2022年5月7日土曜日

青空

青空で日差しがつよくクサイチゴの実が光っていました。
クサ」とついているけど落葉の小低木。
食べる時に虫が入っていないかよく見てからの方がいいですよ(^_-)
夏には桑苺とも呼ばれる実がつき、黒紫色に甘く熟する。

 ゆきゆきて桑の実食むもまたかなしいかばかりの身のいづこ黒ずむ  小中英之

 艶やか葉や紅い実が、しばしばものがなしく歌われたのは、養蚕所の暗さや蚕飼いの労働の重さが背景にあるからか。
昨今の養蚕は飼料を用いることが多くなり、なによりも養蚕業自体の衰退で、桑畑もなかなか見られなくなったが、かえってそれ故に、桑は、遠い古里のイメージを呼ぶ象徴的な語ともなって来た。  (宮原望子)
(『岩波現代短歌辞典』岡井隆監修 岩波書店 1999年)

新しくて懐かしい「桑の実」を知っていますか?〟(JA長野県 2017.06.20)
 2021年10月22日の記事で紹介した「5 小説『不如帰』と結核」(『病が語る日本史』)
ヒロイン浪子のモデルは陸軍大将大山巌の長女信子です。
不如帰』は徳富蘆花の出世作とも言われるのですが…
第13章 前進と後退

…前略…

 捨松も悲しみと絶望を味わっていた。
先妻の長女、信子は十七歳で結婚した。
捨松はまだ早いと思ったが、なさぬ仲の子のことなので大山家の意向に従った。
夫となる三島弥太郎は子爵の息子で前途有望な(しかもハンサムな)青年であり、アメリカ留学から帰ったばかりで農商務省に勤めが決まっていた。
名家同士の伝統を重んじる縁組であったが、若いふたりが愛しあっているという点がすごぶる現代的だった。
1893年[明治26年]にあげられた婚礼は喜びに満ち、戦争の脅威を忘れさせた。
だがその冬、信子の結婚生活は幸せとばかりではなかった。
インフルエンザが東京で流行し、信子は婚家の人々の看病に立ち働いた。
しまいに自分も感染して、もともと病弱だったために回復が遅れた。
婚家はゆっくり養生できるように彼女を里帰りさせた。
だが信子は結核にかかっていた。
(『少女たちの明治維新 ふたつの文化を生きた30年』著ジャニス・P・ニムラ、志村昌子・藪本多恵子訳 原書房 2016年)
 弥太郎はひとり息子なので跡取りをもうけなくてはならない。
信子は子供を作るどころか、恐ろしい不治の病に冒されている。
三島家にも感染したら大変だ。
すでに夫を亡くしていた弥太郎の母は、息子を離婚させて健康な妻を新しく迎えさせることにした。
お家存続のためには若者たちの愛など取るに足らないものだ。
 娘のことを思うと憤慨に堪えなかったが、争っても無駄だと知った大山は、三島家が切り出した離婚話に応じた。
信子は田舎にある親戚の家で療養していたが、離婚の話は知らされず、夫に宛てた手紙は彼からの手紙と一緒に使用人が処分していた。
だが、ひとりのメイドが弥太郎からの手紙をうっかり渡したことから、
1895年[明治28年]の秋には離婚が成立していた。
「私は一家を引き受けている身なので、自分の意見は通りません」と、三島弥太郎は捨松に宛てた謝罪の手紙で苦悩を綴っている。
「女々しい言い訳でございますが、このような不幸は前世の悪行の報いと存じあげます」。
アリスはいつものように現実を見つめ、因果ではなく社会学的視点で判断している。
「本当にお気の毒です」と彼女はうめに書き送った。
「日本では婚姻関係の法的拘束力が強くならない限り、決してよい方向に進まないと思っていましたが、これで確信しました」
 信子は嘆き悲しみ、容体が悪化した。
父は娘を穏田の屋敷に連れ帰り、捨松がコネチカット看護婦養成学校で学んだ知識を総動員して看病にあたった。
大山家ではほかの子供に伝染しないように離れを建てた。
信子はそこで療養をして栄養をたっぷり摂り、日差しが穏やかなときは外を散歩した。
だが、家族の努力も虚しく1896年[明治29年]5月、信子は二十歳の生涯を閉じた。
信子の悲しい末路は、アメリカがいくら称賛しようと、女性にとって日本はほとんど進歩していないことを証明していた。
教養が高く、もっとも見識の進んだ両親にいつくしまれた令嬢が、妻よりも夫と婚家の要求を重んじる社会のルールに結婚の夢を破られて命まで縮めるとは。
捨松の必死の看病についても、世間では、病気の娘を隔離して家族に会わせないなんて鬼のような義母だと、陰口をたたかれた。
 信子の死後間もなく、明らかに彼女と弥太郎の悲恋をもとにした小説が発表され、ベストセラーとなった。
タイトルの『不如帰』とは、古来より和歌を始め日本文学に多く登場し、激しいさえずりが連れあいの死を嘆く慟哭にたとえられることもある鳥の名である。
血を吐くまで鳴くとも言われ、特に胸を病んだヒロインにたとえられた。
作中、若い夫婦と大山は同情を込めて描かれているのに対して、捨松をモデルにした人物は好意的に描かれなかった。
物語に登場する義母は少女時代を英国で過ごし、「おそらく日本でもっとも英語に精通して」帰国したが、奇妙な外国語を操って鼻高々に振る舞ったあげく、婚家に不幸を招いた。
「彼女が新しい家庭で最初に試みたのは、それまでの風習はすべて変えるか、なくすことだった」。
それは卿の先妻が取り仕切っていた家事を思い起こさせるからだった、と続く。
当時では新しい恋愛のあり方を支持する小説だったが、著者は読者の共感を誘うために捨松のような西洋かぶれのキャラクターを登場させたのだった。
作品中の彼女は、「ヨーロッパ風の装いで香水のにおいをぷんぷんさせ、思いやりがなく利己的で偉そうで愛想がない」と描かれた。
 上流社会でも陰口が絶えない状況でこのような中傷が日本中の読者の目に触れたのは、耐えがたいことだった。
ただし捨松は実際には目にしていないだろう。
日本語の読み書きがまだ完全ではない彼女がこの小説を読めたとは思えないからだ。
…後略…
(『少女たちの明治維新 ふたつの文化を生きた30年』著ジャニス・P・ニムラ、志村昌子・藪本多恵子訳 原書房 2016年)