2022年5月29日日曜日

風がない…

 朝から気温が上がっていました。
風があまり吹かなかったので一層暑かったです。
空を見ると魚の骨のような雲が浮かんでいた(*´▽`*)

近畿地方 午前中から真夏日のところも 熱中症に注意を」(関西NHK)
去年までは、たまに出会う程度でしたが、今年は、毎日、見るようになりました。
タイワンタケクマバチ
侵入生物データベース(国立環境研究所)の「国内移入分布」を見ると
大阪はないのですが、増えてきているようです。
昨日の記事で紹介した与謝蕪村の「春風馬堤曲」について

与謝蕪村が、故郷毛馬村の淀川堤を詠み上げた句 【都島区毛馬町・蕪村句碑】
 春風や 堤長うして 家遠し


 ◎新淀川開通で水没した蕪村の生地

 与謝蕪村は、東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)に生れた。
芭蕉・一茶とともに江戸俳諧の巨匠である。
多くの俳画を残し、俳画の創始者とよばれている。
絵画表現と同じように写実的な俳句が多い。
(『なにわ ことば遺跡―名歌・名表現からみる大阪の歴史』山本正人 清風堂書店 2015年)
 20歳の頃、江戸に出て俳諧を学び、27歳の時、江戸をあとにする。
その後は画業を生業とし、関東・東北を巡る。
芭蕉を生涯にわたって敬慕し、芭蕉の足跡を探し、『奥の細道』をたずさえて東北を旅している。
その後、丹後、讃岐を経て42歳の頃に京都に居を構えた。
68歳で亡くなるまでこの京都に住み、墓は左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)にある。
 この歌は、故郷毛馬村の淀川堤を思い詠み上げたものだ、と後年友人に書簡を送っている。
故郷毛馬村への思いは強いものがあるが、故郷へ帰ったという記録はない。
 現在の毛馬町は、新淀川と旧淀川(現大川)の分岐点にあたり、毛馬の水門や閘門(こうもん)がたっている。
この毛馬から西へ、当時の中津川の流路を利用して新淀川が建設された。
明治31(1898)年から12年がかりの大工事であった。
この新淀川建設とともに、蕪村の生地も水没したものと思われる。
 江戸時代の淀川は、毛馬から南へ折れ、天満の南縁をまわり、大坂市中を流れ安治川(あじがわ)となって海に注ぐ。
曲流する淀川は毛馬付近でよく切れた。
長く高い淀川堤は、晴れの日には遠望かなたまで続いていた。
雨とともに豹変する淀川の二面性は、のどかな日々を一層ひきたてた。
 写真の句碑とは別に淀川工事事務所敷地にある碑には、「此ノ所在地ヨリ北方約三百米突地点ニ在リシ」と蕪村の生家がこの近くにあったことが記されている。
この碑はもともと淀川の堤の上にあったものを、現在の碑を建てるとき移されたものだ。
  ◎里帰りを急ぐ母の姿と、蕪村の望郷の思いを重ねて

 さて、この歌は蕪村62歳の時、安永6(1777)年に書き上げた「夜半楽」の五題のひとつ「春風馬堤曲(しゅんぷうばていきょく)」の中にある。
この作品は、蕪村畢生(ひっせい)の作(『蕪村』藤田真一)として評価が高い和漢の詩を合体させた作品である。
 舞台のはじめは故郷大坂。
奉公づとめの娘が藪入(やぶいり)のため親里に帰省を始めた。
浪速の町をぬけた淀川堤にたどり着いた、という想定になっている。
この娘は、同じ境遇にあった蕪村の母親の姿を想い描いたものだ。
里帰りを急ぐ母の姿と、蕪村自身の望郷の思いを重ねたものである。
 18首の冒頭は「やぶ入や 浪速を出て長柄川」、第2首がこの「春風や 堤長うして家遠し」、春の川風と堤上にのびる道を遠望する。
 視界の彼方までのびる淀川堤、家までの道のりははるか遠い。
話は長い道中を経て、結びは母のもとへと無事到着するところで終わっている。
(『なにわ ことば遺跡―名歌・名表現からみる大阪の歴史』山本正人 清風堂書店 2015年)

第6話 与謝蕪村(1716年-1783年)」(なにわ大坂をつくった100人)
今朝の父の一枚です(^^)v
スズメはなじみの鳥なのでいろいろ言い伝えなどがありますね。

すずめ
〇スズメは田植時になるとよく家に入って来る(新潟)という。
スズメが家の中に飛び込んでくると、不吉な事がある(岩手・宮城)、父が死んだという知らせ(長野)。
これに対し、山口では、家の中にスズメが入ると良い事がある、と吉兆とする。
屋内まで飛び込んで来なくとも、軒近くに飛来するスズメについては、静岡では、雨垂れより中側まで入って来て遊ぶスズメはその家の故人の生れ変りだから、追ったりいじわるをするな、という。
一条天皇の時、陸奥に配流されて、その地で果てた藤原実方中将の亡魂が化して、ニュウナイスズメになったという伝説があるが、スズメに限らず鳥は魂の変形と考えられた。
(『日本俗信辞典 動物編』鈴木棠三 角川ソフィア文庫 2021年)

藤原実方の墓(実方塚)」(宮城県名取市)