2021年2月11日木曜日

建国記念の日

今日は「建国記念の日
日にちが移動する祝日が多い中で、固定された国民の祝日
建国記念の日

 国民の祝日の一つで、「建国をしのび、国を愛する心を養う」日として、昭和41(1966)年に「国民の祝日に関する法律」によって定められ、政令によって2月11日とされている。
この日は、明治6(1873)年以降、現行の「国民の祝日に関する法律」が昭和23(1948)年に制定されるまで、紀元節として祝われていた。
紀元節を2月11日にしたのは、『日本書紀』に、初代天皇とされる神武天皇が橿原宮において帝位についたのが辛酉(かのととり)年の春正月の庚辰朔(かのえたつついたち)だと記されており、明治政府がこの日を太陽暦に換算して決めたことによる。
 暦使用以前における神武天皇即位の年月日の不確かさや、それを太陽暦に換算することの是非など、この日についての科学的根拠をめぐって議論も多いが、とにかく明治以降国家の紀元として祝われてきた2月11日が、建国記念の日に採用されたのである。
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 三省堂 1999年)
昨夜、高校のクラスのラインに
Eテレのねほりんぱほりんで「児童相談所職員」が取り上げられるから見てねと連絡があったので録画しました。
虐待による痛ましい事件が起きるたび、批判を浴びる児童相談所。
保健所もそうなんですが、職員が削減されている中で、一人がかかえる件数は増えるばかり。
児童虐待通告 大阪は6年連続全国最多」(産経WEST 2020年3月12日)

児童相談所ではないけど、先日、紹介した和歌山のように
県知事が保健所は県民の命を守るために削減してはいけないという信念を持っておられたのを見て、県民が羨ましいです。
再放送の予定はないようですが、見逃し配信が2月17日(水) 午後11:20 まで見られるます。
 今村顕史さんのTwitterに

新型コロナウイルスのワクチンは、重症化予防効果はかなり期待できそう。
また、これまでの報告では発症予防効果も示されている。
しかし、まだ感染予防効果については証明されていません。
つまり、現時点では「感染させないための接種」を目的とはしていないのです。

これまでの歴史の中では、「呼吸器感染症」に対して十分な「感染予防効果」を示して、感染を完全に防ぐワクチンは開発されていません。
みんなが接種することで、どれくらい学校や職場が安全になるのか、これは「感染予防効果」の議論であり、まだこの効果に関する答えはでていません。

たとえば、高齢者のいる家庭があるとします。
その家族に接種することで、家族から同居の高齢者への感染を防ぐ、という効果は示されていないということになります。

そもそも「感染予防効果」は、開発承認の基礎的な研究では十分に証明することが困難。
この効果がどの程度あるかは、多くの人が接種していく中で検証していくべき課題となる。
つまり、全く効果がないと完全否定されているのではなく、少しでも効果があればと期待したいという程度の段階です。


こびナビ」というサイトが新型コロナウイルス感染症や新型コロナウイルスワクチンに関する情報を発信しています。
欧州最高齢の116歳、新型ウイルス感染から回復 フランス」(BBCニュース 2月10日)
シスター・アンドレは1904年2月11日生まれで欧州最高齢。
あなたがたと一緒にいられるのは幸せだが、兄や祖父、祖母と一緒にいられる別の場所にいたいという思いもある

1904(明治37)年は日露戦争の最中、与謝野晶子が「君死に給ふこと勿れ」を『明星』に発表しています。
UNIC_TokyoのTwitterに

2月11日は #科学における女性と女児の国際デー
初の女性宇宙飛行士の #向井千秋 さん 。
「夢や仕事を追い求めようとすれば、自分自身を女性であるということで、制約すべきではありません...そして夢を実現したいなら、学習する必要があります。だから教育は、夢を追うひとつの方法なのです。」


#向井千秋 さん「宇宙はなぜ一つでまとまれるか、というと、共通の目的を持っているから。みんなで取り組まないと事故や問題が起きたら生存できない、あるいは自分がやろうと思っていたミッションがあるとしても、1人でやれることには限界が」。

対談全文:https://blog.unic.or.jp/entry/2017/03/07/101607

#WomenInScience
  第六章 天女(観衆生品第七)【解説】続き

 こうしたやり取りを見ていた天女が歓喜して姿を現し、天上の花を振り撒(ま)いた。
その花びらが落ちてくると、菩薩の体に付着することな地面に落ちた。
ところが、シャーリプトラをはじめとする声聞の身にくっ付いて離れなかった。
シャーリプトラは、「出家者にとって法にかなわないことだ」と言って花びらを取ろうとするが取れない。
そこで天女が、「これらの花は考えることも、分別することもない。シャーリプトラこそが、考え、分別しているのだ」と痛い所を突き、花びら自体が問題なのではなく、花びらに執着しているシャーリプトラの心のほうが出家者としてあるまじきことだと断じた。
シャーリプトラは、ここで天女に一本とられてしまう。
そこでやめておけばいいのに、次々に余計なことを言っては、そのたびに天女から論破され、コテンパンにやり込められる。
(『サンスクリット版全訳 維摩経 現代語訳』植木雅俊 角川ソフィア文庫 2019年)
 遂(つい)には、「どうして女身を転じて男身を示さないのか」と天女に問うと、シャーリプトラは天女の体に変えられてしまう。
女身に変えられて慌てふためくシャーリプトラに天女に、「どうして女身を転じて男身を示さないのか」と質問をそっくりお返しする。
答えに窮し、おろおろするばかりのシャーリプトラを、天女は手玉に取り続ける。
小乗仏教の女性蔑視に凝り固まったシャーリプトラをコテンパンにやり込める天女の言葉が痛快である。
 このやり取りの中で、<あるのでもなく、ないのでもない>という「空」の論理によって、天女は「一切のものは男に非ず、女に非ず」と述べ、外見としての男身や女身に固定的実体としてとらわれることの迷妄を打ち破ったといえよう。
 そして最後に、このやり取りを引き取るように、主人公のヴィマラキールティがシャーリプトラに語った。
「この天女は、多くのブッダたちに親近(しんごん)し、神通の智慧によって自在に振る舞い、誓願を満たし、無生法忍(むしょうぼうにん)を得て、不退転の位に入っていて、衆生を〔覚りへ向けて〕成熟させるために誓願の力によって欲するままに、天女としてあり続けているのである」と。
  天女自身は既に不退転の菩薩の境地に達していて、いつでもブッダに成ろうと思えば成れるのに、衆生教化のために敢(あ)えてそれを思いとどまっているというのだ。
女性の姿をしているのは、衆生、なかんずく女性を教化するために自ら願って女性の姿を現じているという。
すなわち、「誓願の力によって」敢えて女性として生まれてきたのだと語った。
こうして、女性として生まれてきたことの自発性と、積極的意義を明かした。
  このように、女性蔑視の著しいインドにおいて女性として生まれたことを「衆生(女性)の救済のため」と位置付ける大乗仏典には、『大宝積経(だいほうしゃくきょう)』『涅槃経(ねはんきょう)』『宝女所問経(ほうにょしょもんきょう)』『大集経(だいじつきょう)』『順権方便経(じゅんごんほうべんきょう)』などが挙げられる。
 これは、ちょうど「業(ごう)」というバラモン教的観念が次第に仏教に入り込み、過去に縛られたものとして現在の自己をとらえるようになってしまったことに対して、「願兼於業(がんけんおごう)」(悪業で苦しむ衆生を救うために自ら願て〔悪〕業に身に兼ねること)という考え方を強力に打ち出していったのとよく似ている。
それは、俗っぽい言葉で言えば、「業があるから何なんだ」「業があるからこそ、他者の苦が理解できるし、救済できるんだ」と開き直ったようなものであった。
それによって、大乗仏教徒は、恵まれない条件を主体的に受け止め、菩薩道という他者救済の原動力としていったのである(植木著『差別の超克――原始仏教と法華経の人間観』221~235頁を参照)。
  ところが、「男にあらず、女にあらず」という「空」の考えに対して、1990年代に「性差に目をつぶるものだ」という批判が女性学者たちの間から起こった。
 この批判は、「男にあらず、女にあらず」という主張のみを見て、その前後関係をきちんと踏まえていないことに起因する。
「男にあらず、女にあらず」という言葉は、必ず相手が男か女かという二者択一的に男性優位を主張した場面の直後に出てくることに注意しなければならない。
しかも、話はそれで終わっていない。
男か女かという表面的な違いにとらわれて、二者択一に執着する相手の態度を否定しておいて、その次に必ず全く別の高次の普遍的次元からの見解が主張されているのだ。
それは、『維摩経』に限ったことではなく、『首楞厳三昧経(しゅりょうごんさんまいきょう)』などもしかりである。
 女性に対する男性優位の二者択一論に対して、女性優位の二者択一論を主張することは、同じものの裏表の関係であって、不毛の論議を繰り返すだけで何ら解決にはならない。
〝男であるから〟とか〝女であるから〟とかという二元相対的立場に立つのではなく、〝人間として何をするか〟という視点に立ったとき、それぞれの違いを認めつつも、その違いを生かすという視点に変わるのではないか。
その意味で、本来の仏教の目指す女性の地位向上は、フェミニズムや、フェミニストという言い方よりも、ヒューマニズムや、ヒューマニストという立場に立っていると言ったほうが正確である。
 シャーリプトラをやりこめた天女の話も、男か女かという次元の主張に対して、男か女かという次元ではなく、その二元相対的対立を超越したところから天女が答えていることを見落としてはならない。
それは「人間として」という次元からの答えであった。
男女の違いから対立するのではなく、男女の生物学的違い( sex )を違いとして認めて、さらに人間としての在り方という普遍的な立脚点を提示しているのだ。
それは、まさに「ジェンダー平等」( gender equality )と言うべきものであった。
 原始仏典の『サンユッタ・ニカーヤ』第1巻には次の言葉が見られる。
「慚じることは、その車の制御装置であり、念(おも)い正していること(正念)はその囲幕である。私は法(真理の教え)を御者(ぎょしゃ)と〔呼び〕、正しく見ること(正見)を先導者と呼ぶ。女性であれ、男性であれ、その人の乗り物がこのようであれば、その人は実にこの乗り物によってまさにニルヴァーナのそばにいる」
「心がよく安定し、智慧が生じているのであるから、正しく法(真理の教え)を観察した者にとって、女人であることが、いったい何〔の妨げ〕をなすというのでしょうか」
――この文章から、男女の性差は何ら問題ではなく、人間としての振る舞いこそが重要だということが読み取れる。
釈尊在世中の女性出家者たちは、手記詩集に「私はブッダの教えをなし遂げました」と歓喜の言葉を異口同音につづっている(植木訳『テーリー・ガーター――尼僧たちのいのちの讃歌』を参照)。
 ところが、釈尊滅後百年ほどして教団が保守・権威主義化し、男性・出家者中心主義が顕著となり、在家や女性が軽視され、女性は穢れていて成仏できない(女人不作仏<にょにんふさぶつ>)と主張されるようになる。
それに対して、紀元1世紀ごろ成立し始める『法華経』や『維摩経』で、女性の名誉回復がテーマとして取り上げられるようになった。
それが本章である(『差別の超克――原始仏教と法華経の人間観』422~428頁を参照)。
(『サンスクリット版全訳 維摩経 現代語訳』植木雅俊 角川ソフィア文庫 2019年)
今朝の父の一枚です(^^)v
カワセミがいるのを教えてもらったそうです。

駐車場に到着すると、入り口で数台止まっていました。
駐車券を発券する機械が故障している。
駐車違反をとられると嫌なのだけど路上駐車をしました。
そためいつもより短い散歩になりました。
それでも父のように普段はなかなか会えないカワセミを写すことができましたp(^^)q