気温は低くて、霜が降りていましたが、風もなく青空が広がっていました。
「25日も晴れ間が広がる 26日は雨」(えりの気象日記 2月24日)今日は、菅原道真の命日(延喜3年<903.3.26>)。
「北野天満宮で道真しのぶ梅花祭」(関西NHK)
「天神さんの年中行事」(北野天満宮)
新型コロナなどの疫病が落ちついたら町歩きをしたいなぁ…
町歩きの参考にしている本から菅原道真のことを転記しますφ(..)
そういえば、今年は「丑歳」でした。
梅花祭――道真が亡くなった2月25日に行なわれる祭祀
菅原道真が、延喜3年(903)の2月25日に筑紫(つくし)で亡くなったために、この2月25日を忌日にして行われる祭祀が「梅花祭」である。
ちょうど梅の花が咲く季節にあたり、また筑紫に赴く直前に京都の自邸で「東風吹かば 匂い起こせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」と、梅の花に向かって和歌を詠んだことにちなんで、「梅花祭」の名がある。
祭祀では、「甲御供(かぶとごく<甲御供奉饌>)」とよばれる、伏せた甲状に盛られた飯の上に、紅白梅の花木を差し立てた特殊な神饌を供える。
(『京都を愉しむ 菅原道真の史跡をめぐる』五島邦治 淡交社 2019年)
天神と牛
天満宮といえば、必ずといっていいほど牛の像が置かれている。
道真と牛は切っても切れない関係をもっているとされる。
そのひとつの理由は、彼が生まれた承和(じょうわ)12年(845)は丑歳であるというものである。
ただ当初から丑歳であることが意識されていたわけではなかった。
次に日本で古くから雨を祈るのに牛を殺して天神に献げ祀った風習があって、その意識が天満宮に残っているのだ、という説である。
また、古来、牛そのものが信仰の対象として祀られることがあったという説もある。
たとえば五大明王(ごだいみょうおう)のひとつ大威徳明王(だいいとくみょうおう)は牛に乗った姿で表されるが、五大明王からは独立して単独で祀られることが多い。
道真は「天満大自在天(てんまだいじざいてん)」とか「太政威徳天(だいじょういとくてん)」としばしばよばれるが、その称号は大威徳明王と関係があり、そこから牛が祀られるとする説がある。
「縁起絵巻」によると道真が亡くなってその遺骸(いがい)を墓所と定めた四堂へ牛車で運ぶ途中、牛が突然屈(かが)み込んで動かなくなったので、そのままその場所を墓所にしたという。
また天満宮の末社福部社(ふくべしゃ)は、牛車の牛を飼う牛童(うしわらわ)であるともいい、牛童たちの信仰を得たらしい。
正確な理由は定めがたいのであるが、いずれにしろ天満宮の境内には牛が欠かせないものとしてあり、参詣人が牛を撫でて知恵を授かったり、病の平癒を祈ったりする。
(『京都を愉しむ 菅原道真の史跡をめぐる』五島邦治 淡交社 2019年) 天神信仰
涙をのんだといえば、宇多(うだ)天皇に抜擢され、父祖をこえて右大臣にまでのぼった菅原道真が、藤原時平(ときひら)のためにその地位を追われ、大宰府で憤死したのがもっとも有名です。
十世紀初頭のことでしたが、その経過をみていきますと、藤原氏の圧力もさることながら、同僚の反感の大きさにも驚かされます。
おなじ学者仲間の三善清行(みよしきよゆき)から、「明(901)年は辛酉(かのととり)で変革の年に当たるから、凶禍(きょうか)に遭(あ)わぬともかぎらない。学者から大臣に昇るという栄達は、吉備真備(きびのまきび)以外にはない。ここらあたりで止足(しそく)を知り、職を退いてはどうか」といった内容の手紙を受けとっています。
忠告ではありますが、「止足」(分際<ぶんざい>)を知れというところに、ホンネがのぞいているようです。
左遷の宣命(せんみょう)にも、「右大臣菅原道真、寒門よりにわかに大臣に上(のぼ)りて止足の分を知らず……」とありました。
(『京都史跡見学』村井康彦 岩波ジュニア選書 1982年)
律令政治は能力主義であったはずですが、それはタテマエで、この時分には家がらによって立身出世ができる「権門(けんもん)」と、そうでない「寒門(かんもん)」とに大きくわかれてしまい、これ以後の政治はその権門である藤原氏(北家)中心に展開したといえます。
そういうなかでは寒門間で足の引っぱりあいが行われるのも、当然のなりゆきでした。
配所でなくった道真は、やがて怨霊(おんりょう)となりました。
道真が没して6年後の延喜(えんぎ)9(909)年に、時平が39歳の働き盛りでなくなります。
道真の怨念(おんねん)のなせるわざかと噂されたにちがいありません。
このときは記録には出てきません。
ところが延喜23年3月、藤原氏にとっては宝であった醍醐(だいご)天皇の皇太子保明(やすあきら)親王が21歳で早世したときには、「菅帥(かんのそつ)の霊魂宿忿(しゅくふん)」のしわざとされています。
翌日、道真の罪をゆるして本官に戻し、さらに左遷の詔(みことのり)までも取り消されているところに、人びとのおそれをみる思いがします。
そのおそれが頂点に達したのが、延長(えんちょう)8(930)年6月26日の内裏(だいり)への落雷事件でした。
日照りつづきに、公卿(くぎょう)たちが清涼殿(せいりょうでん)でその対策を審議していたところ、にわかに雷鳴がとどろいて落雷し、藤原清貫(きよつら)・平希世(まれよ)が「震死(しんし)」、他にも怪我人(けがにん)が出たというものです。
この事件はたちまち道真の怨霊と結びつけられ、がんらいは農耕神である天神(雷神)の名で呼ばれるようになります。
のちに道真をまつる社殿が北野(上京区)に営まれるのも、そのあたりに古くから雷公をまつる天神信仰があったからです。
伝えによれば北野天満宮は、はじめ多治比文子(たじひのあやこ)に託宣(たくせん)がくだり、北野に小祠(しょうし)をつくりましたが、その後近江国比良宮(おうみのくにひらのみや)の祢宜神良種(ねぎみわのよしたね)の子にも託宣があり、そこで良種が朝日寺(あさひでら)の僧最鎮(さいちん<珍>)と協力して社殿を建てたのにはじまるといいます。
それにしても記録によれば、北野天満宮の整備にもっとも熱心だったのが藤原氏の忠平(ただひら)であり、その子師輔(もろすけ)であったのは、どういうわけでしょう。
忠平は時平の弟ですが、生前の道真と親しかったといいます。
それも一因でありましょうが、道真を慰めることで反藤原感情をやわらげるという、政治的な判断があったことはいうまでもありません。
事実そうしたことにより、道真をおそろしい怨霊とみる見方は早くにうすれ、むしろ本来の学問の神としてあがめられるようになります。
入学試験が近づくと合格祈願の絵馬(えま)を掲げて……あれですね。
(『京都史跡見学』村井康彦 岩波ジュニア選書 1982年)
古今の時代
道真の亡霊
延喜の時代は道真の放逐をもってその幕をひらいた。
時平による国政領導の緊張したその初期も、かれの死によって形勢が一変し、法皇と天皇は宮廷をなかば快楽追求の場とした。
その間に地方政治は大きくくずれ、凶作と疫病の年がつづいた。
その事態は何ほども法皇らの関心をとらえなかった。
すでに醍醐親政下の政治は袋小路にはいりこんでいた。
快楽の声は宮廷・大官の邸に絶えることはなかった。
(『日本の歴史4 平安京』北山茂夫 中公バックス 昭和45年)
だが、権力の座の人々をおびやかす不吉な事件が、延喜の年代を通じてつぎつぎとおこった。
おそらくその始まりは、909年(延喜9)の時平の死であろう。
かれは39歳の若さで栄華へののぼり坂でたおれた。
時平の強いあとおしで皇太子の座につけられた保明(やすあきら)親王も、923年(延喜23)に病死した。
世間はこの不幸を道真の怨霊のしわざに帰した。
そこで右大臣忠平らは亡皇太子の息慶頼(よしより)王をその後釜にすえた。
この王はわずか3歳であった。
そして元号を延長(えんちょう)とあらためた。
その直後に、女御穏子(おんし)は天皇の第11皇子を生んだ。
これを寛明(ひろあきら)親王という。
そのころ、天皇は詔を発して亡道真を本官(右大臣)に復し、正二位を追贈してその亡魂をなぐさめようとした。
それは、皇太子保明の死によっていたく衝撃をうけたからであった。
ところが、2年後の925年(延長3)に幼少の皇太子が死んだ。
そこで天皇は寛明親王を後嗣とした。
その翌年には、穏子は天皇の第14皇子成明(なりあきら)親王(後の村上天皇)を生むという慶事があって、宮廷は平穏にたち帰ったようであった。
宇多法皇は、どういう風の吹きまわしか、河原院で故左大臣時平のために追福の仏事を営んでいる。
天皇は幾年ぶりかで北野に出かけ、狩猟に打ち興じていた。
法皇もまた西郊の大井川(おおいがわ)に出遊して供奉の人々に歌を詠ませている。
そのあとで天皇もこの地に遊び、法皇も同行した。
おそらくこの二度の大井川行幸に貫之も召され、歌詠をもって奉仕したであろう。
かれは907年(延喜7)9月の宇多の大井川出遊にも随行し、法皇の命によって「大井川行幸和歌序」という小文をつくっている。
台閣(たいかく)の首班忠平の五十の賀が宮廷をあげて祝われた929年(延長7)の7月は、再度豪雨をともなった台風におそわれ、その後のばあいは、
「夜中に洪水汎溢(はんいつ)し、東西京(左右京)七条以下車馬通ぜず、皇城(平安京)以南の田畝海のごとし、穀種流漂し溺死者多し」
という惨状を呈した。
政府は調(ちょう)と徭(よう)を免ずるという措置をとらねばならなかった。
天皇はそのさい、公卿たちにむかって時務策について意見を提出させた。
このとき、「苦雨の賦」を草した紀長谷雄(きのはせお)、「意見封事十二箇条」で気をはいた三善清行(みよしのきよつら)は、死してすでにひさしかった。
忠平は事なかれをたてまえとした寛厚の大臣で、兄時平とちがって国政のひきしめに何ほどの関心も示さなかった。
台閣には地方行政についての受領らの要望を積極的にとりあげようとしそうな人材はみあたらない。
公卿たちからいろいろ意見はでたであろうが、こういう状態では政府の姿勢は変わらなかったであろう。
「意見封事」の名文は、10世紀における下意上達を誇示するための空しい矯飾(きょうしょく)ではなかったろうか。 その翌930年(延長8)は、農月にはいっても降雨なく、6月26日に、忠平以下の公卿たちが殿上において請雨(しょうう)のことを論議していた。
午三刻(うまのさんこく<午後1時ころ>)、西方の愛宕山(あたごやま)の上より黒雲が起こってたちまちかきくもり、雷声とどろいて清涼殿(せいりょうでん)の坤(ひつじさる<西南>)の第一柱上に落雷し、霹靂(へきれき)の神火があった。
殿上に持していた大納言兼民部卿(みんぶのかみ)藤原清貫(きよつら)は朝服に火がつき、胸さけて急死した。
また右中弁(うちゅうべん)兼内蔵頭(くらのかみ)の平希世(たいらのまれよ)も顔が焼けてたおれ臥した。
また紫宸殿(ししいでん)にのぼった者では、右兵衛佐努忠包(うひょうえのすけみぬのただかね)は頭髪に火がついて死亡し、紀蔭連(きのかげつれ)は狂乱し、安曇宗仁(あずみのむねひと)は膝が焼けてたおれた。
大納言の屍は半蔀(はじとみ)にのせられて清涼殿から運びだされ、陽明門(ようめいもん)外で車にうつされた。
希世も同様にして修明門(しゅうめいもん)のそとに運ばれた。
この変事の報に接した両家の人々はこぞって内裏にかけ集まり、哭泣(こくきゅう)の声は制止してもとまらなかった
醍醐帝は、この落雷のショックで寝ついてしまった。
つづいて天皇は、春から都下に蔓延していた咳病(がいびょう)をもわずらった。
ついに9月に皇位を皇太子寛明親王にゆずった醍醐天皇は、それから七日後に46歳で死亡した。
(『日本の歴史4 平安京』北山茂夫 中公バックス 昭和45年)今朝の父の一枚です(^_^)v
同じ場所で、父と珈琲タイム(小休止)をしていて、先に、私が出発しました。
残っていた父がモズ♀と出会っていました。
野鳥との出会いは、ちょっとしたタイミングです。
野鳥を撮影している方には、よく出会う場所で、魚釣りのように待っている方と
出会えそうな場所を移動しながら粘り強く探している方がおられます。
私の場合は、リハビリが目的なので
出会えたらラッキーだなと思っています(^^ゞ
明日の天気予報を見ると雨が降るかもしれません。
その場合は、なかなか踏ん切りがつかない書類の作成をしようと思っています?