2022年9月5日月曜日

台風が近づいているけど…

台風が近づいているけど風がほとんど吹かなくて
頭上には雲がない青空(^^;
一度、ヒンヤリした後の暑さはこたえるなぁ…

台風11号 6日朝にかけ九州北部に接近の見込み 安全な場所へ」(NHK)
 昨日、内田樹さんのブログの記事から「廃仏毀釈について」を紹介したのですが、
その中に泉涌寺についても書かれていました。
畑中章宏さんの著書より

第二章 古都の惨状――奈良・京都・鎌倉
 †泉涌寺の扱い


 神仏分離後には、宮中にあった御黒戸は撤去され、恭明宮(きょうめいぐう<現在、京都国立博物館が建つところにあった>)に遷座し、さらには泉涌寺舎利殿に遷されて安置されることになった。
その後、御黒戸を移築した泉涌寺の海会(かいえ)堂に、歴代天皇、皇后、皇族方の御念持仏三十数体が祀られることになる。
(『廃仏毀釈――寺院・仏像破壊の真実』畑中章宏 ちくま新書 2021年)
 泉涌寺について孝明天皇は、「四条帝以来御代々御陵守護の官寺、皇祖御尊敬の訳をもって諸寺の上席となすべし」という意志を示し、天皇家が崇拝してきた寺院としての処遇を求めたが、神仏分離の影響を免れることはできなかった。
泉涌寺の財政は、新政府に五〇〇〇両の借用を申し入れたほど、維新の混乱で逼迫した。
明治天皇は即位の大礼を前に、泉涌寺内にある孝明天皇の御陵を参拝したが、歴代の御尊牌に参詣することはなかった。
 いっぽうで明治天皇は、史上はじめて伊勢神宮に参拝し、孝明天皇三年忌(三年祭)も、第一二〇代仁孝(にんこう)天皇(在位1817~46)の二五回御忌も神式で斎行されている。
 泉涌寺山内の御陵は寺門から切り離され、宮内省所管となったが、泉涌寺にたいする皇室の支援が途絶えたわけではなかった。
孝明天皇御三回忌には大宮御所から銀一〇〇〇枚の下賜があり、翌年から年間一〇〇石の禄高が増やされ、菊の御紋章の使用も例外的に許された。
ようやく再興の見通しがたってきた明治15年(1882)に泉涌寺が火災に見舞われたが、再建の資金を提供するなど、戦後の新憲法公布まで、修理費用はすべて宮内省が支出した。
翌16年には明治天皇から、鎌倉時代に泉涌寺を開山した俊芿(しゅんじょう)に「月輪大師」の号が贈られ、明治天皇の行幸は元年以来、11回におよんだ。
明治天皇は神仏分離を経ても、仏教の外的な保護者としてふるまったのである。
(『廃仏毀釈――寺院・仏像破壊の真実』畑中章宏 ちくま新書 2021年)
ポツダム宣言受諾によって日本は1945年8月15日敗戦を迎えたのですが
国外にいる日本人は政府の助けがないなか、帰国するために悲惨な日々を送ります。

7 引揚げ――終戦前後
 引揚げ


 日本の戦争(太平洋戦争)は、「ポツダム宣言」の受諾という形式による降伏で、正式に終了した。
 しかし、この降伏を、突然の出来事として受けとった日本国民は決して少なくない。
外地にいてそれを迎えた軍人、とくに下級の兵隊や一般の居留民がそれである。
その同胞たちにとって、戦争という状況は、国内でのように迅速にあらたまらなかった。
「戦争」はまだ終らず、中には戦争中にもまさる苦難に悩んだ日本国民は少なくないのである。
(『戦中用語集』三國一朗 岩波新書 1985年)
 一応、降伏文書調印の手続きは、昭和20年9月2日、東京湾に入ってきたアメリカの戦艦「ミズーリ」号の艦上でおこなわれました。
同時に、「連合軍最高司令官」ダグラス・マッカーサーが<軍事司令第一号>を発し、日本の軍隊の降伏方式が、それで決まった。
 その時点で、「外地」に残されている日本の軍隊は370万人、その大まかな内訳は、満州・朝鮮に約100万、中国に約110万、南方諸地域に約160万、合計370万の陸・海軍人、そのほか大陸各地の居留民つまり民間日本人は300万近くが残っていたといわれる。
 このときの日本政府が何より恐れたのは、国民の間に異常事態が発生し、進駐してくる占領軍との間に摩擦が起きて、軍政の下に連合軍の直接統治がおこなわれるような事態になることだった。
そのために、第一に急がれるのは国内の軍隊の解体、つまり海軍も陸軍も、兵隊たちを一刻も早く「武装解除」して故郷に帰らせることであった。
輸送機関は大部分破壊されていたが、兵器を捨て、被服その他のわずかな物資を背にした復員兵たちは、占領軍の到着前に、なんとか故郷に、わが家にと帰っていった。
それに対し、戦争中の南方諸地域などで、日本軍の頑強な抵抗を経験しているアメリカの占領軍部隊は、警戒と緊張の中で上陸してきたが、急速な軍隊の解散のおかげで、おおむね無事であった。
 しかし、その後も「外地」に残された部隊の旧軍人たちの帰国は、必ずしも順調には進まなかった。
やはり船舶の大部分が戦争中に失われているからで、その遅滞のため、降伏決定後も南方の孤島などに取り残され、むざむざと餓死者を出す例や長期の<強制労働>に苦しむ同胞が多かった。
とくに戦後ソ連軍によりシベリアに連行された満州駐在の諸部隊、イギリス軍進駐地域に残留した南方軍の諸部隊は、強制労働を課せられ、苦難の体験を重ねることになる。
 寒地、熱地における過重の労働に加えて、食糧の欠乏、生活環境の劣悪、生命の脅威などから、在外残留日本人が蒙った苦難の記録は尨大なものだ。
とくにフィリピンや中部太平洋諸島からの引揚げ者の中からは、「餓死者」が続出するという事実さえあった。
 残留日本人の悲惨な状況は、こうして各地に見られたが、満州の関東軍が「ソ連参戦」とともに総退却し、在留民間人をおびただしく<置き去り>にした事実は、とくに国民に衝撃を与えた。
残された人たちの多くは、青壮年男子を軍隊に引きぬかれたあとの老幼婦女子であった。
ソ連軍による暴行掠奪事件が多発したことは、中国における日本軍による暴行殺戮の事実などを考えあわせ、あらためて戦争の惨禍に慄然とする。
満州からの「引揚げ」は、いちじるしく遅滞した。
大部分の引揚げが終ったとされる昭和23年8月の時点でも、まだ数万を数える在留日本人が残されていたといわれ、捕虜となってソ連領内に<連行>され、各地域に分散させられて<強制労働>に服した人びとの引揚げは、昭和31年にまで及んだ。
 やっと母国の港に岸壁にたどりついた人びとの姿の中で、とくに涙を誘ったのは、幼い引揚げ者たちの、疲れきった姿であった。
 当時、引揚げ者たちの姿を記録した写真の中で、とくに力弱い女性や子供にカメラをむけて記録した飯山達雄の作品を見ると、私たちはつくづく戦争の惨害の甚大さを思わざるを得ない。
 写真の中の、一組の幼い引揚げ者は、飢えと恐怖におびえ、徒歩と無蓋貨車によってであろうか、満州からの<引揚船>への乗船地「コロ(葫藘)島」にたどりついたばかりの姿を示している。
少女は眠りこけた妹を背にしばりつけ、長い旅路の炎熱を辛うじて共に避けてきた一つの編笠を、大事そうにしっかりと握っている。
また一人の、さらに小さな男の子は、自分の身体ほどの荷をつめたリュックサックを背負っている。
また、もう一枚の写真の中には、引揚げの途中に両親を失った四、五歳の孤児が、博多の引揚げ寮の一隅で、見知らぬ引揚げ者が用意している朝食のそばへ、おずおずと近寄ってきている姿が写されている。
 さらにまた、のちに多くの同胞たちの眼にふれることになる一枚の作品(「満州・奉天の孤児収容所前で(昭和21年7月)」<省略>)は、母の遺骨を納めた木の箱を白布で首から胸に下げ、やせこけた素足に粗末な草履をはいて、呆然(ぼうぜん)とあらぬ方を見ている子供を撮ったものである。
少年のように見えるその子供は、実は暴行を避けるために髪を断ち坊主頭になった少女であり、朝鮮北部から奉天まで600キロの道のりを、半年がかりで歩いてきたとのことであった。
 また、帰国の望みを断たれ、異郷の土と化した日本人同胞、為政者の掛け声に躍らされ、「大陸進出」の犠牲になった還らざる国民が多かったことも、生き残った私たちは忘れてはならないだろう。
「中国残留孤児」についてもしかりである。
(『戦中用語集』三國一朗 岩波新書 1985年)

飯山達雄『小さな引揚者』(草土文化 1985年)は、絶版になっています。
白布を胸に抱いた少女の姿は、目に焼きついています。
今もウクライナではロシア軍による掠奪・殺戮が繰り返されている。

舞鶴引揚記念館
今朝の父の一枚です(^^)/
キカラスウリを写していました。

キカラスウリ(黄烏瓜) ウリ科

 茎はつる性で、巻きひげで他物に絡まりながら伸び、黄緑色で光沢のある葉が互生する。
花冠の裂片の先が広がり、レース状の部分が短い花を夕方になって開花するが、カラスウリと違って、翌日の日の出後も開いていることもある。
雌雄異株で、雌花は花後に、黄色に熟す大きな果実をつける。
中に、茶褐色の丸みを帯びた扁平な種子がある。
(『道草の解剖図鑑』金田初代 エクスナレッジ 2021年)