2022年5月22日日曜日

気温がグングン上がり…

朝から青空で暑い(^^;)
洗濯物がすぐに乾いてくれるのは嬉しいのだけど…
白くて大きな花、タイサンボクが咲き出しました♪
秋の句ですが

 みの虫や笠置(かさぎ)の寺の麁朶(そだ)の中
     句帳(安永6.9.7 柳女・加瑞宛 夜半叟 遺稿)

[訳]蓑虫がぶらり、笠置寺の粗朶(そだ)のなかに。
[季]「みの虫」秋。
[語]笠置の寺――京都府相楽郡(そうらくぐん)笠置町にある真言宗の寺。壬申の乱に敗れ自害した大友皇子の創建といわれる。平安末期、末法思想の流行に伴って、弥勒(みろく)下生の霊場として信仰を集めた。
麁朶――伐り採った樹木の枝や薪。
[解]みの虫の「蓑」と笠置の「笠」が縁語。笠置寺の寺史をふまえ、蓑虫は麁朶の中で懶惰(らんだ)に過ごしているが、その運命はわからない。が、それも知らずにいるおかしさと達観ぶりに共鳴。
[参](省略)
(『蕪村句集 現代語訳付き』玉城 司訳注 角川ソフィア文庫 2011年)
大友皇子の歌が『懐風藻』に二首収められています。
大津の歴史事典 大友皇子」(大津市歴史博物館)

 淡海朝大友皇子(あふみてふのおほとものみこ)。二首。

  五言。宴(うたげ)に侍(じ)す。一絶(いちぜつ)。
皇明日月(くわうめいひつき)と光(て)らひ、帝徳天地(あめつち)と載せたまふ三才並泰昌(さんさいみなたいしやう)萬國臣義(ばんこくしんぎ)を表(あら)はす。

  五言。懐(こころ)を述(の)ぶ。一絶。
道徳天訓(てんん)を承(う)鹽梅眞宰(えんばいしんさい)に寄(よ)(は)づらくは監撫(かんぶ)の術(わざ)無きことを(なに)ぞ能(よ)く四海に臨(のぞ)まむ
(『懐風藻 文華秀麗集 本朝文粹 日本古典文学大系69』小島憲之校注 岩波書店 1964年)
 「皇室アルバム」を見ると
天皇陛下が第4回アジア・太平洋水サミット開会式にオンラインにて臨席されていました。
天皇陛下は、水問題を研究されています。

第4回アジア・太平洋水サミット 天皇陛下記念講演(2022年4月23日)」をYouTubeで見ることができます。

私が小学校4年生の時に父の故郷に帰省すると
まだ、祖母の家まで水道が届いていなくて谷川に水汲みに行きました。
そのとき、天秤棒で水桶を二つ担ぐのですが、難しくて水をポチャポチャこぼしてしまった。
親戚の女の子は上手に担ぐのに…
博物館でやってみよう!「体験!ちょっと昔の暮らし」を行いました。〟(栃木県立博物館)
汚染された水を介して感染症がひろがったことが何度もあります。
今、『コレラの感染様式について』を読んでいます。
この本は、第1版が1849年に、第2版が1855年に出版されました。
日本では、1854年に日米和親条約が締結されています。
1822年に大坂でコレラが流行した時、
道修町では行なわれたことは2018年10月26日の記事を参照してください。
ですから、現代の医学から見れば誤りもあります。
そんな古い本を読む意味はどこにあるのか?

訳者の山本太郎長崎大学熱帯医学研究所教授の解説を転記したいと思います。

(「試し読み」ができます)
  訳者解説

 本書は、イギリスの医師ジョン・スノウ(1813-1858)による On the Mode of Communication of Cholera の全訳である。
書誌ついてまず述べておく。
本書の第一版は1849年に出版された。
今回ここに翻訳したのは、それから約5年後、1855年に出された第二版である。
自費出版された第一版はわずか30頁ほどの小冊子だったが、本訳書を手に取られておわかりのように、第二版は大幅に加筆増補されている。
現代の感染症疫学および公衆衛生学の古典的著作として名高いのは、この第二版である。
なお、原書タイトルにある the Mode of Communication という語は「感染様式」と現代的に訳させていただいた。
ただし、原語の語感に沿って本文中では「伝播様式」と訳している。
ひと言おことわりしておく。
(『コレラの感染様式について』ジョン・スノウ著 山本太郎訳 岩波文庫 2022年)
 著者のスノウは、1813年、イングランド北部のヨークのあまり豊でない家庭に生まれ、市内でも最も貧しい地域で育った。
しかし、勉学に秀でたスノウは、わずか14歳で医師見習いとなり、医学の道を歩み始める。
そして、ニューカスル・アポン・タインで外科と薬学を学んでいた1832年、コレラの流行に初めて遭遇する。
このときの体験が、のちに本書の執筆へとつながった。
 現代ではもっぱら「疫学の父」として知られるスノウだが、生前の彼はむしろ、麻酔医としてよく知られる存在だった。
1844年にロンドン大学で医学博士号を取得、1850年には王立の内科医協会の会員になっている。
エーテルやクロロフォルムを、外科や産科で使用するための基礎的な研究を行い、ガス麻酔の手法を考案したスノウは、ヴィクトリア女王の無痛分娩による出産にも立ち会った。
 本来は麻酔医であるスノウが、コレラ流行の調査研究を行ったのはなぜか。
スノウの最初の研究は、遺体保存のためのヒ素に関する毒物学の研究だった。
その研究を通してスノウは、当時アメリカで使われ始めた麻酔に関心をもつようになる。
そしておそらく、麻酔という「毒」を扱うことで、コレラという「毒」にも目が向いたのだろう。
しかし何より、さまざまな現象の奥深くにひそむ謎の解明を追求してやまない、科学者の目をもっていたことが、スノウをコレラの感染様式の解明に惹きつけたのではないかと訳者には思われる。
スノウの観察眼の鋭さ、科学的推論の明晰さは、本書の記述の端々によく表れている。
 コレラとは、コレラ菌によって汚染された水、あるいは食物を口から摂取することで感染・発症する感染症である。
口から体内に入ったコレラ菌のうち、胃酸による分解をのがれ腸に達した菌は、増殖するなかでコレラ毒素を産生する。
その毒素が腸管の細胞内に侵入し病気を引き起こす。
感染から発症までの潜伏期間は1~3日、症状としては下痢、嘔吐が典型で、とくに下痢は「米のとぎ汁様」と喩えられる白色・灰白色の水様便が特徴である。
重症の場合は1日に数十リットルもの下痢をともない、重度の脱水と電解質の喪失によって死に至る。
現代であれば、脱水を補うための補液や輸液を行って治療するが、スノウの時代にはまだ有効な治療法はなかった。
 そのコレラの世界史への登場といえば、19世紀におけるヨーロッパ列強の帝国主義政策と歩みをともにする。
とくにインドを支配下に置いたイギリスは、それまでガンジス川デルタの風土病であったコレラを世界中に解き放った。
コレラ( Cholera )の記録は古代ギリシアにさかのぼるが、病名が示すように、胆汁に関わる病と考えられていた。
その「コレラ」と症状が類似する上、より重篤な症例が見られることから、インド由来のコレラは「アジア的コレラ」と呼ばれた。
 コレラの最初の世界的流行が始まったのは1817年、アジア全域からアフリカに達し、1823年まで続いた。
一旦収まった流行は1826年に再び息を吹き返し、このときの流行により、コレラはヨーロッパへの足場を確保する。
ロシア、ドイツほか、ヨーロッパで猛威を奮ったコレラがついにイギリスに上陸したのは1831年、翌32年までに死亡者はじつに5万人を数えた。
 当時、見習い医師としてノーサンバーランドの炭鉱の派遣されたスノウは、コレラの罹患した抗夫たちの診療のあたった。
そのときの患者発生のあり方から流行の伝播に関心をもち、沼や腐敗物から発生する瘴気(しょうき<悪い空気>)によってコレラが流行するという、当時主流だった学説(ミアズマ説)に疑問を抱く。
そして、コレラなど流行性の病気は、ある種の毒素が体内で増殖することによって引き起こされるという、現在で言うところの病原体説を信じるようになった。
 その後16年間、姿を消していたコレラは、1848年に再びロンドンを襲った。
当時、医学博士となっていたスノウは、この流行について詳細な調査研究を行うことを思い立つ。
そして、自らの観察を通じて、コレラ患者は汚染された水や食物を介して感染していること、発症までには潜伏期間があること、腸管で起こる消化器症であること、必ずしも直接接触をしなくても何らかの毒のようなモノを介して病気が伝播していることなどを確信する。
その上で、コレラ患者の吐瀉物や糞便の中に含まれる毒のようなモノが、人々の飲み水に混入すれば、大きな流行を引き起こし、被害を出すだろうと推測した。
 スノウは、この調査結果を自身の見解とあわせて『コレラの感染様式について』(第一版、1849年)という小冊子で公表した。
しかし、ロンドンの医学界からは一顧だにされなかったばかりか、医学雑誌の書評では、スノウの見解の正しさを証明する証拠は何一つ示されていないと酷評されてしまう。
現代の目から見れば荒唐無稽な学説として退けられるミアズマ説だが、スノウの生きた時代は近代細菌学が揺籃期を迎える前であり、ロンドンの医学界でミアズマ説はいまだに有力な学説だった。
そうした批判をスノウは忘れていなかったのだろう、5年後に発表した第二版のまえがきで、「コレラの原因を究明しようとしてきた私のこれまでの努力に与えられたのと同様に、私の現在の研究も医学専門家から親切なる配慮を受けるだろうと確信している」と述べて、英国紳士らしい婉曲な言い回しで対抗心を示している。
 驚くことに、本書でのスノウの記述には独善的なところがまったくない。
スノウは本書のなかで、コレラは水を介して感染するわけではない、同じ水を飲んでも感染しない人もいるという、自らの説に対する反対意見を注目に値するものだと述べ、その上で「私たちがいまだ知らない、いくつかの条件がコレラの伝播には必要だということを示しているに違いない」とも述べている。
こうしたスノウの姿勢は、科学哲学者カール・ポパーが科学という営みの基本条件とみなした、科学と非科学とを分ける基準である反証可能性を受け容れるものであり、自説に反対する意見をも取り込んだ、より包括的な理解への道をひろくものであった。
現在では、コレラ菌の存在はコレラ発症の必要条件だが、十分条件でないことも明らかになっている。
コレラ菌に対する防御機構には個人差がある。
また、過去の感染歴や身体内に常在する他の細菌叢が、コレラの発症やその後の経過に影響を与える。
スノウの科学的推論は、まさに的を射たものだった。
 一方で、本書のなかには現在の目で見ると間違った記述もある。
たとえば、以下のような記述だ。
「おこり(マラリア)の原因は空気を吸い込んだことではなく、水を飲んだことであった」。
マラリアの原因は原虫で、ハマダラカによって媒介される。
その事実は、1898年、当時イギリス領植民地であったインドの医務官ロナルド・ロスによって発見された。
ロスはこの業績で1902年にノーベル生理学・医学賞を受賞する。
スノウの水系感染へのこだわりが生んだ思い違いだった。
 もう一つ、本書の表には、感染者の割合などを示す数字にいくつかの誤りがあった。
もちろん、それがスノウの考察と結論に影響を与えるものではない。
訳者自身、校正の際に、電卓を片手に数字をチェックしてみて初めて気がついた。
計算機のない時代、こうした計算をスノウはすべて筆算で行ったはずである。
幼い頃に数学が得意だったというスノウだが、かなり骨の折れる仕事だったに違いない。
 スノウの仕事が正当に評価されるまでには、パスツールやコッホの登場を待たねばならなかった。
1861年、ルイ・パスツール(1822-1895)は『自然発生説の検討』を著し、生物の自然発生説を否定した。
ロベルト・コッホ(1843-1910)は、1883年にインドでコレラ菌の分離培養に成功した。
彼ら二人の発見と研究によって、スノウが未知の毒素と考えたものは「病原体」という微生物(細菌)から生み出されるものであり、その病原体は人から人へ感染することが明確に示された。
 ただし、一方でそれは、スノウに対する間違った評価、すなわち、コレラ菌に関するコッホの研究に比べれば、スノウの医学への貢献など取るに足らないものである、といった誤解にもつながった。
しかし、スノウが彼の研究を通して成し遂げようとしたこと、あるいは示そうとしていたことは、病というものの総合的な理解であり、病気の原因物質を探ることだけが医学ではない、ということだったのではないかと訳者には思われる。
 スノウの行った研究は、今日で言う疫学調査・公衆衛生の先駆けであった。
19世紀前半のロンドンは、産業革命期をへて人口が急激に増加し、環境劣化が止まらなかった。
一部の家庭には水洗式トイレも導入されていたが、本書にも記述あるように、一般的には排水処理が杜撰(ずさん)で、あふれた汚水は排水溝を通ってテムズ川に流れ込んだ(スノウが亡くなった1858年には有名な「大悪臭( Great Stink )」が発生する)。
水道会社はそうして汚染されたテムズ川から取水し、各家庭に供給していた。
その水と、折しも続々と被害の出ていたコレラ禍との関係を疑い、ひとり調査に乗り出し、対策を提言したのがスノウであった。
医学の研究は、実験室や研究室だけで行われるものではない。
その点で、スノウが近代医学の発展に果した役割は、コッホのそれと異なるだけで、決して劣るものではない。
 最後に個人的な経験について記しておきたい。
2010年1月、カリブ海の島国ハイチでマグニチュード7の地震が起こった。
震災とともにコレラが大流行したとき、訳者は現地へ赴き、広場に急造したテントで100人を超すコレラ患者を診察し、治療にあたった。
この流行では、80万人以上の感染者と9000人以上の死亡者が出た。
流行は驚くべき速さで広がっていった。
震災の発生以降、衛生状態の悪化が流行の拡大に拍車をかけた。
このときの現場で、スノウの活動を思い出したことを覚えている。
いまこうしてスノウの著作を翻訳できたことに、なにか不思議な縁を感じる。
 最後に謝辞を述べたい。
まずは研究室のメンバーに。
日々の議論を通じてさまざまな刺激を与えてくれることに感謝しています。
次いで研究室秘書の前田香代さん。
日々変わる予定や締切りに追われる原稿の管理は、彼女なくしてはできなかったに違いない。
この場を借りて謝意を表したい。
岩波書店の永沼浩一氏には19世紀のロンドンの地名、人名や地図の校正をはじめとしてお世話になった。
多くの時間を要したと思います。
ありがとうございました。
 そして、いまも健在な両親、妻の敬子、この頃は議論をしても言い負かされることの多くなった息子の大地は。
 (やまもとたろう 長崎大学熱帯医学研究所教授)
(『コレラの感染様式について』ジョン・スノウ著 山本太郎訳 岩波文庫 2022年)
 今朝の父の一枚です(^^)v

コサギ コウノトリ目サギ科
 浅い水辺で小魚をねらう姿をよく見かける。
ねぐらは他のサギ類と交じって里山の林などに集団となるが、早朝餌場の河川に集団移動し四散する。
夏はそれぞれの狩場ポイントに単独でいることが多いが、冬にはかなりの数が一カ所集まることもあり、そこをオオタカなどにねらわれる例もある。
 くちばしが黒く、足指が黄色いことで他の白いサギと区別できる。
夏には頭の後ろから2本の冠羽を生じ、尻の近い背中にカールした飾り羽が生じとても美しい。
(『野鳥 しぐさでわかる身近な野鳥』久保田修/構成 藤田和生/絵 学研 2006年)