2022年5月25日水曜日

これから…

今朝も暑かったです…
カタツムリも暑いのでひっこんでいるのかな?
来年はお詣りしたいなぁ…

京都 北野天満宮 正月の縁起物「大福梅」梅の実の収穫始まる〟(京都 NHK)

疫病退散や無病息災のご利益がある梅です。
コロナ禍でもしっかりみなさんに届けられるように、願いを込めながら摘み取りました。
スズメバチに出会いました。
かなり大きかったのでオオスズメバチかな?
5月はスズメバチが巣作りをしているようです。
出会うとゾ~ッとしますが、その生態を知っておくことが大事だと思います。
このパンフレットは、よく紹介していますが
森林レクリエーションでのスズメバチ刺傷事故を防ぐために」(森林総合研究所)

5月29日の
ダーウィンが来た!「最強軍団!オオスズメバチの真実
虫の苦手な方も見ておいたほうがいいと思いますよ(^_-)
 けしの花籬(まがき)すべくもあらぬ哉 

 芥子(けし)の花は散り易いから、わざわざ生け垣などしなくても、誰も折り取る不心得者はいない。
花の主(あるじ)としては至極(しごく)気楽なものだよ。

『徒然草』十一段の、柑子(こうじ)の周囲を厳しく囲ってある山里の庵(いおり)に興ざめする話を踏まえ、これは市中に隠栖(いんせい)する自由人の心境を讃えた離俗の句。
中七下五の声調がすぐれている。
(『與謝蕪村集 新潮日本古典集成』清水孝之校注  新潮社 昭和54年)
 ◆蜜柑(みかん)の木を囲(かこ)う独占欲――神無月のころ (第十一段)

 初冬の陰暦十月、人を訪ねるために、来栖野(くるすの)を通って、ある山里に入ることがあった。
はるか遠くまで続く苔生(こけむ)した細道を踏み分けて進むと、ひっそりとしたたたずまいの庵(いおり)が現れた。
落ち葉の埋もれた懸樋(かけひ)からこぼれる滴(しずく)のほかに、音を立てるものとてない。
閼伽棚(あかだな)に、菊や紅葉の枝などを折って、無造作に置いてあるのは、やはり、庵に住人がいることを知らせていた。
(『徒然草 ビギナーズ・クラシックス』吉田兼好著 角川書店編 平成14年)
 こういう生き方もできるんだなあ、と感心しつつ見回していると、向うの庭に、枝もたわむほどに蜜柑(柑子)の大木が見えた。
ところが、その木を厳重に囲ってあったのには少々失望して、この木がなかったらよいのに、と思ったものだった。
(『徒然草 ビギナーズ・クラシックス』吉田兼好著 角川書店編 平成14年)
 公園で、このまま温暖化が進めば、マラリアなど熱帯の伝染病に感染するかもしれないと話していました。
これから「大阪いらっしゃい キャンペーン2022」をするんだ…

15日に石清水八幡宮の参拝したのは、日曜日で通勤・通学の乗客がいないので
すいているだろうなと思って出かけました。
でも、帰りの電車は乗客でいっぱいでした。
キャンペーンをしなくても我慢していた人たちは動き出していると思うのだけどなぁ…

新型コロナ死者 全国最多 大阪で何が? 備えたはずが…」(NHK 5月24日)

よく知事や市長は頑張っていると言うけど
コレラのパンデミックが起きた明治時代の大阪では…
  避病院(ひびょういん)と済生会

 近代の都市を悩ませた重大な問題にコレラの発生がある。
一度猛威を振るうと止めどなく蔓延し、悪事がはびこることを表現した「猖獗(しょうけつ)を極める」などと記されるほど死者が増大したことから、近代社会を震撼させた伝染病である。
「コロリ病」などと、罹患から死を迎えるまでの時間の短さでも恐れられていた。
 大阪でも1877(明治10)年の大流行にあわせ、北区にある天台真盛宗の鶴満寺(かくまんじ<山号・雲松山>)に仮避病院が設置されたが、キャパシティに限界があり、難波村・野田村・長柄(ながら)村・市岡新田(いずれも西成郡)の四カ所に避病院が増設される。
しかし、続く1879(明治12)年にも全国的に大流行したため、患者収容に限界が生じてしまう。
流行の沈静後は難波村避病院と長柄村避病院だけが残り、1885(明治18)年に天王寺避病院(東成郡天王寺村)が新設されると、難波村の避病院は同年に、長柄村の避病院は翌年に取り壊しの処分にあう。
(『続かくれスポット大阪』吉村智博 解放出版社 2015年)
 コレラの記憶や痕跡を消し去ることがいかに大々的におこなわれていたかを示す事例であるが、獰猛(どうもう)な虎の描かれた錦絵とともに「虎烈刺」「虎狼痢」などのあて字が当時のメディアを騒がせ、「Q」の文字(元来「検疫」を表す用語で、「隔離」の意味に転化したクワランティーン< quarantine >の頭文字)が記された紙切れなどがコレラ患者の自宅前に掲げられ、あからさまな消毒や、往来を遮断して強制隔離がおこなわれた。
大都市行政のみならず、コレラに対する世相の恐怖心を想像するに難くない。
   *

 当時は、西南戦争を最後に士族反乱が一段落していたから、コレラ対策には軍隊もかり出された。
大阪城址に拠点を構えていた陸軍では臨時病院を開設し、鎮台の周辺および第四軍管の管轄域に養生室や専用の病室を急遽(きゅうきょ)しつらえ、患者の収容と治療にあたった。
 その後、既設の天王寺に加えて、1886(明治19)年に本庄(西成郡豊崎村)、千嶋(西成郡川南村)、桃山(東成郡天王寺村)にそれぞれ避病院が開設されたことによって、防疫型の衛生行政は一段落した。
このうち、桃山筆ヶ崎(ふでがさき)の桃山避病院は当面は区部(市内)専用で、流行病にあわせて臨時に開設する病院として運用されることになった。
 この桃山という地は、江戸時代の『摂津名所図会(ずえ)』(1796~98年)にも登場し、「百済野(くだらの)」「桃山」「味小原」などと称される風光明媚(ふうこうめいび)な景勝地であったようである。
古地図にはわずかな田畑などしか描かれていない土地柄だが、一円が桃畑で晩春には紅色の花が咲きほこったとも記されている(『摂津名所図会大成』1858年)。
かの福澤諭吉も緒方塾(適塾)で塾長となってから、書生14、5人と連れだって「三月桃の花の時節で、大阪の城の東に桃山と云ふ処があって、盛りだと云ふから花見に行かう」というので「魚の残物」「氷豆腐」「野菜物」に酒を買って見物に出かけたと述懐している(『福翁自伝』1899年)。
牧歌的な陽光の景勝地こそが、流行病の治療と療養に最適な場所とされたわけである。
   *

 さてその後、天王寺避病院は1889(明治22)年に大阪市立天王寺病院に、桃山避病院は大阪市立桃山病院に名称変更して大阪市営となり、本庄、千嶋の両病院の大阪市への移管を待って大阪市立桃山病院(本院)へ一元化された。
ほかの3病院はそれぞれ分院と位置づけられたが、本院以外はほどなく廃院となる。
当初コレラ対策にあたった病院も、一般医療対策の役目さえ終える運命をたどったのである。
 ちなみに、大阪市立桃山病院に近接して1909(明治42)年には大阪赤十字病院も開院することになり、この地はにわかに療養地となっていく。
そして、大阪市立桃山病院は現在も大阪市立総合医療センター(都島区)として、大都市の医療制度を総合的かつ根底から支える存在であり続けている。
…後略…
(『続かくれスポット大阪』吉村智博 解放出版社 2015年)

遥かなる社会福祉の源流から、…」(上町台地 今昔タイムズ第15号)
今朝の父の一枚です(^^)v
バラにキリギリスの仲間の幼虫(ツユムシ?)がいます。

 機織虫(はたおりむし)

〇キリギリスの異称。
秋田県由利郡で、ハタオリムシが鳴けば明日は雨という。
『和漢三才図絵』に「小児戯レニ両足ヲ捕ヘテ曰ク、汝機ヲ織レバ放去(イナソ)ト言ヘバ、則チ股ヲ屈(カカ)メテ俯(ウツブ)キ仰(アオ)ムク状、機ヲ織ルニ似タリ、故ニ之レヲ名ヅク」と見える。
『大和本草』には「其ノ声ハタオルガ如シ」と鳴き声に注目しており、『物類称呼』でも「東国にて、きりぎりす、又ぎっすと云。又ぎっちょなど云。其こえの、ぎいと鳴くははたおるまねきの音、ちょんと鳴くは筬(おさ)の音に似たりとて、いにしへ、はたおりめとよびしも今きりぎりすと名の変じたる成」と説明している。
(『日本俗信辞典 動物編』鈴木棠三 角川ソフィア文庫 2021年)