2022年5月4日水曜日

みどりの日

 今朝は青空が広がっていました。
今日は「国民の祝日」の「みどりの日」。
子どもの頃、5月4日は、祝日ではなかったけど…
帰るとき、駐車場の入口では長い列を作っていました。
 EMURA TetuyaさんのTwitter(4月30日)に

いい貼り紙がしてある
貼り紙の画像

クマバチ(熊蜂、学名:Xylocpa)は、ミツバチ科クマバチ属

 体が大きくてよく目立ち、大きな羽音をたてて飛ぶため、人々に恐怖心を与えますが、決して人を襲うことはありません。
 手でつかんだりしないかぎり刺されることはまずありません。
 毒性は低くミツバチに相当する程度です。
 しかし、アレルギーのある方は近寄らないでください。


これまでにも紹介していますが、ホバリングをしているのはオスで針がありません。
針はメスだけが持っています。
というのも産卵管が変形したものです。
クマバチの体とその特徴」(小学3年)

クマバチのオスの習性」(小学3年)
蕪村句集 夏
  円位上人の所願にもそむきたる身の、
  いとかなしきさま也
実ざくらや死(しに)のこりたる菴(いほ)の主(ぬし)

円位 西行法師の法名。
所願 「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」(『山家集』)

同じ草庵住まいでも西行上人の風雅に及ばず、花が散って実桜の頃になってもなお無為に生きのびている、老残の身の恥ずかしさ。

ある老僧の述懐か、作者自身を架空の庵主に仮託した感懐か、いずれとも解される。
(『與謝蕪村集 新潮日本古典集成』清水孝新潮社 昭和54年)
 折々のことば 鷲田清一 2022.5.3

自分が日々接すると人たちと、まず平和な関係を築くこと
           隠岐―須賀麻衣の恩師

 高校時代、世界平和に貢献するにはどんな仕事に就けばいいか教師に訊(たず)ねた。
その時の返答だ。
政治思想史家になって、民主主義について同じように考えた。
つねに正しい政治的判断を下しうる人はいない。
だから、民主主義的な決定には互いに考えを吟味しあえる他者が必要だと。
それも日々の暮らしのただ中に。
「時を超えるギリシアの民主主義」(「世界思想」49号)から。
鷲田清一さんの「折々のことば」を読むと、短い文章でも心に響きます。
現在、話し合うことが困難な人たちが支持されている。
かつて知事や市長を務めた橋下氏のツイートを
水道橋博士さん
が画像で載せていたので検索すると本当だった。

2013年6月17日のTwitterに

コメンテーターは何の責任も負わない。
言いっ放しで済む。
判断の誤り、見立ての誤りについて何の責任も負わない。
何を言っても批判される厳しい状況では、見解を述べることを回避できる。
逃げれる。
しかし政治家は常に、あらゆることに責任を負う。
逃げは許されない。
これが決定的な違いだ。

知事・市長時代に責任をとったかな…?
大阪の医療崩壊のもとを辿れば、和歌山県と違って保健所などの削減等にあると思う。
こんな人が支持されているのだと思うと情けなくなるので
 30年前に出た本だけど久しぶりに開きました。

 あとがき

 動物が変われば時間も変わるということを知ったときは、新鮮なショックを感じたものだ。
時間は唯一絶対不変のものだと、あたまから信じ込んできたのだから。
時間がいろいろあると聞いて、なにか一つ賢くなったような気がした。
 このとき、動物学を勉強しはじめて10年以上たっていたので、別の意味でのショックも大きかった。
時間が違うということは、世界観がまったく異なるということである。
「相手の世界観をまったく理解せずに動物と接してきた。こんな態度でやった今までのぼくの研究はどんな意味があったのか?」と呆然とした。
それと同時に、こんな大事なことを教えてくれなかった今までの教育に、怒りを感じた。
本書は怒りを「てこ」にして、自分自身への反省をこめて書いたものである。
(『ゾウの時間ネズミの時間』本川達雄 中公新書 1992年)
 このショックを機に、動物の世界観について考えるようになった。
おのおの動物は、それぞれに違った世界観、価値観、論理をもっているはずだ。
たとえその動物の脳味噌の中にそんな世界観がなくても、動物の生活のしかたや体のつくりの中に、世界観がしみついているに違いない。
それを解読し、ああ、この動物はこういう生活に適応するためにこんな体のつくりをもち、こんな行動をするんのだなと、その動物の世界観を読みとってやり、人間に納得のいくように説明する、それが動物学者の仕事だと思うようになった。
そう思い定めてやったのが、終章で紹介した棘皮(きょくひ)動物のデザインの仕事である。
 近ごろ、外国との摩擦のニュースを聞くにつけ、違う世界観を理解することのむずかしさがよく分かる。
同じ人類の間でそうなのだから、違う動物の世界観を理解することなど、よほど努力をはらわなければできないことである。
しかし、その努力をしなければ、決して人間はさまざまな動物を理解し、彼らを尊敬できるようにはならない。
 サイズを考えるということは、ヒトというものを相対化して眺める効果がある。
私たちの常識の多くは、ヒトという動物がたまたまこんなサイズだったから、そうなっているのである。
その常識を何にでもあてはめて解釈してきたのが、今までの科学であり哲学であった。
哲学は人間の頭の中だけを覗いているし、物理や化学は人間の目を通しての自然の解釈なのだから、人間を相対化することはできない。
生物学により、はじめてヒトという生き物を相対化して、ヒトの自然の中での位置を知ることができる。
今までの物理学中心の科学は、結局、人間が自然を搾取し、勝手に納得していたものではなかったか?
 本書を執筆の途中で、沖縄から東京に引っ越しした。
人の歩く速度が違う。
しゃべる速さが違う。
物理的時間にきつく縛られた都会人の時間が、はたしてヒト本来の時間のかと、疑問に感じてしまう。
 沖縄からの飛行機が近づいていくと、東京方面に灰色のかたまりが浮いて見える。
これに突入すると、そこが羽田だ。
タラップを降りて見あげる空は、えもいえず、もやーっとしている。
確かに東京には空がない。
空を見上げる気にもなれない。
空を見ていた目が行き場所を失い、自分の頭の中を見つめはじめる。
 生き生きとした自然に接していないと、人間はどうもすぐに頭の中を見つめはじめ、そして抽象的になっていくもののようだ。
抽象的になりはじめると、とめどなく思考のサイズは大きくなり、頭でっかちになっていく。
 都会人のやっていることは、はたしてヒト本来のサイズに見合ったものだろうか?
体のサイズは昔とそう変わらないのに、思考のサイズばかり急激に大きくなっていく、それが今の都会人ではないだろうか。
体をおきざりにして、頭だけどんどん先に進んでしまったことが、現在の人類の不幸の最大の原因だと私は思っている。
 第一章と第二章の内容の一部は『中央公論』の随筆として書いたものである。
これらはその後、日本エッセイストクラブ編のベストエッセイ集『おやじの値段』と『ネパールのビール』(いずれも文芸春秋社)に再録されたので、お目にふれたこともあろうかと思う。
ここにお断りしておく。
 本書の原稿を読んでいたたき、貴重なご意見を賜った東北大学の西平守孝氏、東京工業大学の伊能教夫氏に感謝する。
また編集の石川昻氏には、いつもながらお世話になった。
例により、巻末に歌を付けておく。
御笑唱くだされば幸いである。
 1992年4月  本川達雄
(『ゾウの時間ネズミの時間』本川達雄 中公新書 1992年)

〔深夜便かがく部〕うたう生物学 生物学者 本川達雄」は、5月9日に放送されます。
10時前に寝るので、「聞き逃し配信」で聞きます(^^ゞ
今朝の父の一枚です(^^)v

たけ(タケ)
  太氣・多氣・竹  イネ科

植竹(うゑだけ)の 本(もと)さへ響(とよ)み 出(い)でて去(い)なば
  いづし向(む)きてか 妹(いも)が嘆(なげ)かむ
           作者未詳(14巻 3474)

 竹のある風景は、日本的です。風に揺れる竹林、葉の音、青竹、春になると顔を出すタケノコ……。
どれもが、わたしたちの気持をなごませてくれます。
 万葉のふるさと明日香(あすか)は、竹林の多いところです。
あの高松塚(たかまつづか)にも竹があります。
毎年春になるとニョキニョキとタケノコが出て来て、古代史ファンを喜ばせてくれます。
 「植えた竹の根元まで響(ひび)かせせるように、騒(さわ)がしくして出て行ってしまったなら、あの娘(むすめ)がどんなに悲しむことだろう」
 男と女に別れはつきものかもしれませんが、去る悲しみと去られる辛(つら)さ……ともに味わいたくない〝恋の味〟ですね。

[植物メモ]
 タケは万葉集に14首詠まれているが種類が多く、総称との説が一般的。
マダケは中国原産で日本には古くから渡来し、東北地方から南の各地に広がっている。
食用の筍(たけのこ)はモウソウチクのものが多い。
マダケは中空(ちゅうくう)の茎(稈<かん>)の直径が3~14センチと太く、用材として利用される。
(『万葉集の植物』解説吉野正美、写真川本武司 猪股静彌 偕成社 1988年)