歩き出すと土砂降りになったり、小雨になったりしました。
遠く離れていても台風の影響があるのだろうなぁ
「台風11号 再び猛烈な勢力に 沖縄に接近のおそれ」(NHK)
リンゴ台風(台風第19号 1991年9月25日~28日)のような動きにならないか心配です。
この時、立山に登っていてみくりが池温泉に泊まったのですが、
山荘が強風で持ち上がるように感じたほどでした。
究極の短歌・俳句100選ベストセレクション(4)「女性とは」
好きな歌人・俳人の歌や句が紹介されていました。
その中で山川登美子の
後世(ごせ)は猶
今生(こんじやう)だにも
願はざる
わがふところに
さくら来てちる
山川登美子に対して「しろ百合の君」とも言われ、
29歳の若さで亡くなったことから薄幸の歌人のイメージを持っていたのですが
栗木京子さんが
「武士の気概みたいなね大げさに言うと。
そういう覚悟まで感じさせる歌ですね」などと評されていましたし
穂村弘さんの
「この歌なんかの誇り高さっていうんですかね
……
ほんの一筋の 何か光見えないくらいの光が
『わがふところにさくら来てちる』っていうところに感じられて
そこに 何か我々は反応してしまうところがありますね」
山川登美子へのイメージが変わりました。山川登美子の歌を数首
わかき身のかかる嘆きに世を去ると思はで経にし日も遠きかな
うつつなき闇のさかひに静かなるうすき光をたのみぬるかな
あたたかに心をめぐる血の脈のひそめるありて稀に音しぬ
泣かぬ日はさびし泣く日はやや楽しうつろなる身に涙こぼれよ
矢のごとく地獄におつる躓(つまづ)きの石とも知らず拾ひ見しかな
わが柩まもる人なく行く野辺のさびしさ見えつ霞たなびく
(『山川登美子歌集』今野寿美編 岩波文庫 2011年) 二百十日
二百十日を暦に記入したのは、江戸時代の暦学者、渋川春海(保井春海)だといわれている。
釣好きの彼が沖に出ようとするが、老漁夫に「きょうは立春から数えて二百十日目だから海は荒れる」ととめられる。
そしてそのとおりに大暴風雨になったがきっかけになった、というのである。
この話は天保年間の『春雪解話』にでているのであるが、実際は大経師暦(だいきょうじごよみ)に寛文11(1671)年に初めて載り、その後ずっと記載されていた。
その記事を渋川春海は、貞享の改暦(1684)のとき除いたのである。
ところが船乗りから、それでは不便だという上申があり、復活した。
その間の事情を、春海の弟子の秦山(じんざん)は『壬癸(じんき)録』につぎのように記している。
「八十八夜、二百十日、改暦の初め之を注さず。伊勢の船長、奉行所に訴へていはく、八十八夜をすぎて天気始めて温に、海路和融す。二百十日の前後必ず大風有り。皆船師知らざるべからず。願はくば御暦に注せよ。暦は民用に便なるを以て先とす。故にまた之を注す」。
結局、二百十日が記載されなかったのは、貞享2年だけで翌年からふたたび載るようになったのである。
(『四季の博物誌』 荒垣秀雄編 朝日文庫 1988年) 二十四節気をはじめ、その一つである立春を起点として日数で表した八十八夜や二百十日は、いずれも太陽の「季節点」であり、年によって日付と季節が大きくずれた太陰暦において、重要な意義を持っていたことは、立春、春分、八十八夜などの項で述べた。
二十四節気のほかに季節の移り変わりを示す季節点を雑節といい、八十八夜も二百十日も雑節の一つである。
雑節には、このほかに土用、入梅(黄経80度)、半夏生(はんげしょう<黄経100度>)、彼岸(春分、秋分の三日前に入る)、社日(しゃにち<春分、秋分に最も近い戊(つちのえ)に当たる日。土の神を祭って春は成育を祈り、秋は収穫を感謝する日>)がある。
いずれも太陽の季節点が標準になっているのが特徴的である。 二百十日は太陽暦で9月1日(閏年の昭和63年は8月31日)にあたる。
この日だけに特に台風が来襲しやすい、という統計的裏付けはないが、大型台風の月といわれる9月が始まる日に台風厄日を作ったのは、適切な試みとして評価できる。
昭和になってから死者(行方不明者を含む)千人以上の大災害をもたらした台風を上げたのが次ページの上の表(省略)である。
この表から、いろいろな事実に気づく。
たとえば、台風の大災害は、ほとんどすべて9月の後半に起こっていること、とくに9月26日に台風災害が多いことなどである。
もう一つ重要なことは、昭和34年の伊勢湾台風以後は、日本には大型台風の大災害は起きていないことである。 台風の死者統計には、こんな数字もある。
過去の台風による死者数を5年ごとに区切って統計すると、下の表(省略)のように台風の死者数は、伊勢湾台風以後、激減している。
この原因としては、災害対策基本法の制定などで代表されるように、伊勢湾台風を教訓とした本格的な防災対策が行われたことと、近年は大型台風の日本への来襲が少なくなったことの二つが考えられる。
近年は、台風の上陸は、9月よりも8月の方が多くなってきた傾向もうかがわれる。
(「日本に大きな被害を与えた台風の一覧」気象庁) また昭和21年から34年までに来襲した6個の強い台風のうち4個は夜間に来襲しているのに対し、昭和35年から46年の5個の強い台風のうち4個は昼間に来襲している。
風水害の死者数は、昼間と夜間では格段の相違が生じることが多い。
就寝後は、人はよほどでないと起きて避難しないのである。 梅雨前線豪雨などのように温帯低気圧や前線の集中豪雨による死者と、台風の死者とを年代別に比較すると、昔は台風の死者の方が圧倒的に多かったが、1960年代以後は、集中豪雨による死者の方が多くなった。
これは日本の社会が大洪水、大高潮、大型船舶の沈没などのような大災害を防げるようになったのに対し、斜面崩壊や土石流などの局地災害の防止に立ち遅れのあることを示している。
つまり風水害が大型からゲリラ型に変わってきたのである。
ここにいうゲリラ型とは、その生起の突発性、意外性、局地・小規模・激甚性、群発性などである。
そして、宅地造成地、過疎地、行楽地での死者災害が目立つのも特徴的である。 (倉嶋 厚)
(『四季の博物誌』 荒垣秀雄編 朝日文庫 1988年)
34年前に出版された本です。
究極の短歌・俳句100選ベストセレクション(4)「女性とは」
好きな歌人・俳人の歌や句が紹介されていました。
その中で山川登美子の
後世(ごせ)は猶
今生(こんじやう)だにも
願はざる
わがふところに
さくら来てちる
山川登美子に対して「しろ百合の君」とも言われ、
29歳の若さで亡くなったことから薄幸の歌人のイメージを持っていたのですが
栗木京子さんが
「武士の気概みたいなね大げさに言うと。
そういう覚悟まで感じさせる歌ですね」などと評されていましたし
穂村弘さんの
「この歌なんかの誇り高さっていうんですかね
……
ほんの一筋の 何か光見えないくらいの光が
『わがふところにさくら来てちる』っていうところに感じられて
そこに 何か我々は反応してしまうところがありますね」
山川登美子へのイメージが変わりました。山川登美子の歌を数首
わかき身のかかる嘆きに世を去ると思はで経にし日も遠きかな
うつつなき闇のさかひに静かなるうすき光をたのみぬるかな
あたたかに心をめぐる血の脈のひそめるありて稀に音しぬ
泣かぬ日はさびし泣く日はやや楽しうつろなる身に涙こぼれよ
矢のごとく地獄におつる躓(つまづ)きの石とも知らず拾ひ見しかな
わが柩まもる人なく行く野辺のさびしさ見えつ霞たなびく
(『山川登美子歌集』今野寿美編 岩波文庫 2011年) 二百十日
二百十日を暦に記入したのは、江戸時代の暦学者、渋川春海(保井春海)だといわれている。
釣好きの彼が沖に出ようとするが、老漁夫に「きょうは立春から数えて二百十日目だから海は荒れる」ととめられる。
そしてそのとおりに大暴風雨になったがきっかけになった、というのである。
この話は天保年間の『春雪解話』にでているのであるが、実際は大経師暦(だいきょうじごよみ)に寛文11(1671)年に初めて載り、その後ずっと記載されていた。
その記事を渋川春海は、貞享の改暦(1684)のとき除いたのである。
ところが船乗りから、それでは不便だという上申があり、復活した。
その間の事情を、春海の弟子の秦山(じんざん)は『壬癸(じんき)録』につぎのように記している。
「八十八夜、二百十日、改暦の初め之を注さず。伊勢の船長、奉行所に訴へていはく、八十八夜をすぎて天気始めて温に、海路和融す。二百十日の前後必ず大風有り。皆船師知らざるべからず。願はくば御暦に注せよ。暦は民用に便なるを以て先とす。故にまた之を注す」。
結局、二百十日が記載されなかったのは、貞享2年だけで翌年からふたたび載るようになったのである。
(『四季の博物誌』 荒垣秀雄編 朝日文庫 1988年) 二十四節気をはじめ、その一つである立春を起点として日数で表した八十八夜や二百十日は、いずれも太陽の「季節点」であり、年によって日付と季節が大きくずれた太陰暦において、重要な意義を持っていたことは、立春、春分、八十八夜などの項で述べた。
二十四節気のほかに季節の移り変わりを示す季節点を雑節といい、八十八夜も二百十日も雑節の一つである。
雑節には、このほかに土用、入梅(黄経80度)、半夏生(はんげしょう<黄経100度>)、彼岸(春分、秋分の三日前に入る)、社日(しゃにち<春分、秋分に最も近い戊(つちのえ)に当たる日。土の神を祭って春は成育を祈り、秋は収穫を感謝する日>)がある。
いずれも太陽の季節点が標準になっているのが特徴的である。 二百十日は太陽暦で9月1日(閏年の昭和63年は8月31日)にあたる。
この日だけに特に台風が来襲しやすい、という統計的裏付けはないが、大型台風の月といわれる9月が始まる日に台風厄日を作ったのは、適切な試みとして評価できる。
昭和になってから死者(行方不明者を含む)千人以上の大災害をもたらした台風を上げたのが次ページの上の表(省略)である。
この表から、いろいろな事実に気づく。
たとえば、台風の大災害は、ほとんどすべて9月の後半に起こっていること、とくに9月26日に台風災害が多いことなどである。
もう一つ重要なことは、昭和34年の伊勢湾台風以後は、日本には大型台風の大災害は起きていないことである。 台風の死者統計には、こんな数字もある。
過去の台風による死者数を5年ごとに区切って統計すると、下の表(省略)のように台風の死者数は、伊勢湾台風以後、激減している。
この原因としては、災害対策基本法の制定などで代表されるように、伊勢湾台風を教訓とした本格的な防災対策が行われたことと、近年は大型台風の日本への来襲が少なくなったことの二つが考えられる。
近年は、台風の上陸は、9月よりも8月の方が多くなってきた傾向もうかがわれる。
(「日本に大きな被害を与えた台風の一覧」気象庁) また昭和21年から34年までに来襲した6個の強い台風のうち4個は夜間に来襲しているのに対し、昭和35年から46年の5個の強い台風のうち4個は昼間に来襲している。
風水害の死者数は、昼間と夜間では格段の相違が生じることが多い。
就寝後は、人はよほどでないと起きて避難しないのである。 梅雨前線豪雨などのように温帯低気圧や前線の集中豪雨による死者と、台風の死者とを年代別に比較すると、昔は台風の死者の方が圧倒的に多かったが、1960年代以後は、集中豪雨による死者の方が多くなった。
これは日本の社会が大洪水、大高潮、大型船舶の沈没などのような大災害を防げるようになったのに対し、斜面崩壊や土石流などの局地災害の防止に立ち遅れのあることを示している。
つまり風水害が大型からゲリラ型に変わってきたのである。
ここにいうゲリラ型とは、その生起の突発性、意外性、局地・小規模・激甚性、群発性などである。
そして、宅地造成地、過疎地、行楽地での死者災害が目立つのも特徴的である。 (倉嶋 厚)
(『四季の博物誌』 荒垣秀雄編 朝日文庫 1988年)
34年前に出版された本です。
データーは、古いですが、学ぶことが多いと思います。
初めに紹介した
究極の短歌・俳句100選ベストセレクション (4)「女性とは」
の中で杉田久女の句をバッサリと斬っておらます。
「でも 杉田久女の こういう句が女性俳句のはじめですね。
今に続く一番のもとにあったという」とも評されています。
20年前に書かれた『NHK人間講座 女性俳人の系譜』を読むと宇多喜代子さんの思いがわかります。
再版・重版しないかなぁ…
初めに紹介した
究極の短歌・俳句100選ベストセレクション (4)「女性とは」
の中で杉田久女の句をバッサリと斬っておらます。
「でも 杉田久女の こういう句が女性俳句のはじめですね。
今に続く一番のもとにあったという」とも評されています。
20年前に書かれた『NHK人間講座 女性俳人の系譜』を読むと宇多喜代子さんの思いがわかります。
この本も再版・重版してほしいです。
第1回 近代俳句の黎明
杉田久女の登場
…前略…
冬服や辞令を祀る良教師
足袋つぐやノラともならず教師妻
周辺の人たちの証言によると久女の夫はとても善良な方だったとの声が多いのですが、長女の石昌子さんは、善人であったが執拗な一面もあり夫婦喧嘩が絶えなかったと証言しています。
いずれにせよ「良教師」「教師妻」には、久女が夫にも自分にもけっして満足していなかったことが如実に出ています。
ノラはノルウェーのイプセンの戯曲『人形の家』の中心人物です。
一人の自立した女性を目指して弁護士の夫のところを去ってゆく女がノラです。
翻訳本が出たり、新劇の松井須磨子によって上演されたりして「ノラ」は「新しい女」の代名詞となってゆきました。
当時の久女も「ノラ」に新しい時代の理想の女性像を見ていたのでしょう。
ところが現実の自分は家庭婦人という枠から抜けられない。
とうていノラとなることなど叶わず、足袋を繕(つくろ)うというような仕事にあまんじている、そんな自分を自嘲的に見ている句です。
…後略…
(『NHK人間講座 女性俳人の系譜』宇多喜代子 日本放送出版協会 2002年)
第1回 近代俳句の黎明
杉田久女の登場
…前略…
冬服や辞令を祀る良教師
足袋つぐやノラともならず教師妻
周辺の人たちの証言によると久女の夫はとても善良な方だったとの声が多いのですが、長女の石昌子さんは、善人であったが執拗な一面もあり夫婦喧嘩が絶えなかったと証言しています。
いずれにせよ「良教師」「教師妻」には、久女が夫にも自分にもけっして満足していなかったことが如実に出ています。
ノラはノルウェーのイプセンの戯曲『人形の家』の中心人物です。
一人の自立した女性を目指して弁護士の夫のところを去ってゆく女がノラです。
翻訳本が出たり、新劇の松井須磨子によって上演されたりして「ノラ」は「新しい女」の代名詞となってゆきました。
当時の久女も「ノラ」に新しい時代の理想の女性像を見ていたのでしょう。
ところが現実の自分は家庭婦人という枠から抜けられない。
とうていノラとなることなど叶わず、足袋を繕(つくろ)うというような仕事にあまんじている、そんな自分を自嘲的に見ている句です。
…後略…
(『NHK人間講座 女性俳人の系譜』宇多喜代子 日本放送出版協会 2002年)