2017年1月30日月曜日

応急処置で

今朝は雨が降っていたのでリハビリ散歩を止めました。
昨日の午後のことですが、腸の内視鏡検査の後、
母の状態が悪く、支えてあげないと歩けない状態です。
要介護の認定を受けていますが、急に悪くなったので
申請をしていては時間がかかるので
(去年に認定を受けたのですが、母が嫌がるので利用しませんでした)
昨日の午後、父とホームセンターに行って材料を探してきました。
父が、取っ手をつけて
σ(^_^;がトイレの手すりを設置しました。
正式なものを設置した方がいいのですが
しばらくこれを使用して様子をみることにしました。
母には、母のためだけでなくσ(^_^;がギックリ腰になったときに
いつもトイレで困っているからと伝えました(^_-)

今朝、父がかかりつけの内科を受診して
内科の先生に相談して胃カメラは止めることにしました。
また、天気がよくなったら点滴を受けに行くことにしました。
父の話では、インフルエンザの患者さんが多くいたようなので
もう少し後にしようと話しています。

午後から妹を歯科受診に送り迎えをしました。
待っている時間読んでいたルイス・フロイスの『ヨーロッパ文化と日本文化』。
今の日本とかなり違うなと思うのが幾つもありました。
その中から二つ紹介したいと思います。
太字は、フロイスの言葉です。注記は岡田氏)

われわれは喪に黒い色を用いる。日本人は白色を用いる。

 ヴァリニャーノは「白色はわれわれにとって楽しい、喜ばしい色であるが、彼ら〔日本人〕にとっては喪の、また悲しみの色である。彼らは黒色と桑実色とを楽しい色としている。」といっている(Boxer,The Christian Century in Japan,p.77)。
白色と黒色に対する東西の風習の対照が興味をひいたのであろう。
喪服については、鎌倉・室町時代には武家の間で、鈍色(にびいろ(薄墨色))に染めた貲布(さよみのぬの)(細かく紡いだ麻糸で織った布)の素服が用いられた。
江戸時代には男は麻上下(あさかみしも)、長上下、熨斗目(のしめ)上下、女は白無垢(しろむく)に白い帯を着けた。
喪服は元来、華美を避けることを主としたので、白色のものを用いるようになったのであろう。
慶長15(1610)年細川幽斎の葬礼の記録によれば、辻堅(つじがため)の士はすべて白の小袖に上下、扈従(こしょう)の者は無紋の羽織、舎人(とねり)は烏帽子(えぼし)に白の素襖(すおう)、故人の愛馬には白い手綱をかけ、総体を白い馬絹で蔽い、また弓、鎗、長刀、太刀、骨箱なども白絹で包む。
女中、女房等は白の絹をかずいていた。
喪主忠興は鈍色の束帯であった。(P28)


ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸付ける。

 鎌倉時代に武家の女性は婚姻の際、父母等から化粧料、装束料などという名で所領を与えられたが、これは一期(いちご)分として、その死後(一期の後)は実家に総領の手に帰すのが通例であった。
夫婦が財宝を別にするこの慣習が残っていたので、妻の持参田畑は粧田、持参金は敷金、または敷銀、敷銭などといわれた。
夫がそれを借りることもあったのであろう。(P48~49)
(『ヨーロッパ文化と日本文化』)

ルイス・フロイス(1532~97)は35年間日本での布教に努め、
長崎で生涯を終えたので旅行者の目で書かれたのではありません。
他にも興味深いことが書かれていますし文庫本で手に入りやすいので、
一読をおすすめします(^-^)

2 件のコメント:

  1. KAZEさん

    こんばんは
    お母様にとって検査は相当なストレス
    だったのですね
    ご家族の支えで
    気持ちが落ち着いて来られると
    いいですね
    インフルエンザ流行っています
    介護疲れで感染なさらないよう
    気をつけてくださいね

    返信削除
  2. becoさんおはようございます(*^O^*)/

    >お母様にとって検査は相当なストレス
    >だったのですね

    元々、検査を怖がっていて意味をあまり理解しないうちに承諾したのかもしれません。
    昨夜も今朝も父と二人がかりでなんとかトイレに連れていくことができました。
    介護認定の時は、自分で歩けて、買物も杖を使うと行けたのですが…
    母のことも心配ですが、父も血圧が高いので心配です。
    妹と助け合って両親を支えていきたいと思います。

    返信削除

申し訳ありませんが,日本語だけを受けつけますm(_ _)m