人の天女は画家・秋野不矩(ふく)氏の原画を神戸氏が浮彫りされました。
インドから日本にいたる佛教世界の文化を帯して少しずつ顔やお姿が違います。
インドの佛蹟では人々がその胸と腰にふれて、生命のご利益とされます。
昭和20年に空襲で焼失した旧山門が大坂城玉造り御門の移築と伝えられ、
「黒門」とよばれていたことに因(ちな)んで、
新山門もまた今日的意匠による黒い門として復興いたしました。
そろそろお昼時と思っていると大衆食堂が目に入ったので
親子丼セットを食べることにしました(^。^)
年配のご夫婦がされていて昔ながらの食堂といった感じで
地元の方から愛されているお店だなと思いました。
「そば処深川」
竹本義太夫の墓のある超願寺の創立は古く、
推古天皇の22年(614)聖徳太子の草創と伝えられ、
太子が蘇我馬子の末子慧観(えかん)を住まわしめたといわれる。
慧観は太子より与えられた経論・仏舎利を納めるため三重塔を建てたが、
舒明天皇の代に再三付近に火災があったので、
これが類焼を防ぐた泥土をもってこの塔を塗りこめた。
このことによって、人々はそれを土塔と称し後に寺の山号ともなり、
また、この地を土塔村と呼ばれる起因ともなったといわれている。
  初代竹本義太夫の墓
 初代竹本義太夫は、1651年(慶安4)にこの超願寺に程近い
摂津国東成郡天王寺村南堀越の農家に生れた(堀越神社付近に生誕の地の碑あり)。
通称五郎兵衛。
当初、当時人気の浄瑠璃(三味線伴奏の語り物)語り井上播磨掾(はりまのじょう)
弟子である清水(きよみず)理太夫に入門し、播磨掾の芸風を学ぶ。
後に京都に出て、宇治加賀掾のもとで清水五郎兵衛と名乗ったようである。
1677年(延宝5)興行師・竹屋庄兵衛に擁されて清水理太夫と名乗り、
京都で旗上げするが失敗。
諸国を遍歴した後、竹本義太夫を名乗り、
1684(貞享元)大坂道頓堀に竹本座を創設した。
竹は竹屋の一字から、義太夫は義を重んずるという彼の信念から名乗ったという。
1698年(元禄11)頃、朝廷より竹本筑後掾藤原博教の名を許され、
1714年(正徳4)9月10日没。享年64。
 彼が創設した「竹本座」は、能楽・歌舞伎と並ぶ三大国劇に数えられ、
今日の「人形浄瑠璃文楽」の源流である。
彼の創始した浄瑠璃の一流は、その名をとり「義太夫節」と呼ばれ、
文楽はもとより歌舞伎等、日本の伝統芸能に不可欠な音楽となっている。
初代竹本義太夫は、江戸期の大阪が生んだ日本を代表する芸術家である。
 当寺の墓石は元からのものではなく、義太夫の百回忌にあたる1813年(文化10)に
子孫の竹本喜義太夫なる人物の建立と伝わる。
その後、1893年(明治26)に当時の義太夫節のプロの同業者組合である「因社」により、
境内の元々あった場所より現在地に移設・修復された。
さらにその墓石が破損したため、義太夫の三百回忌を記念し、
人形浄瑠璃文楽座因講が、2013年(平成25)8月に、
文楽座ならびに、松竹株式会社、義太夫協会、文楽ファン等からの寄付により新に墓石を建立、修復した。
   2013年(平成25)人形浄瑠璃文楽座 因講
クスノキのパワーに圧倒されましたp(^-^)q
  庚申堂由来記
 庚申堂は四天王寺南大門より南200米の処にあり、本尊は、青面金剛童子を祀る。
今から1200余年前、人皇第42代、文武天皇のみ代、大宝元年春庚申の日はじめて本地を示し、我朝に降臨し給う。
その由来をたづねると、このまえ、日本にいろいろと疫病が流行り、諸人大いにこれをなやみ、
良医の薬をもとめ、高僧のいのりなど、さまざまであったが、なんの効験もなかった。
この頃津の国、四天王寺に民部(みんぶ)の郷僧都毫範(きょうそうづごうはん)という貴い御僧があって、
慈悲の心ふかく、広く人間のなやみをたすけようと、天にいのる丹誠のあまり、
あらたなる霊験を得て、諸人のなやみをまぬがれしめた。
時に正月七日庚申の日であったが、年の頃が16才ぐらいとおもわれる一人の童子があらわれて、
僧都のみまへで、帝釈天のおつかわしの者であるが、天の命によって、汝が人間のなやみをあわれむ、
その至誠を感じて、我を天より下さしめ、除災無病の方便をあたえようとのお告があった。
以来毫範阿闍梨の感得した青面金剛童子を、祀ることとなった。
 庚申の日は一年に6度或は7度あって、この日青面金剛童子に祈れば必ず一願をかなえられ、
特にこれを申の刻に行うと身も心も清浄になり、
又百味の飲食を供えて本尊を念ずると、この世の罪科速やかに滅し、宿願が成就するのである。
これすなわち庚申の霊験といって、我が国庚申のはじめであり庚申を祀ろうとする者は、
皆当寺に来て免許を得、尊天の分身を勧請するのを例としたのである。

平成30年庚申まいり
 日本最初青面金剛童子會式
1月 初庚申 27日(土)、28日(日)
3月 28日(水)、29日(木)
5月 27日(日)、28日(月)
7月 26日(木)、27日(金)
9月 24日(月)、25日(火)
11月 23日(金)、24日(土)
百度石の上に
言わざるが乗っています。
後の猿はわかりますね(^_-)
三猿堂の中を覗くと
見ざる、言わざる、聞かざるが並んでいました(^-^)
こちらにも三猿が鎮座しています(^_-)
離れていますが庚申堂は四天王寺の「境内ご案内」に載っています。
門の左側に祠がありました。
谷の清水一名清水の井戸
天明9年(1789)の「摂州大阪地図」に本清水としてこの井戸の所在が示され
「摂津名所関会」には谷の清水、庚申堂の南一丁ばかりあり、
清泉にして甘味なり四天王寺名水の其の一なりと云ふと出ている。
この地の旧字名、清水はこの井戸から出た名であって今一般には清水の井戸と呼ばれている。
この清水の元井戸は西南方崖上にある噴井でその湧水を土管を地下に通して導き
戦後冷房用に地下水のため水がとまってしまった。
清水地蔵尊はいつごろつくられたか不明であるが
明治32年と明治43年両度の清水改築記念碑がたっている。
(案内板の文字が不鮮明だったので間違って読んでいると思います)
南大門が見えてきました。
熊野権現礼拝石(くまのごんげんらいはいせき)
この標石は熊野権現の礼拝石といい、
四天王寺四石(転法輪石、引導石、伊勢神宮遥拝石、熊野権現礼拝石)の一つである。

平安・鎌倉時代に盛んであった熊野詣りの道筋は京都の宇治から大阪の天満まで淀川を船で下り
天満から四天王寺・住吉大社・和歌山の田辺を通るもので、熊野街道と呼ばれた。

四天王寺西門信仰と同じく、熊野三山が極楽往生を願う浄土信仰の聖地として篤く信仰されたことから、
人々はまず当山に詣でた後、ここで熊野の方向を礼拝し、熊野までの道中安全を祈ったといわれる。
太子殿
聖徳太子をお祀りしているお堂(天王寺のご廟)で、正式には「聖霊院(しょうりょういん)」といいます。
太子信仰の中心となっています。
前殿には十六歳像・太子二歳像・四天王が奥殿には太子四十九歳像(1月22日のみ公開の秘仏)が祀られています。
毎年2月22日の「太子二歳まいり」ではお太子様の知恵にあやかるべく、
2歳前後のお子たちを連れたご家族で賑わいます。
奥殿基壇内(地下)にはご信者さんにより永代奉安された太子観音像
[極楽・水子・施薬・知恵・厄除・子育の六観音]が安置されております。
他に毎月22日の太子忌法要、 六観音法要、そして毎年10月22日経供養には信者さんより奉納された写経も併せて供養されます。
(「境内ご案内」)

一日違いで見ることができなかったのが
物部守屋(もののべのもりや)の祠
普賢菩薩(ふげんぼさつ)
文殊菩薩と並んで釈迦如来の脇侍として
慈悲をもってあまねく一切衆生を救う菩薩です
普賢菩薩は、法華経を信仰する者の前に六牙の白象の乗って出現し、守護すると同経に説かれます
また、法華経は女人成仏を説く教典として広く知られており、平安時代以降女性の讃仰をあつめました
さらに普賢菩薩には特に延命の徳があるとされています
石柱に「太子殿猫の門」とあったので…
眠り猫かな(^。^)
大阪府指定有形文化財(昭和48年指定)
四天王寺石槽
 縦  1.99メートル
 横  1.15メートル
 高さ 0.87メートル
 深さ 0.57メートル
 花崗岩の一材を刳り貫いて造った石槽で、もと四天王寺西大門の西南外に手水鉢として使われていたものである。
外表は全面を粗く敲打して、平面を長楕円形にまとめ、自然石の面をとどめていない。
槽の外面には胴膨みがみられる。
槽内と頭部がひろく脚部がややすぼまる形をとり、内径は長軸が1.63メートル、短軸0.94メートルをはかる。
槽内は平滑にみがかれ、周縁部内周に一段の縁取りをつけるなど、稀にみる丁寧なものである。
なお、この石槽の頭部には、周縁と同じ高さでつづく平面円形の特徴ある装飾がみられる。
この装飾は、幅40センチメートル、出13センチメートル、高さ24センチメートルで、途中に一条の彫線があり、上面に一円孔が穿たれている。
こうした装飾を持つ例として大津市勝華寺の弘長3年(1263)銘の亀を掘出したものがあり
それと似た丁重な造りであって、本石槽の製作が鎌倉時代にさかのぼることをうかがわせる。
元来境内のどこにあったかは明らかにし難いが、中世の石造遺品として貴重である。
長持形石棺蓋(ながもちがたせっかんふた)(上)
       古墳時代
荒陵(あらはか 現在の茶臼山付近)から出土したものとされる。
いつの頃からか四天王寺境内に移されて亀井堂東の小溝に架けられ、
江戸時代にはその形態から、巻物(まきもの)石、蛙(かえる)石とも呼ばれていた。
この橋を渡ると安産になると評判になり、四天王寺の七不思議の一つとして言い伝えられてきたが、
明治時代になって古墳時代の石棺の蓋であることが判明してからは移転し、保管されている。

石鳥居(いしのとりい) 笠石かさいし 部分)(下)
  鎌倉時代 永仁2年(1294)
西門(さいもん)石鳥居(重要文化財)は、四天王寺の浄土信仰を象徴する建造物である。
鳥居の創建は平安中期と推定され、初めは木造であったが、鎌倉時代・永仁2年(1294)、
当時の別当であった忍性(にんしょう)上人(1217~1303)の発願により木造から石造に改められた。
幾度の災害により、石鳥居も伽藍同様被害を受け、その度に修復を重ねて今日に至っている。
笠石とは鳥居の最上部のことで、本品は忍性建立の石鳥居笠石の一部と伝える。

祖父母、義弟が眠っている墓をお参りしました。
昨日の告別式は、梅雨時なのに青空だったそうです。
浄瑠璃(義太夫節)界先師石塔群
これらの石塔類は、能楽・歌舞伎と並んで日本の三大国劇の一つと呼ばれる、
大阪で生まれた「人形浄瑠璃」(現在の文楽)界の功労者を顕彰するために、
四天王寺境内に門弟等によって建立された供養塔である。
当初からこの様な一群であった訳ではなく、
近年において判明しているだけでも1925年6月、1933年7月に整備されたものであるが、
江戸時代の著名な芸能者の供養塔がこの様な形で集まっているものは珍しく、又貴重なものである。

○初代豊竹若太夫供養塔(1681~1764) (詳細は省略。以下同)
○二代竹本義太夫供養塔(1691~1744)
○初代竹澤彌七墓石(?~1754)
○初代・二代竹本春太夫墓石(初代?~1784),二代(?~1790)
○初代鶴澤清七供養塔((?~1826)
○文正翁曲帯塚
○豊竹此太夫夫妻宝塔

四天王寺境内には他にも義太夫三味線の元祖「初代竹澤権右衛門の碑」や「人形遣いの碑」などがある。
これらの石塔は2013年、初代竹本義太夫の三百回忌を記念し、人形浄瑠璃文楽座因講が、
文楽座並びに文楽ファン等の寄付により、大規模な修復を行った。
  2013年(平成25)人形浄瑠璃文楽座 因講
雨は降っていましたが、ひどい雨にあわずに歩けました。
途中の駅で下車して本屋さんに
神谷美恵子さんの『生きがいについて』を購入しました。
この本は、学生時代に友達が読んでいて知っていたのですが
気になりながらも題名が苦手だったので読まずにいました。
でも、100分de名著 「生きがいについて」神谷美恵子
若松英輔さんが解説して下さっているのを聞いて読みたくなりました。
「江戸の戯画展」の図録も買ったのですが、ズッシリと重たい…
今回もリュックで行ったので美術館の後、歩くことができました。