台風11号の動きが遅いので被害が大きくなるかもしれません。
昨日から甘い香りがしていると探していたのですが
遠くにチラッと見えました(←青)
(以前、マダニに噛まれたことがあるので草薮の中に入るのは…)。
日本人は葛を活用してきたのですが、今では嫌われ者になっている。
「葛の効能(花から根まで)」(吉野本葛 天極堂)公園で、「昨日は嫁さんの携帯が急になりだしたのでビックリした」と話していた方がいました。
そう言えば私の携帯も大きな音がなったのでビックリしたなぁ!
「大阪880万人訓練」の着信音だったのだけど…
記憶間違いかな?
北朝鮮がミサイルと見られる飛翔体を発射してもゴルフをやっていた首相がいたと思うけど…
「全国瞬時警報システム(Jアラート)」(内閣官房)
政府や自治体が警報を発信しても国民が危機感を持って受けとめるのか?9月3日
昭和20年(1945) イギリス人記者バーチェット、「広島における大惨状」を打電し、初めて被爆地の状況を報道。
昭和30年(1955) 沖縄で米兵による幼女暴行殺害事件起こる(由美子ちゃん事件)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)
「検証 ヒロシマ 194~95 <1> 報道」(中国新聞 2012年3月29日)
「1.由美子ちゃん事件(1955/石川市)-少女暴行殺害-」(読谷バーチャル平和資料館)
このような愚劣な事件が繰り返され、犯罪者は米国に逃げ帰ることができる。
「沖縄 米兵暴行事件に怒り爆発」(NHKアーカイブス 1995年)
渡邉英徳さんのtwitterに
78年前の今日。
1944年9月3日、アンネ・フランクがアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所に移送された。
写真は1941年、アムステルダムの自宅でポーズを取るアンネ。
さらに渡邉英徳さんのTwitterに
78年前の今日。
1944年9月3日、アンネ・フランクがアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所に移送された。
翌年3月に亡くなったとされる。
この動画は、アンネが写っている唯一の映像。
10秒過ぎ、二階から身を乗り出している少女がアンネ。
原民喜の『夏の花』など原子爆弾について書かれた本などは、GHQによって発表を禁じられていました。Ⅲ 孤独の章
検閲に翻弄される
「原子爆弾」は「夏の花」と題名を変え、「近代文学」ではなく「三田文学」に発表された。
その経緯を佐々木基一は次のように説明している。
(『原民喜 死と愛と孤独の肖像』梯久美子 岩波新書 2018年) 『夏の花』は1947年6月に『三田文学』誌上にはじめて発表された。
しかし作品が書かれたのはずっと早く、おそらく1945年の秋から冬にかけてと思はれる。
机も原稿用紙もない避難先の八幡村で原民喜はこれを書いた。
事務用便箋に鉛筆で横線を引いて升目をつくり、原稿用紙の代りにつかつた原稿をわたしが東京で受取つたのは、1946年のたしか1月であつた。
わたしたちは、わたしたちの雑誌『近代文学』にのせるつもりであつたが、当時原子爆弾に関する記事や作品はすべて厳重な検閲下におかれてゐたため、あらかじめ掲載の可否を打診してみた結果、たうてい不可能らしいことが判明した。
(佐々木基一 角川文庫版『夏の花』解説より) ここで佐々木は、原稿を受け取ったのが「一九四六年のたしか一月」としているが、原は先に引いた十二月十二日付の手紙で、速達で送ったと書いているから、佐々木の勘違いだろう。
この解説が付された角川文庫版の刊行は、前述したように1954(昭和29)年だが、佐々木は1988(同63)年に刊行された岩波文庫版の『小説集 夏の花』でも解説を担当しており、そこでは原稿を受け取った時期を「十二月の半ば頃であったろう」と書いている。
ともかく、「近代文学」に載るはずだった「原子爆弾」は、そのまま1年以上日の目を見ず、題名を変えて1947(昭和22)年、「三田文学」に掲載されることになる。 埴谷雄高が「近代文学」の創刊当時を振り返ったエッセイの中で、その経緯を詳しく説明している。
この作品の「近代文学」編集部内での評判も含め、当時の状況がよくわかるので、長い引用になるが以下に紹介する。
1955(昭和30)年に「近代文学」に掲載された文章である。 編集上、支障が起ったのは、第二号に載せる予定であった原民喜の『原子爆弾』である。
佐々木基一から渡されたこの原稿をみなで廻して読んだときの印象は非常に強烈で、創作欄に対して懐いていた不安をこの一篇がまったく拭い去ってくれると喜んだものである。
その後『夏の花』と改題されたこの作品は、現在読むと、異常な静謐をたたえていて作者の個性が強く浸透している客観的な作品であるが、そのときは原子爆弾についてのあらゆる印象が生々しく、さながらわれわれの眼前でそれが白熱の閃光を発して爆発したような強烈なショックを与えたのであった。ところで、そのとき占領政策による検閲が開始されたばかりで、「近代文学」も時事を扱う雑誌のグループにいれられ、事前検閲を受けなければならなくなった。
その頃は占領軍が原子爆弾の惨害について極度に神経質な気のつかい方をしているという不利な状況にあり、そしてまた、その占領軍に使われている日本人の検閲係が占領軍の気持を忖度して出来るだけ事を構えないようにしているという二重の不利な状況があって、内閲にだされた『原子爆弾』は何処かの個所を削除したら好いという性質のものでなく、全体として検閲に通りがたいという口上をつけて返されてきた。
そのとき私達の覚えた残念さは、好い作品を得た喜びが大きかっただけに、激しかった。
内閲になど出さずにいきなり刷ってしまえばよかったと悔まれた。
また、これを英訳して、はじめ、米国の雑誌に載せ、それを翻訳してこちらに出したという逆輸入のかたちをとるようにしたらどうだという奇抜な案も出た。
この名案は平野謙の案出したものであった。けれども、最後に到達した案は、時事を扱う雑誌グループに指定されていないところの、つまり、事前検閲を受けないで出せる雑誌に、この『原子爆弾』を出さすべきだという甚だ残念な結論であった。
そして、この作品は『夏の花』と改題され、暫らく時間を置いたのち事前検閲のない「三田文学」に載せられたのであった。
(埴谷雄高「「近代文学」創刊まで」、「近代文学」1955年11月号より) 埴谷の説明をまとめると、
(一)当時、雑誌に検閲には事前検閲(発効前)と事後検閲(発効後)があり、時事問題を扱う雑誌には事前検閲があった。
(二)「近代文学」は時事問題を扱う雑誌と見なされ、事前検閲を課せられていた。
(三)占領軍に雇われている日本人の検閲係に「原子爆弾」を内閲に出したところ、部分的に削ったとしても通らないと言われた。
(四)「近代文学」への掲載を諦め、事前検閲のない「三田文学」に原稿を回した。
ということになる。 『定本 原民喜全集』別巻所収の鼎談で、「群像」の編集者だった大久保房男は、当時の事前検閲は、表紙を含めた全ページのゲラ(校正刷り)を揃え、校了(校正をすべて終え印刷に回すこと)する形にして持って行かなければならなかったと話している。
つまり、完成品と同じ体裁で提出させられたということだ。
その上で、検閲官に削除を指示された部分を削り、検閲が行われたと読者にはわからないように前後をつなげた。
伏せ字にはしないというのがGHQの方針だったという。 ここに引いた埴谷の回想によれば、「原子爆弾」はゲラにせず、原稿のまま内閲に出したことがわかる。
ただ、鼎談での佐々木の発言によれば、ここでいう内閲とは正式のものではなく、人を介してGHQの検閲局にいる日系二世を紹介してもらい、「これ出していいかどうか、ちょっと下見してくれ」と頼んで読んでもらったというものらしい。
「そしたら、やはりこれは駄目だっていうんで、それでまあ遠慮しちゃったわけよ」と佐々木は説明している。
埴谷が「内閲になど出さずにいきなり刷ってしまえばよかったと悔まれた」と述べているのは、削除を指示されることを覚悟して、ゲラにして提出してしまえばよかったという意味なのだろう。 この鼎談で佐々木は、原稿を「三田文学」に回した理由について、「ああいう文学雑誌で、総合雑誌扱いじゃないから、あまり向こうも注目しない、で、そっと、題も変えて……。そしたら文句来なかったんだな」と話し、大久保が、「三田文学」は商業雑誌ではないので検閲がゆるかったと補足している。
(『原民喜 死と愛と孤独の肖像』梯久美子 岩波新書 2018年)