朝の天気予報で予報士の方が、にわか雨が降るかもとおっしゃっていた通り
歩いていると急に大粒の雨が降り出しました。
「台風に発達見込みの熱帯低気圧」(NHK) 社日
彼岸には、福岡県や佐賀県、熊本県など九州では町内の人たちが神社やお寺に籠(こも)る「彼岸ごもり」を行うところがある。
熊本県玉名(たまな)市では、秋の彼岸には5軒ずつが順番に氏神様に一晩ずつお籠もりし、最後に日にはムラの全戸が集まる総籠もりをして豊作を願ったと伝える。
彼岸にこうした行事があるのは、春の彼岸は稲作の開始時期と重なり、秋の彼岸は稲刈りあるいは麦の作付け前にあたるからである。
(『日本の歳時伝承』小川直之 角川ソフィア文庫 2018年) 農耕との結びつきは、暦でいえば春分と秋分にもっとも近い戊(つちのえ)の日が「社日(しゃにち)」で、この日との関係が強い。
社日は雑節(ざつせつ)の一つとなっていて、たとえば新潟県長岡市周辺では、春秋の社日には鎮守社に豊作祈願のお参りをするほか、各家では春の社日には田の神にお供えする餅を搗くと、その杵(きね)の音を聞いて田の神が降りてきて、秋の社日には夕方搗く餅の杵音で田の神が天に帰るという。
高知県高岡(たかおか)郡では春の社日に田の神が山から下りてきて、秋の社日には山に帰ると伝えている。
社日が田の神の去来日となっているのである。 また、神奈川県や東京都多摩地方、広島県や徳島県などの中・四国地方では、春秋の社日に農業の神である地神(じじん)を祭っている。
神奈川県や多摩地方には、町内の家々で構成する地神講があり、社日に当番の家に集まって地神像の掛軸に供物をしたり、「地神」と刻んだ石塔に供物をしたりして地神を祭っている。
広島県や徳島県などでは、社日に天照大神(あまてらすおおみかみ)・少彦名命(すくなひこなのみこと)・埴安媛命(はにやすひめのみこと)・大己貴神(おおなむちのかみ)・倉稲魂命(くらいなだまのみこと)の五神の名を刻んだ五角柱の石塔に神酒(みき)や洗米、供物の膳(ぜん)を供えて地の神を祭っている。
社日には田畑を耕してはいけないとか、地の神の日なので庭の土をいじるのもいけないという禁忌を伝えるところも多い。 現在の彼岸は墓参が中心だが、その歴史と各地の伝承を見ていくと、ここには西方浄土へ寄せた日本人の想いや社日も含めた春秋の農耕の祭りなどが重層して存在しているのがわかる。
(『日本の歳時伝承』小川直之 角川ソフィア文庫 2018年)天皇、皇后がお二人揃ってエリザベス女王の国葬に参列されました。
戦前だったら天皇、皇后が国葬に参列することができたのだろうか?
『源氏物語』の「桐壺」巻について山本淳子さんの著書より転記します( ..)φ
第一章 光源氏の前半生
一 平安人の心で「桐壺」巻を読む
後宮(こうきゅう)における天皇、きさきたちの愛し方
――「一帖「桐壺」のあらすじ」――(省略)
平安時代の天皇は一夫多妻制である。
これを私たちは「英雄色を好む」と受け取りやすい。
権力があるから次々ときさきたちを娶(めと)って、よりどりみどりで相手をさせているのだろうと。
(『平安人の心で「源氏物語」を読む』山本淳子 朝日新聞出版 2014年) 確かに平安時代、特にその初頭には、きさきの数は非常に多かった。
例えば大同(だいどう)4(809)年から弘仁(こうにん)14(823)年にかけて天皇の位にあり、譲位後は嵯峨野(さがの)で高雅(こうが)な上皇生活を送った嵯峨天皇(786~842)には、名前が判明するだけで29人ものきさきがいた。
これを聞くと「平安時代の天皇になってみたい」と、ひそかに思う男性もいるかもしれない。
しかし、思い違いだ。
平安時代の天皇の結婚は、欲望を満たすのが目的ではない。
確実に跡継ぎを残すこと、一夫多妻制はそのための制度だった。
嵯峨天皇もさすがに子だくさんで、男子22人女子27人を数える。
子どもの名前が覚えきれたのだろうかと、冗談のような心配さえ浮かんでしまう。 だが、子だくさんなだけでは天皇として不合格だ。
跡継ぎとは次代の天皇になる存在なのだから、どんなきさきの子でもよいというわけではない。
即位の暁には貴族たちの合意を得て円滑に政治を執り行うことができる、そんな子どもをつくらなくてはならない。
それはどんな子か。
一言で言えば、貴族の中に強力な後見を持つ子どもである。
ならば天皇は、第一にそうした跡継ぎをつくれる女性を重んじなくてはならない。
個人的な愛情よりも、きさきの実家の権力を優先させることが、当時の天皇の常識だった。 こうなると、天皇が「よりどりみどり」という訳にはいかないことも、推測がつくだろう。
貴族たちは、天皇がしかるべき子どもをつくることを期待している。
それはしかるべき家から送り込まれた、しかるべききさきと、しかるべき度合いで夜を過ごすことを期待し、見守っているということだ。
摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)、大臣、大納言(だいなごん)。
天皇はきさきの実家を頭に浮かべ、その地位の順に尊重しなければならない。
つまり、その順で愛さなくてはならない。
天皇にとって愛や性は天皇個人のものではなかった。
最も大切な政治的行為だったのだ。
こうした当時の常識に照らせば、桐壺帝が「いとやむごとなき際(きは)にはあらぬ」更衣(こうい)に没頭したことは、掟破りともいうべき許しがたい事件だった。
皇子誕生は政界の権力構造に係わる。
実家の繁栄を賭けて入内(じゅだい)したきさきたちが怒るのは当然のこと、「上達部(かむだちめ)、上人(うへびと)」など政官界の上層部が動揺したのも、これが自分たちの権力を揺るがしかねない政治問題だったからだ。 さて、『源氏物語』が書かれる直前、時の一条(いちじょう)天皇(980~1011)は心から愛する中宮定子(ちゅうぐうていし)がいた。
『枕草子』の作者・清少納言(せいしょうなごん)が仕えた、明るく知的な中宮である。
だがその家は没落していた。
そこに入内してきたのが、時の最高権力者・藤原道長(ふじわらのみちなが)の娘で、やがては紫式部(むらさきしきぶ)が仕えることになる彰子(しょうし)である。
定子は23歳、天皇は20歳、そして彰子自身はまだ12歳。
年の差もあって気が進まない天皇だが、道長や貴族たちの手前、定子よりも彰子を重く扱わなくてはならない。
その苦しい胸の内は貴族たちの日記や『栄華物語(えいがものがたり)』『枕草子』などから知ることができる。
結局定子は翌年、皇子を遺して亡くなった。
辞世(じせい)は「知る人もなき別れ路(ぢ)に今はとて 心細くも急ぎたつかな(知る人もいない世界への旅立ち。この世と別れて今はもう、心細いけれど急いで行かなくてはなりません)」。
一条天皇は悲しみにくれた。 『源氏物語』の執筆が開始されたのは、この出来事のわずか数年後だ。
いうまでもなく、桐壺帝は一条天皇に、桐壺更衣は定子に酷似している。
更衣の辞世「限りとて別るる路(みち)の悲しきに いかまほしきは命なりけり(もうおしまい。悲しいけれど、この世と別れて旅立たなくてはなりません。私が行きたいのはこんな死出の道ではない、生きたいのは命なのに)」は定子の辞世と言葉が通う。
また遺児の光源氏を天皇が溺愛し後継にしたいと願ったことも、定子の遺した息子・敦康親王(あつやすしんのう)に対して一条天皇が抱いていた願いと同じだ。
物語を書き始めた時、紫式部はまだ彰子に仕えていない。
一個人の立場から、ドラマチックな史実を効果的に掬(すく)いあげて、この物語を構成したのだ。
だがそれは面白さを狙っただけではない。
一条天皇の苦しみは、一人の男性として抱く愛情と、天皇として守るべき立場とに挟まれての人間的葛藤だった。
紫式部の描く桐壺帝も、実に人間的だ。
人間を見据え、天皇という存在までもリアルに描く。
それが『源氏物語』だといえるだろう。
こうして『源氏物語』は、定子を悼み天皇の心を癒す力をも持っていた。
当の一条天皇がやがて『源氏物語』の愛読者となったこと、これは紫式部自身が『紫式部日記』に記している。
(『平安人の心で「源氏物語」を読む』山本淳子 朝日新聞出版 2014年)