2022年9月8日木曜日

白露

曇り空で風がないので蒸し暑かったです。
お昼前の天気情報を見ていると
蒸し暑さが戻ってきたそうですし、しばらくぐずついた天気が続くとか…

台風12号が発生 あさって以降沖縄に接近のおそれ」(NHK)

宮古島 台風が通過後初めて貨物船入港 生活物資など届く」(沖縄NHK)
生活物資などを運ぶ貨物船が1週間以上も入港できなかったのが
やっと生活物資が届くようになったのに…
秋 十五節気
 白露
(はくろ)

 草花の葉先に透明の露が結び、白く光って見えるという「白露(はくろ)」。
日中と朝晩の寒暖差が大きくなると、朝には草や枝などに露がつきやすくなります。
この時季に迎える九月九日は「重陽(ちょうよう)の節句」。
中国では奇数を陽の数とし、その中で最大の数である「九」が重なるこの日に長寿を祈りました。
別名「菊の節句」といい、日本でも平安時代には菊を浮かべた酒で祝ったり、菊の夜露をひと晩吸わせた綿で体をぬぐい、邪気を祓うなどの習慣がありました。
(『イラストで楽しむ日本の七十二候』アフロ著、森松輝夫絵 中径出版 2013年)
◆聖母マリアの誕生日(9月8日) The Nativity of the Blessed Virgin Mary
 希◎ 露正◎ RC◎ 聖公○ ルタ× プロ× <黄金>

 マリアの誕生を記念する、東方正教会とローマ・カトリック教会の祝日。
中華圏では聖母聖誕節、聖母誕生節、聖母誕辰慶日ともいう。
 年老いてから娘をさずかったヨアキムとアンナ(→7月26日)は神に感謝を捧げ、マリアを神殿に奉献する(→聖マリアの奉献日/生神女進堂祭 11月21日)。
 エルサレムには、マリアの両親を記念して5世紀に教会が建てられた。
現在、旧市街のライオン門の近くにある聖アンナ教会はその場所に再建されたもので、その地下にはマリアが生まれたとされる洞窟が保存されている。
(『キリスト教の歳時記 知っておきたい教会の文化』八木谷涼子 講談社学術文庫 2016年)
 東方教会ではすでに8世紀にこの祝日を祝っていた記録があり、西方でも教皇セルジオ一世(在位687-701)が言及しているが、教会全体で受け入れられたのは11世紀以降のことだ。
 東方教会の暦では9月1日が新年となるため、新年を迎えて最初に祝う十二大祭が、このマリアの誕生を祝う生神女誕生祭となる。
この日の奉神礼では、次の歌を唱えて生神女マリアを頌美する。
 神を生みし童貞女(どうていじょ)や、爾(なんじ)の誕生は
  全世界に喜悦を知らしめり。
 義の日ハリストス 我が神は爾(なんじ)より出でて光り、
 かつ詛(のろい)を破りて福を降(くだ)し 死を虚(むな)しうして
 我等に永生(えいせい)を賜へばなり
     (祭日経 日本ハリストス正教会訳)
 マリアの誕生日は聖公会の暦にも入っている。
香港では童貞女聖馬利亞日という。
 リヒテンシュタイン、アンドラ公国などでは法定休日。 
(『キリスト教の歳時記 知っておきたい教会の文化』八木谷涼子 講談社学術文庫 2016年)
5 図像のマリヤ
 ルタ―


…前略…

 宗教改革の中心的存在であったマルチン・ルターは「マリヤの讃歌」などを書いているように、熱心な聖母崇拝者である。
彼に熱烈に傾倒したクラナッハは聖母を画くとき、いつもルターの立ち合いを乞い、でき上った作品について種々の助言を得たといわれている。
ルターの聖母にたいする態度をのちのルター派は勝手に捨ててしまい、ルターのなかから自分たちの合理的批判的なことに都合のよい部分だけを取り出して教理綱領を作り、一派として独立するが、ルターと、ルター派ないしはプロテスタント派はその点で全く区別しなければならず、本来ルターの持っていた温かな人間味に欠け、冷ややかなものになってしまった。
福音派は聖母を教会から排除し、聖者像も置いていない。

…後略…
(『聖母マリヤ』植田重雄 岩波新書 1987年)
わが娘の「二十歳の原点」
 あの子は自分で書いて、自分で考えていた
――高野アイ

(つづき)

 アイと三郎は、娘のやりたいようにやらせてあげようと思いを改める。
それを伝えに、アイはひとりで京都へ向かった。
悦子の下宿に二泊し、魚を焼いて食事をつくったりした。
「あなたが正しいと思っているなら、やってもいい、と言うと、悦子はほっとしていました。なにかほしいものはないかと聞くと、服と靴がほしいと言う。京都の街でいっしょに茶色のワンピースと同じ色の靴を買ったのです。お母さん、おいしいところがある、と言って、京都駅の近くの店に案内してくれて、カニのわっぱ飯を注文してくれました。お母さん、バッグもほしい、と言われた。もう列車の発車まで時間がなかったので、自分で好きなものを買いなさいと言って、三千円を渡したのです」
(『叛逆の時を生きて』臼井敏男 朝日新聞出版 2010年)
 アイは京都駅で別れるとき、いっしょに帰ろうと言いたかった。
「でも、それを言ったら、信頼されなくなる。しかたなしに、さよなら、と言いました。それが最後でした」
 悦子の日記には、母が京都に来たことは書かれていない。
もちろん、ワンピースと靴を買ってもらったという記述もない。
 六日後、アイは霊安室で悦子と対面した。
アイが買ってあげたワンピースと靴を身につけていた。
「いっしょに買ったのですから、よく覚えています。涙も出ませんでした。呆然というか、夢の中にいるようでした。私が至らなくて、あの子にさびしい思いをさせたんじゃないでしょうか」
 アイが悦子の下宿に行くと、バッグを買うために渡した現金は手つかずのまま筆箱に残っていた。
 悦子は三人きょうだいの次女。
どんなお子さんでしたか。
「喜怒哀楽のはっきりした子で、とても優しい子でした。小さいときから、学校でこんなことがあったとか、友だちとこんなふうに遊んだとかいうことを家では話さなかった。その代わり、いろんなことを書いていた。あるとき、なにか書いているので、宿題なのかと聞くと、違うと言っていた。自分で書いて、ずっと自分で考えていたんじゃないでしょうか。あの子は、これは正しいと思っても、また戻って、本当に正しいのかと考える子なんです。学生運動も果たしていいことなのかどうか、自分で全力投球するに値するものなのかどうか、迷っていたんじゃないかと思います」
 悦子の日記は死の前々日、六九年六月二十二日の日付で終わっている。
最後は詩のような言葉が書き連ねられている。
 
  旅に出よう
  テントとシュラフの入ったザックをしょい
  ポケットには一箱の煙草(たばこ)と笛をもち
  旅に出よう

  出発の日は雨がよい
  霧のようにやわらかな春の雨の日がよい
  萌(も)え出でた若芽がしっとりとぬれながら
  (略)
  左手に笛をもって
  湖の水面を暗やみの中に漂いながら
  笛をふこう

  小舟の幽(かす)かなるうつろいのさざめきの中
  中天より涼風を肌に流させながら
  静かに眠ろう

  そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう 
(『叛逆の時を生きて』臼井敏男 朝日新聞出版 2010年)

新聞に連載されていた記事がありました。
わが娘の「二十歳の原点」』(朝日新聞 2009年6月19日)

勝手な思いですが、母とのことを日記に書いていたら自殺を思いとどまったのではないかなぁ…
なお、高野悦子さんの「旅に出よう…」は8月15日の記事に全文転記しています( ..)φ