2022年9月25日日曜日

風はあまり吹かなかったけど

 大阪は台風の被害がなく青空が広がっています。
風があまり吹かなかったけど歩きやすかったです。

静岡市清水区 約5万5000世帯で断水続く 復旧のめどたたず」(NHK)
ロシア 支配地域の「住民投票」に 欧米「偽の住民投票」と非難〟(NHK 9月24日)

ロシアで部分的動員令への抗議続く、1日で700人超逮捕と人権団体」(BBCNEWS)

ウクライナの領土を奪う「侵略」。
ウクライナは、常に大国の侵略を受けてきました。
プーチンと重なるのは、スターリンですし、ヒトラー。
ロシア軍の「Z」を二つ重ねれば、ナチスの「ハーケンクロイツ」。

Ⅲ 講義 歴史学者と学ぶウクライナのこと
 ヒトラーにとっての「失われた土地」

 
 それから十年後にドイツの政権を担ったヒトラーたちが、しばしばウクライナへの欲望を語った背景には、上記のような歴史、つまり、一度、自分の勢力圏に入った穀倉地帯を失たという経験があったのです。
 1939年9月1日にヒトラーがポーランドに侵攻して第2次世界大戦がはじまりますが、ヒトラーが東ヨーロッパへと侵攻した理由のひとつは、資源の獲得でした。
東ヨーロッパにある資源を大陸から移送させて、ドイツを巨大な大陸帝国にしていくことを目指していた。
重要な資源は、ルーマニアの石油や小麦、そして、とくにウクライナの肥沃(ひよく)な大地だったのです。
こうした中東欧を含んだ勢力圏を、ナチスは「レーベンスラウム」(生存圏あるいは生命空間というような意味です)と呼び、人口が拡大する若々しい人種(ナチスは「アーリア人」と呼んでいました)には土地がもっと必要であるという欲望を正当化しました。
(『中学生から知りたいウクライナのこと』小山哲・藤原辰史 ミシマ社 2022年)
 ポーランドの西半分はソ連の侵略を受け、ソ連領内に奪われますが、1941年6月22日の独ソ戦開戦以後、ドイツはウクライナを占領しました。
ウクライナの人びとにとってみれば、強制収容所に送られたユダヤ人を覗いて、ドイツはある意味でソ連からの解放者でした。
ウクライナ人のなかにはドイツ軍に協力する者もあらわれました(そうした人たちを「コラボ」と呼びます)。
 しかし、ソ連がナチスを追い返したあとは、ナチスと協力した人間は処刑されるかシベリアに送られました。
ソ連政府は、ナチスやファシズムは、自分たちが命懸(いのちが)けで戦って勝利を収めた相手なので、もちろん称賛(しょうさん)することはありません。
そして、プーチンが自分の敵国のことをすぐに「ファシスト」と呼ぶのは、こういった背景があります。
 あとで述べるように、集団化して土地の所有権を奪われたウクライナの穀倉地帯の農民たちは、ロシア中枢にとっての収奪の対象となり、これによって大飢饉が発生しました。
ところが、ナチスは、本来ソ連のような農地の集団化には反対の立場なのですが、混乱を防ぎドイツに穀物を合理的に移送させるため、ウクライナの集団農場を解体しませんでした。
その結果、ウクライナの人びとのなかではナチスから離れていく人も増えていきます。
(『中学生から知りたいウクライナのこと』小山哲・藤原辰史 ミシマ社 2022年)
明日が「彼岸明け」ですが、リハビリ散歩に行けないので

Ⅱ 明治の東京歳時記
 彼岸の墓参り


 上野から谷中、日暮里まで寺が百軒も並ぶので、春秋二回のお彼岸のころだけは、車も渋滞し、花や樒(しきみ)を抱えた人びとでにぎわう。
(すすき)、竜胆(りんどう)、菊、そんな色とりどりの花を見ると、ああ秋が来たんだ、と思う。
(『一葉の四季』森まゆみ 岩波新書 2001年)
 明治24年9月26日朝、一葉は上野の図書館に行くが、まだ開いていなかったので、ちょうどいい、今日は彼岸の終わりの日でもあるし、谷中墓地に父のゆかりの真下槙子(ましもまきこ)の墓参りをしようと思いついた。
谷中墓地は明治7年ころ設けられた共同墓地で、もとは「新葬地」と呼ばれていた。
谷中、雑司ヶ谷、染井、青山、墓地はいずれも東京の郊外にあった。
 明治の人間はこのように早起きである。
日のめぐり月のめぐりに合わせた江戸の不定時法の名残りか、日が昇ると起き、人をたずねるのも早い。
 「寺僧も今寐起たる斗(ばかり)成き。あか(閼伽)くむも花たづそふるも悲しきものから、いと嬉し。絶ず苔(こけ)のしたに聞らむ松風の袂(たもと)ぬらして手むけもあえず先打なげかれぬ」。
 しっかりした子どもがいないわけでもないのに、この荒れようはどうだろう。
花を手向ける人もなく水は枯れ、墓はかわいている。
人生とは何なのだろう。
 「このはかなごとやみをもはなれざりけり」
 真下槙子は、父則義(のりよし)の郷里の先輩で母たきと二人、江戸に出奔したとき世話になった真下専之丞の次女であった。
同年7月17日、お盆のころにも槙子の墓を詣でた記述がある。
 春分、秋分が彼岸の中日、その前後三日ずつを合わせ、七日間が彼岸である。
此岸(しがん)にいる人間たちが、三途(さんず)の川のあちら側にいる人に思いをはせ、仏事を行い、墓参りをする。
その終わりの日に、だれ一人お参りに来た気配がなく、一葉は鼻白む思いがした。
 とするとこの年、秋分は23日。
「今日は秋季皇霊祭なるものからに隣なる家よりこはいひふかすべきもの借り来たる」。
強飯(こわいい)、つまり糯米(もちごめ)を蒸すせいろを借りたのである。
春分、秋分の日をそれぞれ春季、秋季皇霊祭という。
代々の天皇、皇后など歴代の皇霊を慰める行事として明治11年に制定されたが、庶民の家では先祖の御霊(みたま)に対しても行われた。
 「月の十日に母(はは)さまが御墓(おんはか)まゐりを谷中の寺に楽しみて、しきみ線香夫々(それぞれ)の供へ物もまだ終らぬに、母さま母さま私を引取つて下されと石塔に抱きつきて遠慮なき熱涙、苔のしたにて聞かば石もゆるぐべし」(「ゆく雲」)。
 一葉の家でも、この日牡丹(ぼた)もち、すなわちおはぎをつくり、仏前に供えている。
(『一葉の四季』森まゆみ 岩波新書 2001年)
樋口一葉について

第2章 『枕草子』のゆくえ
 4.樋口一葉・森茉莉への系脈
 *樋口一葉


 この章の最後に、近現代文学から、『枕草子』の系譜を発掘しておきたい。
樋口一葉(1872~96)は、紫式部よりも、高い自負心を胸に生きた清少納言の方に、親近感を抱いていたようである。
清少納言の落魄(らくはく)伝説を詠んだ歌が残っている。
清少納言が晩年、荒れ果てた家に住んでいて、通りかかった若い貴族たちに、「駿馬(しゅんめ)の骨を買わないか」と言ったという『古事談(こじだん)』に記されているエピソードを、一葉は歌に詠んだ。
(「『方丈記』と『徒然草』」島内裕子 放送大学教育振興会 2018年)
  破(や)れ簾懸(すだれか)かる末にも残りけむ千里(ちさと)の駒(こま)の負けじ心は

 簾が「懸かる」と、「斯(か)かる末」の掛詞である。
「駿馬」を「千里(せんり)の馬(うま)」と言うことから、大和言葉の「千里(ちさと)の駒(こま)」に言い換えている。
貧しかった一葉は、晩年に落魄して貧しさに嘲弄された清少納言の「負けじ心」に共感している。
高い教養と、自分自身の才能に対する強い自負。
この「負けじ心」が、「明治の清少納言」とも言うべき樋口一葉を誕生させたのだろう。
 また、一葉には、「寄枕草子恋(まくらのそうしによするこい)」という題の和歌がある。
数えの二十歳の時である。

  つれなくも此(こ)の君(きみ)とのみおぼめくか心の丈(たけ)も見ずはあらじを

  相(あひ)思はぬ仲(なか)は鞍馬(くらま)の九折(つづらをり)近くて遠き物にぞありける

 『枕草子』に、竹のことを漢詩で「此(こ)の君(きみ)」と呼ぶことを眼目とするエピソードがある。
その「竹」を、「心の丈」の掛詞に仕立てて、恋歌とした。
また、列挙章段(物尽くし章段)の「近(ちか)くて、遠(とほ)き物(もの)」の中に、「思(おも)はぬ兄弟(はらから)・親族(しんぞく)の仲(なか)」などと並んで、「鞍馬(くらま)の九折(つづらをり)と言(い)ふ道(みち)」とある。
ここを用いて、一葉は、片恋の関係にある男女も「近くて、遠き物」だとして、片恋の苦しさや切なさを歌に詠んでいる。
単に『枕草子』をなぞるだけでなく、そこから恋のストーリーを組み立てており、それが一葉を小説家に成長させた。
一葉は、短編小説の数々と、膨大な日記を書き残した。
一葉が『源氏物語』のような長編ではなく、短編を志した点に、『枕草子』の影響があったのかもしれない。
また、一葉の日記も『枕草子』の「日記回想章段」との関連で位置づけることができよう。
(「『方丈記』と『徒然草』」島内裕子 放送大学教育振興会 2018年)
今朝の父の一枚です(^^)/
モズが山から下りてきたようです。

渥美半島の秋の鳥  杉浦明平(小説家)
 百舌鳥の叫びに引きしまる秋

…前略…

 けれども、キッキッキーと鼓膜(こまく)の破れそうな百舌鳥の叫び声こそ、本格的な秋に入ったことを告知する声なのです。
 ついでにここで残虐な殺し屋のように見える百舌鳥が、思いがけぬユーモラスな性格をもっていることをご紹介しないわけにはゆかぬ。
もっともそれは秋の鳥ではなくて、渡りを忘れてついうっかり食べものの豊かな渥美(あつみ)の野山に春まで腰をすえてしまった百舌鳥のことだ。
2月はじめに鶯(うぐいす)が渡ってきて、頼りない囀りを始めるころ、ときどき木立の中で「ホケキョ、ホケキョ」と囀る声を聞くことがある。
「鶯が初音を洩(も)らしたようだよ」というと、小鳥のことに明るい友人は「鶯なもんですか。百舌鳥が鶯の真似(まね)をして、人をからかっているのですよ」と一言の下に否定してのける。
あの新選組の土方歳三(ひじかたとしぞう)のように小鳥から蛇まで引き裂く百舌鳥が、春をやさしく告げる鶯の囀りを真似してみせようとは。
(『野鳥の歳時記4 秋の鳥』日本鳥類保護連盟監修 小学館 昭和59年)

モズの鳴きまね」(小学6年)