2022年5月6日金曜日

連休が終わり

薄曇りで少し蒸し暑かったです。
池にスイレンが咲いていました。
スイレンが咲き出すと夏だなと思う。
昨日の記事で『枕草子』に楝(樗 あふち)が出ていました。
小さなかわいい花。
樗と言えば山上憶良の歌を思い出す。

あふち(センダン) センダン科
 阿布知・安布知・安不知・相市

(いも)が見(み)し 楝(あふち)の花は 散りぬべし
  わが泣く涙 いまだ干(ひ)なくに
     山上憶良(やまのうえのおくら 第五巻-798)
(『万葉集の植物』解説吉野正美、写真川本武司 猪股静彌 偕成社 1988年)
「栴檀(せんだん)は双葉(ふたば)より芳(かんば)し」と申しますが、万葉のあふちと香木(こうぼく)の栴檀(白檀<びゃくだん>のこと)は関係ありません。
花は5月ごろ、若葉の中に上品な藤色を見せてくれます。
薫風(くんぷう)に揺れる花房(はなふさ)はすがすがしく感じられます。
九州など暖かい地方に多く、この歌のセンダンも、大宰府(だざいふ)で長官の大友旅人(おおとものたびと)の妻がみたもののようです。
「長官の奥さまがごらんになったあふちの花は、もう散ってしまいました。でも、わたしの涙はまだ乾きません。ましてや長官のことを思うと、おかわいそうで……」
 旅人の妻の死を悲しんで憶良が詠んだ歌ですが、妻を亡くした旅人を気遣ういかにも憶良らしい優しさが感じられますね。
[植物メモ]
 あふち(おうち)はセンダンの古名(こめい)
四国や九州など暖地の海辺や山地に自生する落葉高木で、高さ7、8メートルに達する。
春、淡い紫色の美しい小さい花をつけ、秋には小さな黄色い実を結ぶ。
樹皮や果実は、駆虫剤(くちゅうざい)など生薬(しょうやく)として利用される。
(『万葉集の植物』解説吉野正美、写真川本武司 猪股静彌 偕成社 1988年)
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今日の名言
ひとは単に知っていることによって知慮あるひとたるのではなくして、それを実践しうるひとたることによってそうなのである。
――アリストテレス/高田三郎訳『ニコマコス倫理学』(下)

前にも書いたのですが、ブラタモリでアナウンサーが「参勤交代」を知らない?ことを揶揄するコメントを見ました。
思うのですが、教科書に書かれている歴史用語などを覚えているからといって、本当に知っているのかなと思います。
学校の試験には言葉だけ知っていればいいのでしょうが
「参勤交代」をどこまで説明できるのかなと思うと自信がないです。

4月12日に放送された
先人たちの底力 知恵泉「明治維新 大山捨松 敗者の再出発 日本初の女子留学生の格闘
を見たときに、津田梅子の名前は知っていても大山捨松については知らなかったです。
大山捨松瓜生繁子のことが気になって図書館で借りた本に

第15章 晩年

…前略…

 今日、日本の小学生は、社会科の授業で「津田梅子」について学ぶ。
だが、捨松と繁についてはほとんど知られていない。
Tsuda College として知られる津田塾大学は現在も発展を続け、英文学科、数学科、情報学科、国際関係学科と四つの学科で二千五百名あまりの女子学生が勉学に励んでいる、
学生たちは自らを「梅子」と呼ぶこともある。
卒業試験や就職の面接試験などがあるときは、多くの学生が、キャンパス内の静寂に包まれた梅林にある墓所に行き、今なお、うめにアドバイスを求めている。
(『少女たちの明治維新 ふたつの文化を生きた30年』著ジャニス・P・ニムラ、志村昌子・藪本多恵子訳 原書房 2016年)
訳者あとがき

 本書は、Janice P.Nimura,Duughters of the Samurai:A Journey from East to West and Back(Norton,New York,2015)の全訳である。
原書はアメリカで刊行されるとすぐに新聞書評などに取り上がられて話題になり、「New York Times 100 Noable Book of2015(ノンフィクション部門)」、「Seattle Times Best Book of 2015(ノンフィクション部門」、「Buzzfeed Best Nonfiction Books of 2015」のも選ばれている。
 著者のジャニス・P・ニムラは、イェール大学卒業後に日本人男性と結婚し、故郷のマンハッタンから東京に移り住んだ。
その後、英字新聞の編集者などの仕事をしながら過ごすうちに、日本語にも日本人の家族にもなじんでいった。
そして3年後にニューヨークに戻ると、コロンビア大学大学院で東アジアの研究を始め、特に明治時代の日本の歴史に重点的に取り組むようになる。
 そんなある日、ニューヨーク・ソサエティ・ライブラリーの蔵書にアリス・マーベル・ベーコンが著した『A Japanese Interior 華族女学校教師が見た明治日本の内側』という本を見つける。
それは明治時代半ばにベーコンが華族女学校の英語教師として日本に滞在した1年間の記録をまとめたもので、彼女の特異な体験と鋭い洞察力にニムラは興味を抱いた。ベーコンの出身地であるコネチカット州ニューヘイブンはニムラが在籍した大学の所在地でもあり、ベーコンが自分と同じように日本人の家庭で暮らしていたことにも共感を覚えた。
そしてベーコンの引きあわせだろうか、1872年に日本初の女子留学生としてアメリカに渡った山川捨松(すてまつ)、津田うめ、永井繁(しげ)という三人の女性の人生に出会ったのである。
 捨松は日本人として初めて学士号を取得し、「鹿鳴館の花」と謳われた女性であり、うめは言わずと知れた津田塾大学の創立者津田梅子、繁も音楽教師として日本の女子教育に貢献した人物で、それぞれの生涯は実に数奇なものだった。
日本人と結婚し、日本で暮らした経験のあるニムラには、アメリカで学び、アメリカ人の考え方を身につけた三人が祖国の考え方とのギャップに苦しむ気持ちがよくわかった。
そればかりでなく、今から百年以上も前に、言葉も文化もまったく異なるふたつの世界の橋渡しする使命を負った少女たちの清冽な生き方に強烈にひかれ、その足跡を追う決心をしたのである。
 ニムラは取材のために来日し、本書の主人公たちの子孫や関係者から話を聞いたり、津田塾大学に通ったりしながら調査を進めた。
本書はその地道で根気強い調査をもとに、小さなエピソードにも気を配りながら、明治維新について、ひいては明治維新における女子留学生という概念の位置づけが理解できる構成となっている。
 それをふまえて読み進めると、祖国の命令で留学した娘たちが、帰国後の受け入れ態勢が整っていなかったために人生の進路の導き手のないままに模索せざるを得なかった状況もわかる。
本文にも書かれているように、津田梅子は明治の偉人として格別に有名だが、彼女とて帰国後すぐにエリートとして歩む道が用意されていたわけではなく、女子の高等教育の先駆者としての地位を確立するには20年以上を要した。
彼女の夢を支え援助を惜しまなかった捨松と繁も、政府の煮え切らない対応に失望させられた。
最も挫折を味わったのは捨松かもしれない。
彼女はアメリカで誰よりも優秀な成績をあげながら、教育者となって日本の女子教育の発展につくすという夢をかなえられなかったのだから。
 そこで深く考えさせられるのが、原題にもなっている「侍の娘」の気質だ。
山川家は会津藩士であり、捨松も幼いころから士族の娘としての教育を受けた。
士族の教えは日本特有の儒教的道徳に基づき厳しい抑制を自らに課す。
捨松がその優れた能力を生かせない境遇に悶々としながらも、陸軍卿夫人として日本の近代化に貢献しようと決意して生きていく姿には、侍の娘として一本筋の通った矜持とも言うべきものが感じ取られる。
苦しいには違いないが、潔い。
また、捨松だけでなく繁もうめも、国費を使って海外で学ばせてもらったのだから、その恩に報いなければならないという義務感を持ち続けていた。
三人は祖国のために何ができるかと常に考えていた。
これは彼女たちに限らず明治時代の精神と言うべきかもしれないが、もはや愛国心と呼ぶよりも国家そのものが彼女たちのアイデンティティとなっていたように感じられる。
 日本とアメリカに生きながら、どちらの国にも完全に帰属することはできないという感覚は、三人に終生つきまとっていたかもしれない。
それでも三人は日本に根をおろし、女性の地位向上を図ることで祖国の未来を担っていこうと努力し続けた。
その凛とした生き方には胸を打たれる。
男性の指導者たちは国力を増強して欧米の列強と肩を並べることで新生日本を支えていこうとした。
だが、本書の主人公の三人は女性ならではの柔軟な視点から祖国の近代化に力をつくした。
それが結果的には日本の女性の地位の向上につながった。
彼女たちは自己の実現を最優先とする国に学んで西洋的な思想を身につけたが、自らの道を切り開こうとしたときの基盤となっていたのは、無意識のうちに保ちつづけてきた侍の精神だったのだと思えてならない。
 ジャニス・P・ニムラはおそらく、アリス・ベーコンと同じ視点で三人を見つめている。
アメリカ人の目で祖国を観察し、アメリカを懐かしい故郷とも思っていながら日本で根を張って生きようとする彼女たちの姿勢はベーコンにしか理解できないものだったが、今、ニムラの目を通して彼女たちの秘めた思いに触れることができるように思える。
一方で、津田梅子のエリート意識や帰国子女たちの虚栄心なども忌憚なく指摘していて、彼女たちをありのままの人間として描写している。
 明治時代の日本の風物や日本人の姿はモノクロの活動写真のように、また、娘たちの青春時代は色彩あふれるアメリカ映画のように眼前に浮かぶ作品だ。
拙訳によって、はるかなる時代にわずかでも思いをはせていただければ幸いだ。
 
…後略…
 2016年3月 志村昌子 
(『少女たちの明治維新 ふたつの文化を生きた30年』著ジャニス・P・ニムラ、志村昌子・藪本多恵子訳 原書房 2016年)

資料1:日本の女子高等教育の歴史」(東京大学男女共同参画室)
今朝の父の一枚です(^^)v
カワラヒワの幼鳥のようです。

 東京の鳥、今昔   山階芳麿(やましなよしまろ 日本鳥類保護連盟会長)

  南平台今昔
 
 私が南平台(なんぺいだい)に引っ越ししてきたのは大正13年である。
当時豊多摩郡渋谷町上渋谷525番地で、この辺りは西郷従道(さいごうつぐみち)の別邸があった場所でもあり、西郷山と呼ばれていた。
 その頃の渋谷は全くの郊外で、東京市内の学校の林間学校が行なわれていたほどの所であったから、この辺にもアカマツやコナラ、クヌギの林が一面に広がっていた。
そしていわゆる武蔵野の面影というより武蔵野そのものであった。
富士見町の家の庭に沢山鳥が来るのはとても楽しいことであったから、新しい庭の一隅にある松林を、小さいけれどもサンクチュアリーにするつもりで、ハゼ、シキミ、ヤツデ、ムラサキシキブ、ガマズミ、アカメガシワなど沢山の木の実を蒔(ま)いた。
十数年もすると立派な木立になり、秋にはヒヨドリ、アカハラ、シロハラなど多くの鳥が集って来て木の実を食べていた。
 春になるとこの無造作な藪(やぶ)の中からいくつもの小鳥たちの囀りが聞こえてきたし、シジュウカラ、モズ、カワラヒワなどがかわいらしい巣を造り、卵を産み、雛を育てていった。
この他にはコサメビタキ、サンショウクイ、チゴモズ、ヤマガラ、トビ、キジバト、ムクドリ、ハシブトガラスなどが庭で繁殖していた鳥である。
今ならば奥多摩辺りへでも行かねばならないだろうか。
…後略…
(『野鳥の歳時記1 春の鳥』日本鳥類保護連盟監修 小学館 昭和59年)