それでもポツポツとベニバスモモの花が咲き出しました。
三月はもう目の前ですね。
「久しぶりのお湿り 27日は天気回復」(えりの気象日記 2月26日)昨日は、久しぶりに雨が降ったので、避けていた確定申告の書類にとりかかりました。
でも、去年との変更があったりしたので、
途中で、????状態になり挫折(-_-;)
確定申告を出しても戻ってくる金額は僅かでも国民の義務を果さなくてはと思っているのに
7万円の料理を提供されたのに「記憶にない」と仰る方がいる。
盛田隆二さんのTwitterに
官邸と総務省幹部は文春にリークした犯人捜しのため、特捜部並みの調査。
武田総務相は「検証委員会」を発表したが、更迭された秋本局長の後任は、山田広報官の夫である吉田博史氏。
つまり調査する内閣官房幹部と、調査される局長が同一人物という"茶番"こそ野党は追及すべきだ
〝ステーキ汚職の総務省が「リーク犯捜し」に血眼になっている〟(NEWSポストセブン 2月26日) 望月衣塑子さんのTwitterに
かつてのリクルート疑惑と同根。
文春砲がなければ、総務省と東北新社は一体化していった。
東北新社の社長就任をなぜ、総務審議官の山田氏が祝うのか。
利害関係者とわからないわけがない
加藤官房長官
正剛氏の勤務先の社長就任を祝う名目の懇親会だったとの報告あった。
〝山田広報官の7万円接待は和牛ステーキと海鮮料理「利害関係者と認識せず」〟(東京新聞 2月24日)
そういえばロッキード事件も立花隆さんが月刊「文藝春秋」に記事を書いた。
日刊ゲンダイのTwitterに確定申告を出しても戻ってくる金額は僅かでも国民の義務を果さなくてはと思っているのに
7万円の料理を提供されたのに「記憶にない」と仰る方がいる。
盛田隆二さんのTwitterに
官邸と総務省幹部は文春にリークした犯人捜しのため、特捜部並みの調査。
武田総務相は「検証委員会」を発表したが、更迭された秋本局長の後任は、山田広報官の夫である吉田博史氏。
つまり調査する内閣官房幹部と、調査される局長が同一人物という"茶番"こそ野党は追及すべきだ
〝ステーキ汚職の総務省が「リーク犯捜し」に血眼になっている〟(NEWSポストセブン 2月26日) 望月衣塑子さんのTwitterに
かつてのリクルート疑惑と同根。
文春砲がなければ、総務省と東北新社は一体化していった。
東北新社の社長就任をなぜ、総務審議官の山田氏が祝うのか。
利害関係者とわからないわけがない
加藤官房長官
正剛氏の勤務先の社長就任を祝う名目の懇親会だったとの報告あった。
〝山田広報官の7万円接待は和牛ステーキと海鮮料理「利害関係者と認識せず」〟(東京新聞 2月24日)
そういえばロッキード事件も立花隆さんが月刊「文藝春秋」に記事を書いた。
島根県の丸山達也知事が25日上京し、「呼んで注意する」とコメントして批判が出た竹下派の竹下亘会長らと面会。
その後知事は夕方に記者会見を開きましたが、堂々の90分超。
司会者が「時間が…」と打ち切ろうとしても、挙手する記者を指名し続けました。
「島根・丸山知事は東京でも堂々90分超 これぞザ・記者会見」(日刊ゲンダイ 2月26日)
「私は知事会に出席していますが、ここ5回ほど本人(小池都知事)は参加していない」
「“宣言解除後も強力な対策を” 全国知事会が緊急提言まとめる」(NHK)
ニュースの中で都知事の発言が見られないのだけど出席しているのかな?
マスクのことで評判になるよりも
政治家なら感染対策などで指導力を発揮するのが本当だと思う。
一方、ガースー首相は
〝菅首相いら立ち「同じような質問ばっかり」 一問一答詳報〟(毎日新聞 2月27日)
土葬にした 原文「墓に納めなければ」。『俊頼髄脳』では「塚」。12世紀、仏教が盛んになるにつれて、火葬が行われるようになったが、依然として土壙(どこう)墓が盛んであった。『餓鬼草子』に盛土塚、『北町天神縁起絵巻』に土葬墓が見える。
なぐさめ 定本は「ナグサム」が想定される欠字。
萱草 わすれぐさ。「萱」は、忘れるという意。中国からの渡来。多年生草本。花は、ゆりに似て、花弁6枚。橙赤色。全体が明るく美麗。花期は6月~7月。
紫苑 山間の草地・平地に自生するキク科の多年生草本。高さ、1~2メートル。変種の小紫苑は高さ60センチ内外。舌状花で淡紫色。花心は黄色。花期は10月~11月。『髄脳』以前は、思うことを忘れぬ草とした実記はない。
鬼 死後の魂を、精神をつかさどり神となるのを魂(こん)、肉体をつかさどるのを魄(はく)といい、鬼となるという。一方、ガースー首相は
〝菅首相いら立ち「同じような質問ばっかり」 一問一答詳報〟(毎日新聞 2月27日)
「同じような質問」をされるというのは、はぐらかしたりして、まともな答を言っていないこと。
質問されることを恥だと思うべき。
気分を変えて、先日紹介した『もののけの日本史 死霊、幽霊、妖怪の1000年』
に法然や藤原俊成が「幽霊」にされたと書かれています(^_-)-☆
第三章 祟らない幽霊――中世
源智による報恩
法然の重要な弟子の一人である源智(げんち)は、建暦2年(1212)12月、同年正月25日に没した師法然の恩徳に謝するために三尺の阿弥陀如来立像を造立した。
この像は、昭和49年(1974)に滋賀県信楽(しがらき)の玉桂寺(ぎょくけいじ)で発見されたものであり、胎内からは32点もの文書がみつかった。
具体的に述べると、胎内には、源智によって阿弥陀仏像を造立した願意が記された「造像願文(ぞうぞうがんもん)」のほか、4万6千人以上もの結縁者(けちえんしゃ)の名が書き連ねられた「結縁交名帳(けちえんきょうみょうちょう)」なども納められていた。
(『もののけの日本史 死霊、幽霊、妖怪の1000年』小山聡子 中公新書 2020年)「造像願文」からは、師である法然の恩徳に報謝(ほうしゃ)するために阿弥陀如来像の造立を発願(ほつがん)したことが記されている。
源智は、法然が天台宗の総本山である比叡山から下り、自力で成仏しようとする聖道門(しょうどうもん)から転じ、極楽浄土に往生できる称名念仏(しょうみょうねんぶつ)の教えに専心したことを述べている。
その上で、法然の説いた教えは、凡夫(ぼんぷ)が救済される道であり、末代に生きる我々のための教えであり、すべての人が救済されることができるようになったとしている。
源智によると、これはすべて法然の恩徳であるという。
恩徳とそれへの報恩については、次のように吐露している。 私の師法然上人の恩徳には、骨を砕いて生まれ変わり死に変わりして長い年月をかけても感謝しきれるものではなく、自分の眼球をくり抜き人に施す行を何度も繰り返してこの世に生まれ変わったとしても、どうして報いることができようか。
そこで、三尺の阿弥陀如来像を造立し、先師法然上人の恩徳に報じたいと思う。
この像の中に数万人の姓名を納めるのは、これまた「幽霊」の恩に報いることになる。
なぜならば、先師はただ慈悲の心をもって人々を教え導き、その救済を最も重要なこととされたからである。
それゆえに、数万人の姓名を書いて三尺の仏像に納めることにする。 数万人の姓名とは、あらかじめ全国から集めておいた4万6千人以上の結縁者の姓名を指す。
この結縁者の中には、法然や源智、源頼朝、源頼家(よりいえ)といったその時点ですでにこの世を去っていた者のほか、後鳥羽上皇や土御門上皇、順徳(じゅんとく)天皇、源実朝(さねとも)など存命中の者も含まれていた。
源智は、像の中に姓名を納めた結縁者は皆、法然の導きによって極楽浄土に生まれ変わることができるとし、それこそが法然の心に叶うことであり、報恩にあたるのだ、とする考えを示している。
法然は、極楽浄土へと結縁者を導く役割を与えれているので、法然を仏や菩薩と見なす見方がすでに当時あったということになる。 さて、文脈から考えて、願文にある「幽霊」は、法然その人のことを指すことになる。
これまで「幽霊」とは、成仏できなかった死霊を指すと解釈されてきたが、必ずしもそうではないことになるだろう。
(『もののけの日本史 死霊、幽霊、妖怪の1000年』小山聡子 中公新書 2020年)
「源智(げんち)」(新纂浄土宗大辞典)
「玉桂寺阿弥陀如来立像(胎内納入品)請来について」(法然共生 宗祖法然上人800年大遠忌)
幽霊にされた藤原俊成
往生したと考えられたにもかかわらず幽霊と呼ばれたのは、法然のみではない。
たとえば、歌人として名を馳せた藤原俊成(としなり<1114~1204>)も、のちに幽霊と呼ばれている。
俊成は、息子の定家(さだいえ)の日記『明月記』によると、臨終の日である元久(げんきゅう)元年(1204)11月30日、死が近いことを告げた。
「念仏して極楽へまいらむと思食(おぼしめ)せ」(念仏して極楽浄土へまいろうとお思い下さい)と声をかけられると頷(うなず)き、抱き起こされて念仏し穏やかに息を引き取ったのであった。
臨終時に一切の雑念をはらい念仏を唱えて穏やかに死ぬこと(臨終正念<りんじゅうしょうねん>)ができれば、極楽往生できると考えられていた。
それゆえ、俊成の死は、まさに理想的なものだったことになる。 さて、俊成の死から22年後にあたる嘉禄2年(1226)11月30日、定家は父俊成の忌日の法要を暁から行った。
日記にその時のことが次のようにしたためられている。 『法華経』「観発品(かんぼつほん)」(普賢<ふげん>菩薩観発品)を読み終わったときには、日はすでに没していた。「幽霊」は最後の夜半にこの「観発品」を暗誦(あんじゅ)されていた。その機縁を思い、悲しみの涙を流した。 ここでいう「幽霊」とは、亡き父俊成を指す。
俊成は、往生していないと考えられたから忌日法要が行われたのではない。
往生が確信された人物に対しても、習慣として忌日法要は行われていた(『幽霊の歴史文化学』小山聡子「幽霊ではなかった幽霊――古代・中世における実像」)。
臨終正念を保ち見事な死を遂げた俊成も、往生したと考えれたものの「幽霊」と呼ばれた一人なのである。
このように、幽霊とは、必ずしも成仏していない死霊や死者のみではなく、成仏したと考えられた者をも指したのである。
この世に居座る霊
(前略)
中世前期には、子は親の墓に対して、7月半ばの盂蘭盆(うらぼん)に花を折り、年末に訪ねる習わしがあった(『幽霊の歴史文化学』山田雄司「生と死の間―霊魂の観点から―」)。
次第に、死者の霊は骨と結び付けて捉えられるようになっていくのである。
(『もののけの日本史 死霊、幽霊、妖怪の1000年』小山聡子 中公新書 2020年)
「この世に居座る霊」の中に『今昔物語集』の話が紹介されていました。
巻第三十一
兄弟二人、萱草と紫苑とを殖うる語、第二十七
今は昔、[ ① ]国[ ② ]郡に住む人がいた。
男の子が二人あったが、その父が亡くなったので、その二人の子は、なげきかなしみ、何年たっても忘れることができなかった。
昔は、死んだ人を土葬にしたので、遺骸を土にほうむって、二人の子は、父が恋しいときには、そろってその墓に参り、涙を流して、わが身の憂いもなげきも、生きた親にむかってものを言うように話してはかえっていった。
(『今昔物語集 本朝世俗篇(下)』武石彰夫訳 講談社学術文庫 2016年)
そうするうちに、しだいに年月が重なって、この二人の子は朝廷に仕え、私事に心をかけるいとまもなくなってしまった。
そこで、兄は「わたしは、このままでは、とても心を(なぐさめ)られそうにない。萱草(かんぞう)という草は、それを見ると、思いを忘れるというから、その萱草を墓のほとりに植えてみよう」と考えて植えることにした。
その後、弟は、いつも兄の家に行き、「いつものように、お墓参りにいらっしゃいませんか」と兄をさそったが、兄はさしさわりが重なって、いっしょに行くことは、まったくなくなってしまった。
そこで、弟は、兄のことを、まったく無情な人だと思って、「わたしたち二人は、心もともにして父親を恋いしたうという、それだけを心のよりどころとして、今まで日を暮らし夜を明かしてきたのだ。兄は、もう忘れてしまったけれども、自分だけは、父を恋う気持ちを忘れまい」と考えて、「紫苑(しおん)という草は、人がこれを見ると、心に思うことは忘れないということだ」と思いついて、紫苑を墓のあたりに植えて、つねに行ってそれを見ていたので、いよいよ忘れることがなかった。
このようにして月日をおくるうちに、あるとき、墓のなかから声がして、「わしは、お前の父親の遺骸を守る鬼である。なにもこわがることはない。わしはまた、お前を守ってよろうと思うのだ」と言うのだった。
弟は、この声を聞くと、おそろしさにふるえあがったが、答えもせずに聞いていると、鬼がまた、「お前が父親を恋いしたうことは、年月がたっても、すこしも変わることがない。兄は、お前と同じように恋いかなしんでいるように見えたが、思い忘れる草を植えて、それを見て、もはや、思いどおりになった。お前は、また、紫苑を植えて、それを見て思いどおりになった。だから、わしは、鬼の身であっても、慈悲の心があるゆえ、ものをあわれむ心もふかいのだ。また、その日のうちに生ずる善悪のことをはっきりと予知することができる。されば、わしは、いま、お前のために予知することがあれば、夢でかならず知らせてやろう」と言って、その声がやんだ。
弟は、涙にぬれて感謝したことであった。
その後、その日におこるはずのことを夢に見たが、それは、ぴたりと適中した。
そして、身の上におこる善悪のすべてのことを予知した。
これは、父親を恋いしたう心がふかいからである。
されば、よろこばしいことのある人は、紫苑を植えて、つねに見るべきであり、心配ごとのある人は、萱草を植えてつねに見るべきである、とこう語り伝えているということである。
[①][②] 国名・郡名の明記を予定した意識的欠字。気分を変えて、先日紹介した『もののけの日本史 死霊、幽霊、妖怪の1000年』
に法然や藤原俊成が「幽霊」にされたと書かれています(^_-)-☆
第三章 祟らない幽霊――中世
源智による報恩
法然の重要な弟子の一人である源智(げんち)は、建暦2年(1212)12月、同年正月25日に没した師法然の恩徳に謝するために三尺の阿弥陀如来立像を造立した。
この像は、昭和49年(1974)に滋賀県信楽(しがらき)の玉桂寺(ぎょくけいじ)で発見されたものであり、胎内からは32点もの文書がみつかった。
具体的に述べると、胎内には、源智によって阿弥陀仏像を造立した願意が記された「造像願文(ぞうぞうがんもん)」のほか、4万6千人以上もの結縁者(けちえんしゃ)の名が書き連ねられた「結縁交名帳(けちえんきょうみょうちょう)」なども納められていた。
(『もののけの日本史 死霊、幽霊、妖怪の1000年』小山聡子 中公新書 2020年)「造像願文」からは、師である法然の恩徳に報謝(ほうしゃ)するために阿弥陀如来像の造立を発願(ほつがん)したことが記されている。
源智は、法然が天台宗の総本山である比叡山から下り、自力で成仏しようとする聖道門(しょうどうもん)から転じ、極楽浄土に往生できる称名念仏(しょうみょうねんぶつ)の教えに専心したことを述べている。
その上で、法然の説いた教えは、凡夫(ぼんぷ)が救済される道であり、末代に生きる我々のための教えであり、すべての人が救済されることができるようになったとしている。
源智によると、これはすべて法然の恩徳であるという。
恩徳とそれへの報恩については、次のように吐露している。 私の師法然上人の恩徳には、骨を砕いて生まれ変わり死に変わりして長い年月をかけても感謝しきれるものではなく、自分の眼球をくり抜き人に施す行を何度も繰り返してこの世に生まれ変わったとしても、どうして報いることができようか。
そこで、三尺の阿弥陀如来像を造立し、先師法然上人の恩徳に報じたいと思う。
この像の中に数万人の姓名を納めるのは、これまた「幽霊」の恩に報いることになる。
なぜならば、先師はただ慈悲の心をもって人々を教え導き、その救済を最も重要なこととされたからである。
それゆえに、数万人の姓名を書いて三尺の仏像に納めることにする。 数万人の姓名とは、あらかじめ全国から集めておいた4万6千人以上の結縁者の姓名を指す。
この結縁者の中には、法然や源智、源頼朝、源頼家(よりいえ)といったその時点ですでにこの世を去っていた者のほか、後鳥羽上皇や土御門上皇、順徳(じゅんとく)天皇、源実朝(さねとも)など存命中の者も含まれていた。
源智は、像の中に姓名を納めた結縁者は皆、法然の導きによって極楽浄土に生まれ変わることができるとし、それこそが法然の心に叶うことであり、報恩にあたるのだ、とする考えを示している。
法然は、極楽浄土へと結縁者を導く役割を与えれているので、法然を仏や菩薩と見なす見方がすでに当時あったということになる。 さて、文脈から考えて、願文にある「幽霊」は、法然その人のことを指すことになる。
これまで「幽霊」とは、成仏できなかった死霊を指すと解釈されてきたが、必ずしもそうではないことになるだろう。
(『もののけの日本史 死霊、幽霊、妖怪の1000年』小山聡子 中公新書 2020年)
「源智(げんち)」(新纂浄土宗大辞典)
「玉桂寺阿弥陀如来立像(胎内納入品)請来について」(法然共生 宗祖法然上人800年大遠忌)
幽霊にされた藤原俊成
往生したと考えられたにもかかわらず幽霊と呼ばれたのは、法然のみではない。
たとえば、歌人として名を馳せた藤原俊成(としなり<1114~1204>)も、のちに幽霊と呼ばれている。
俊成は、息子の定家(さだいえ)の日記『明月記』によると、臨終の日である元久(げんきゅう)元年(1204)11月30日、死が近いことを告げた。
「念仏して極楽へまいらむと思食(おぼしめ)せ」(念仏して極楽浄土へまいろうとお思い下さい)と声をかけられると頷(うなず)き、抱き起こされて念仏し穏やかに息を引き取ったのであった。
臨終時に一切の雑念をはらい念仏を唱えて穏やかに死ぬこと(臨終正念<りんじゅうしょうねん>)ができれば、極楽往生できると考えられていた。
それゆえ、俊成の死は、まさに理想的なものだったことになる。 さて、俊成の死から22年後にあたる嘉禄2年(1226)11月30日、定家は父俊成の忌日の法要を暁から行った。
日記にその時のことが次のようにしたためられている。 『法華経』「観発品(かんぼつほん)」(普賢<ふげん>菩薩観発品)を読み終わったときには、日はすでに没していた。「幽霊」は最後の夜半にこの「観発品」を暗誦(あんじゅ)されていた。その機縁を思い、悲しみの涙を流した。 ここでいう「幽霊」とは、亡き父俊成を指す。
俊成は、往生していないと考えられたから忌日法要が行われたのではない。
往生が確信された人物に対しても、習慣として忌日法要は行われていた(『幽霊の歴史文化学』小山聡子「幽霊ではなかった幽霊――古代・中世における実像」)。
臨終正念を保ち見事な死を遂げた俊成も、往生したと考えれたものの「幽霊」と呼ばれた一人なのである。
このように、幽霊とは、必ずしも成仏していない死霊や死者のみではなく、成仏したと考えられた者をも指したのである。
この世に居座る霊
(前略)
中世前期には、子は親の墓に対して、7月半ばの盂蘭盆(うらぼん)に花を折り、年末に訪ねる習わしがあった(『幽霊の歴史文化学』山田雄司「生と死の間―霊魂の観点から―」)。
次第に、死者の霊は骨と結び付けて捉えられるようになっていくのである。
(『もののけの日本史 死霊、幽霊、妖怪の1000年』小山聡子 中公新書 2020年)
「この世に居座る霊」の中に『今昔物語集』の話が紹介されていました。
巻第三十一
兄弟二人、萱草と紫苑とを殖うる語、第二十七
今は昔、[ ① ]国[ ② ]郡に住む人がいた。
男の子が二人あったが、その父が亡くなったので、その二人の子は、なげきかなしみ、何年たっても忘れることができなかった。
昔は、死んだ人を土葬にしたので、遺骸を土にほうむって、二人の子は、父が恋しいときには、そろってその墓に参り、涙を流して、わが身の憂いもなげきも、生きた親にむかってものを言うように話してはかえっていった。
(『今昔物語集 本朝世俗篇(下)』武石彰夫訳 講談社学術文庫 2016年)
そうするうちに、しだいに年月が重なって、この二人の子は朝廷に仕え、私事に心をかけるいとまもなくなってしまった。
そこで、兄は「わたしは、このままでは、とても心を(なぐさめ)られそうにない。萱草(かんぞう)という草は、それを見ると、思いを忘れるというから、その萱草を墓のほとりに植えてみよう」と考えて植えることにした。
その後、弟は、いつも兄の家に行き、「いつものように、お墓参りにいらっしゃいませんか」と兄をさそったが、兄はさしさわりが重なって、いっしょに行くことは、まったくなくなってしまった。
そこで、弟は、兄のことを、まったく無情な人だと思って、「わたしたち二人は、心もともにして父親を恋いしたうという、それだけを心のよりどころとして、今まで日を暮らし夜を明かしてきたのだ。兄は、もう忘れてしまったけれども、自分だけは、父を恋う気持ちを忘れまい」と考えて、「紫苑(しおん)という草は、人がこれを見ると、心に思うことは忘れないということだ」と思いついて、紫苑を墓のあたりに植えて、つねに行ってそれを見ていたので、いよいよ忘れることがなかった。
このようにして月日をおくるうちに、あるとき、墓のなかから声がして、「わしは、お前の父親の遺骸を守る鬼である。なにもこわがることはない。わしはまた、お前を守ってよろうと思うのだ」と言うのだった。
弟は、この声を聞くと、おそろしさにふるえあがったが、答えもせずに聞いていると、鬼がまた、「お前が父親を恋いしたうことは、年月がたっても、すこしも変わることがない。兄は、お前と同じように恋いかなしんでいるように見えたが、思い忘れる草を植えて、それを見て、もはや、思いどおりになった。お前は、また、紫苑を植えて、それを見て思いどおりになった。だから、わしは、鬼の身であっても、慈悲の心があるゆえ、ものをあわれむ心もふかいのだ。また、その日のうちに生ずる善悪のことをはっきりと予知することができる。されば、わしは、いま、お前のために予知することがあれば、夢でかならず知らせてやろう」と言って、その声がやんだ。
弟は、涙にぬれて感謝したことであった。
その後、その日におこるはずのことを夢に見たが、それは、ぴたりと適中した。
そして、身の上におこる善悪のすべてのことを予知した。
これは、父親を恋いしたう心がふかいからである。
されば、よろこばしいことのある人は、紫苑を植えて、つねに見るべきであり、心配ごとのある人は、萱草を植えてつねに見るべきである、とこう語り伝えているということである。
土葬にした 原文「墓に納めなければ」。『俊頼髄脳』では「塚」。12世紀、仏教が盛んになるにつれて、火葬が行われるようになったが、依然として土壙(どこう)墓が盛んであった。『餓鬼草子』に盛土塚、『北町天神縁起絵巻』に土葬墓が見える。
なぐさめ 定本は「ナグサム」が想定される欠字。
萱草 わすれぐさ。「萱」は、忘れるという意。中国からの渡来。多年生草本。花は、ゆりに似て、花弁6枚。橙赤色。全体が明るく美麗。花期は6月~7月。
紫苑 山間の草地・平地に自生するキク科の多年生草本。高さ、1~2メートル。変種の小紫苑は高さ60センチ内外。舌状花で淡紫色。花心は黄色。花期は10月~11月。『髄脳』以前は、思うことを忘れぬ草とした実記はない。
父親を恋いしたう 先祖の霊が子孫を守るという考えは古い。氏神が地域集団の産土神に変化して檀家寺の形で先祖崇拝が一般化した。のち仏と祖霊とを同一視するようになった。
夢 夢は、神や悪魔など超自然的存在からのお告げであり、それは未来の吉凶を示すものと信じられた。
(『今昔物語集 本朝世俗篇(下)』武石彰夫訳 講談社学術文庫 2016年)