2022年5月9日月曜日

4月並み…

昨日、ひんやりしていると思ったら
今朝は、東屋の温度計を見ると13度ほど…
4月位の気温かな?寒かったです…
そろそろ咲くかなと思っていました(^^)v

 ドクダミの護身術

…前略…
 昔は多くの薬効をもつ薬草として重宝され、「十薬(じゅうやく)」とも呼ばれた。
生葉を火であぶれば化膿傷の貼り薬に。
葉を揉んだ汁は虫刺されや蓄膿症の薬になり、痔にも効く。
葉を煎じたドクダミ茶には利尿や高血圧予防の効がある。
ドクダミの名も「毒にダメを押す」という意味からついたといわれている。
人家の周辺にしか見られないのも、人々が常備薬の意味で身近に植えたなごりなのだろう。
…後略…
(『したたかな植物たち―あの手この手のマル秘大作戦【春夏篇】』多田多恵子 ちくま文庫 2019年)
拾遺愚草員外之外

  夏

 あふち咲く北野(きたの)の芝生(しばふ)(さ)月きぬ見もせぬ人のかたみとゞめて

北野神社の芝生に楝が咲いて五月がやって来た。
私が見たこともない古人(道真公)の形見をとどめて。
参考「見ずもあらず見もせぬ人の恋しくあやなくけふやながめ暮らさむ」(古今・恋一・476 業平 伊勢物語・99段)
(『藤原定家全歌集 下』久保田淳校訂 ちくま学芸文庫 2017年)
ロシア 5月9日の「戦勝記念日」とは〟(NHK 5月7日)

5月9日の対ナチスドイツ戦勝記念日」(一色清 EduA 4月28日)
はじめ5月8日と違うのだと思ったけど時差があるんだ。
ついついイギリスなど欧米側の立場で見てしまうけど…

5月8日 ヨーロッパ戦勝記念日・VE(Victory in Europe)デー
 1945年のこの日に、ドイツが第二次世界大戦の降伏文書に調印した。
翌8日をもって、ヨーロッパにおける全ての戦闘が停止、連合軍がヨーロッパにおいて勝利したことを記念する日。
VE(Victory in Europe)デーとも呼ばれる。

5月8日 第二次世界大戦で命を失った人たちのための追悼と和解のための時間
 2004年の国連総会にて制定。
「第二次世界大戦中に命を失った全ての人に追悼を捧げる日」ともいう。
5月8日、9日のいずれか、または両日に第二次世界大戦で命を失った人々全てに追悼を捧げるよう、すべての人に向けて呼びかけている。
(『世界の祝祭日の事典』中野展子 東京堂出版)
「普請中」の日本
 中隊長は父である


 新しい普請にすばやく手をつけたのは軍隊であった。
戦後、多数の兵隊が除隊となって全国の町々村々に帰っていったが、かれらの粗野な態度は「兵隊帰り」と呼ばれ、郷党の平和を乱すものとして嫌われ恐れられた事実は、いちいち数えきれない。
徴兵忌避の空気を生み出した一因もそこにあるといえよう。
国民大衆と軍隊とを疎隔させるものとして、対国民政策としてもはなはだ重大な問題であった。
(『日本の歴史22 大日本帝国の試練』隅谷三喜男 中公文庫 改版2006年)
 こういう点に着目し、軍隊の在り方について新しい設計をしたのは、日露戦争中、参謀として児玉総参謀長を助け、その将来を注目されていた田中義一(たなかぎいち)である。
かれは戦後第一師団に配属されると、そこで「良兵即良民」をモットーとし、軍隊教育の改善に着手した。
かれの改革は「兵営生活の家庭化」と呼ばれ、「中隊長は厳父であり、中隊下士は慈母である。而して内務班に於ける上等兵は兄であるというように、中隊内の雰囲気を家庭的温情味のあるようにしなければ、真の軍の軍規は涵養(かんよう)できない」(『田中義一伝』)という基本方針の上にたっていた。
 そのときまで、とりわけ軍隊の規律は、上下の命令服従関係を中心として、きびしく律せられていた。一言半句の口答えも許されていないことはもちろん、古参兵が絶大な権威をもっていた。
「下士の横暴を憤慨して」自殺するというようなケースは、少なくなかったのである。
それは兵士のあいだには自我の意識が目覚めてくれば、必然的に発生せざるをえない問題であった。
 上官として威厳をたもち、命令には絶対服従させながら、しかも兵隊の不満を同時に解決する道はないものか。
そうでなければ、軍隊内の不満はしだいに増大し、いつ爆発さるやもしれない状態になる日も遠くはない。
戦前、ロシアの駐在武官をしていた田中は、ロシア軍体内にそのような問題のあることを知っていた。
それならどうすればよいか。
こうしてかれが到達した結論が、軍隊への家族主義の導入であった。
しかもその家族主義は、単に親の威厳だけがものをいう権威的家族主義ではなく、親の恩情にこたえて子供が誠心誠意親に親に仕える温情的家族主義だったのである。
 実をいえば、個人的自覚が国民の間に徐々に高まってきた明治三十年代の半ば以降、徳富蘆花の『不如帰(ほととぎす)』が多数の愛読者をひきつけたことからも知られるように、夫婦のあいだでも、愛情の問題が正面から取り上げられるようになっている。
それまでは夫婦の愛というようなことは、公然と論ぜられることはなかったのである。
同じことは、親子のあいだについてもいうことができる。
親子のあいだは孝という一語で結びつけられていたことからもわかるように、親はただ権威の所在であった。
子は親に仕えるのが人たる道であった。
だが、それだけで親子の関係を律していくことは、しだいに困難になってきた。
そこで強調されるようになったのが、親の愛情であり、恩情だったのである。
 こうして家族主義は、個人の自覚の目覚めにつれて動揺し、崩壊しようとするとき、愛情を軸として一転回することによって、個人の目覚めを家族共同体のなかに吸収し、家族主義を再編成することに成功するのである。
(『日本の歴史22 大日本帝国の試練』隅谷三喜男 中公文庫 改版2006年)

田中義一」(国立国会図書館)
今朝の父の一枚です(^^)v
コンデジでツバメを写すのは難しいのですが、数うちあたるで頑張っていましたp(^^)q

蕪村句集 春

 大和路(やまとぢ)の宮もわら屋もつばめ哉 句帳

「世の中はとてもかくても同じこと宮もわら屋も果てしなければ」(蟬丸、『和漢朗詠集』述懐)に拠(よ)り、社寺の多い大和路のどこへ行っても、燕が宮もわら屋も差別せずに、楽しげに飛び廻っているさま。
無常の世に差別観はむなしいとする、原歌の「述懐」を、燕の自在さに具体化した寓意(ぐうい)の佳作。
「つばめ」と「わら屋」とは付合(つけあい)(『類船集』)。
(『與謝蕪村集 新潮日本古典集成』清水孝之校注  新潮社 昭和54年)