寒さ+目がかゆいような、鼻がムズムズするような…
「9日も厳しい寒さに 花粉もそろそろ」(えりの気象日記 2月8日)
今朝のEテレ0655のオープニングを見ていると
冬来たりなば
春遠からじ
英国の詩人シェリーの詩より
寒く厳しい冬が来ているといるといことは、暖かい春が目前ということ。
それが転じて、つらい時間を耐えれば幸せな時間が必ず来る、という意味で広く使われるようになりました。
春が待ち遠しいですね。
日本の詩人の言葉かなと思っていました(^^ゞ
(「冬来りなば春遠からじ」同志社女子大学 吉海直人 2016年)
岩下くまさんのTwitterに
【手塚治虫先生の思い出】
として素敵な思い出が描かれていました。
画像1、 画像2、 画像3、 画像4
安田菜津紀さんのTwitterに
こうして「どうせそのうちほとぼりが冷めるだろう」「どうせ世間はそのうち忘れるだろう」がまかり通ってきてしまったのだと思う。
だから、「瞬間風速」に終わらせてはいけない。
〝二階幹事長、ボランティア辞退は「瞬間的」 五輪巡り〟(朝日新聞 2月8日)
そして赤木俊夫さんのことも忘れてはいません。
安田菜津紀さんのTwitterに
4年前の2月8日、 森友学園への土地売却額開示を巡り、豊中市議が国を提訴。
この問題が世に知られることになった。
その後、改ざんを強要された赤木俊夫さんが自ら命を絶つ。
今日という日になったのは偶然だそうですが、俊夫さんの残したファイルの提出を国に命じるよう、雅子さんが大阪地裁に申立。
「森友自殺訴訟 国に改ざん記載のファイル提出命じるよう申し立て 妻が大阪地裁に」(毎日新聞 2月8日)
今朝のEテレ0655のオープニングを見ていると
冬来たりなば
春遠からじ
英国の詩人シェリーの詩より
寒く厳しい冬が来ているといるといことは、暖かい春が目前ということ。
それが転じて、つらい時間を耐えれば幸せな時間が必ず来る、という意味で広く使われるようになりました。
春が待ち遠しいですね。
日本の詩人の言葉かなと思っていました(^^ゞ
(「冬来りなば春遠からじ」同志社女子大学 吉海直人 2016年)
岩下くまさんのTwitterに
【手塚治虫先生の思い出】
として素敵な思い出が描かれていました。
画像1、 画像2、 画像3、 画像4
安田菜津紀さんのTwitterに
こうして「どうせそのうちほとぼりが冷めるだろう」「どうせ世間はそのうち忘れるだろう」がまかり通ってきてしまったのだと思う。
だから、「瞬間風速」に終わらせてはいけない。
〝二階幹事長、ボランティア辞退は「瞬間的」 五輪巡り〟(朝日新聞 2月8日)
そして赤木俊夫さんのことも忘れてはいません。
安田菜津紀さんのTwitterに
4年前の2月8日、 森友学園への土地売却額開示を巡り、豊中市議が国を提訴。
この問題が世に知られることになった。
その後、改ざんを強要された赤木俊夫さんが自ら命を絶つ。
今日という日になったのは偶然だそうですが、俊夫さんの残したファイルの提出を国に命じるよう、雅子さんが大阪地裁に申立。
「森友自殺訴訟 国に改ざん記載のファイル提出命じるよう申し立て 妻が大阪地裁に」(毎日新聞 2月8日)
〝「黙っていること、静かにおさまること、それが正しいとずっと思っていた」 赤木雅子さんが語る、真相究明を目指し、声をあげ続ける理由〟(安田菜津紀)
維摩経 六 天女
女から男へ
(一四) (シャーリプトラが)言う。
「天女よ、あなたは女性としてのあり方をかえて(男性になって)はいけないのですか」
答えて言う。
「私は十二年間、女性であることを探し求めてきましたが、いまもってそれが得られません。大徳よ、魔術師が女の姿を変現したとして、これに対して女性としてのあり方をかえてはなぜいけないか、などと質問したら、これはどういうことになりましょうか」
「それ(魔術)には実在として完成は何もない(から、それは意味をなしません)」
「大徳よ、それと同じく、あらゆる存在は完成体ではなく、本質は幻の変現にすぎません。それなのにあなたは、女性としてのあり方をかえてはいけないのか、などとお考えになる……」
(『大乗仏典 7巻 維摩経 首楞厳三昧経』長尾雅人、丹治昭義訳 中央公論社 昭和49年)
(一五) そのとき、天女は神通を行なったので、長老シャーリプトラはこの天女とまったく同じ姿になり、天女はまた長老シャーリプトラと同じ姿になった。
そこで、シャーリプトラの姿になった天女が、天女の姿になっているシャーリプトラに向って尋ねる。
「大徳よ、女性であることをおかえになっては、なぜいけないのですか」
天女の姿となったシャーリプトラが言う。維摩経 六 天女
女から男へ
(一四) (シャーリプトラが)言う。
「天女よ、あなたは女性としてのあり方をかえて(男性になって)はいけないのですか」
答えて言う。
「私は十二年間、女性であることを探し求めてきましたが、いまもってそれが得られません。大徳よ、魔術師が女の姿を変現したとして、これに対して女性としてのあり方をかえてはなぜいけないか、などと質問したら、これはどういうことになりましょうか」
「それ(魔術)には実在として完成は何もない(から、それは意味をなしません)」
「大徳よ、それと同じく、あらゆる存在は完成体ではなく、本質は幻の変現にすぎません。それなのにあなたは、女性としてのあり方をかえてはいけないのか、などとお考えになる……」
(『大乗仏典 7巻 維摩経 首楞厳三昧経』長尾雅人、丹治昭義訳 中央公論社 昭和49年)
(一五) そのとき、天女は神通を行なったので、長老シャーリプトラはこの天女とまったく同じ姿になり、天女はまた長老シャーリプトラと同じ姿になった。
そこで、シャーリプトラの姿になった天女が、天女の姿になっているシャーリプトラに向って尋ねる。
「大徳よ、女性であることをおかえになっては、なぜいけないのですか」
「男の形が消えて、女の姿になったのですが、どうしてそうなったのかわかりません」
(天女が)言う。「もし大徳が、女の姿から再転ができるのなら、あらゆる女も女であることをかえうるでしょう。大徳が女としてあらわれているように、あらゆる女も女の姿であらわれているのであって、本来女でない者が、女の姿であらわれているのです。その意味で世尊は、あらゆる存在は女でもなく男でもない、とお説きになりました」 そのとき、天女が神通をやめると、長老シャーリプトラは再びもとの姿にかえった。そこで、
天女が言う。「大徳よ、あなたがなっていた女の姿は、どこへいったのですか」
(シャーリプトラが)答える。「私は(女にも)ならず、またかわったわけでもありません」
(天女が)言う。「それと同じく、あらゆる存在も、つくられることもなく、かえられることももありません。つくられることもなく、かわることもない、というのが仏陀のおことばです」(一六) (シャーリプトラが)問う。「天女よ、あなたは死んでからどこに生まれるのですか」
答える。「如来の化作(けさ)されたものが生まれる場所に、私も生まれるでしょう」
問う。「如来の化作されたものは、死ぬことも生まれることもありませんが……」
答える。「(そうです。)あらゆる存在もそれと同様で、死ぬことも生まれることもありません」
問う。「天女よ、どのくらいかかって、あなたはさとりに到達するのですか」
答える。「大徳よ、あなたがもしも凡夫の性質を身におつけになったら、そのとき私もさとりの完成に到達するでしょう」
問う。「天女よ、私(のような煩悩を捨て切った阿羅漢)が凡夫の性質にかえることはありえません」
答える。「(そのとおりです。)大徳よ、それと同じく私も、さとりの完成に達することはあるはずがありません。なぜかといえば、さとりとは基底のないところにあるものだからです。それゆえ、基底のないところには、だれにしてもさとりが完成することはありません」 シャーリプトラが言う。「如来のおことばによれば、ガンガー河の砂の数ほどの多くの如来たちが、完成したさとりに、かつて達し、いま達し、またのちに達するでありましょう」
天女が答える。「大徳よ、諸仏が過去にあり、現在にあり、未来にあるというのは、文字や数字で表記したにすぎません。諸仏は過去でもなく、未来や現在でもなく、さとりは三種の時間を超越したものです。――あなたは阿羅漢としての位を得たのですか」
答える。「得るところがないということによって、得ました」
言う。「それと同じく、さとりの完成がないということによって、さとりに達するのです」(一七) そのとき、ヴィマラキールティがシャーリプトラに言った。「大徳よ、この天女は九十二コーティ・ニユタの(多くの)仏たちにお仕えし、神通の知をもって遊び、願いより生まれ出で、(無生法)忍を得ており、不退転の位にはいっています。人々を成熟させるために、願力からして自らの欲するままに(天女の姿に)なっているのです」
「天女」という第六章(終わり)女性としてのあり方をかえて 女性は、そのままでは仏陀にも転輪王にもなれず、そのためには男性にならなければならない(変成男子)、という当時の通念からの素朴な疑問。
化作 「化作」は、神通力をもって化現・変現して化身をつくり出すこと。第九章第四節の「化身菩薩」も同じ。
(『大乗仏典 7巻 維摩経 首楞厳三昧経』長尾雅人、丹治昭義訳 中央公論社 昭和49年)