休憩しようとしたカラスも枝が揺れるのですぐに飛び立ちました。
「【台風並みの風】低気圧の中心 24時間で50ヘクトパスカル低下」(NHK) 今村顕史さんのTwitterに
英国では、ロックダウンしている中で、急増する「変異株」の状況が明らかとなりました。
現在の対策が有効な通常株は減少しながら、
その一方で「選択圧」によって変異株が徐々に増えて目立つようになる。
緊急事態宣言の中でも、同じように変異株がみつかりやすくなる可能性が高くなります。
変異株がコントロールできないほど増えてしまうと、その対応はさらに難しくなってしまいます。
なんとか抑え込める範囲の発生数にとどめながら、
気温の上昇やワクチンの効果を待つことも、
今後の短期的な戦略としては必要となってきます。
今、できる限り陽性者数を少なく抑えて、それを維持したい理由は、
医療ひっ迫の解消だけではありません。
医療においてはワクチン接種体制の確保も重要な課題。
さらに緊急事態解除後の短期間でのリバウンドを避けること、
そして変異株の増加を少しでも防ぐために行っているのです。
「京都市高齢者個別接種で体制強化」(関西NHK 2月15日)
ワクチンを接種したいけど、集団接種だけでなく個別接種にも取り組んでほしいです。
副反応のことを考えると主治医に診てもらえる病院で接種したいです。
「日本で接種するワクチンはファイザー社製 打つ人が“選ぶ自由はない”可能性大」(AERAdot.)
「ミャンマー、2夜連続でインターネット遮断 軍批判で禁錮刑も」(BBCニュース)ワクチンを接種したいけど、集団接種だけでなく個別接種にも取り組んでほしいです。
副反応のことを考えると主治医に診てもらえる病院で接種したいです。
「日本で接種するワクチンはファイザー社製 打つ人が“選ぶ自由はない”可能性大」(AERAdot.)
インターネットを遮断し、批判すれば禁錮刑は中国のやり方と変わらないですね。
「プーチン大統領 “新憲法に従い北方領土引き渡し交渉行わず”」(NHK)
前首相は、外交をうたい文句にしていて首脳会談も行っていたけど…
ロシアに限らず外国訪問をしてお金をばらまいたのに
なんの成果も上がらないばかりか、事態はひどくなった。女性と信仰 (「近畿民俗」昭和12年5月)
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それがどうして今日のごとくにまで没落をはじめたか!
その第一の原因は儒仏思想の流入であろう。
女性のけがれの認めそめられたゆえんはここにある。
今日日本各地に残る女の月経中のいみごもりする田屋(たや)なるものは、女性の不浄をシンボルしたもののようにいうが私の考えはむしろその反対で、女がとくに血のけがれのために忌みごもりしなければならなかったのは、神を祀るほどに尊い身であるがゆえに血のいみをこもらなければならなかったので、神を祀るほどの力もなければ、敢えていみごもりをする要もないということになる。
要するに神の祭祀者なるがゆえに身の潔斎(けっさい)をたもとうとして生まれた方法にすぎぬと思うのである。
それが逆にとられる結果となった。
(『女の民俗誌』宮本常一 岩波現代文庫 2001年)
その第二の理由は男性の社会的進出である。
目に見えぬもの以上に四囲の敵からうかがわれるようになるともう女性の力ではどうにもならなかった。
そうして女の地位は転落をはじめた。 それにしても多くの神を祀った女たち、なかには国々から朝廷に撰進せられた巫女たちの群はどうなっていったかということは考えてみねばならぬ。
彼女たちは逆に比丘尼(びくに)などと呼ばれる仏教流布者におちていったのではあるまいか。
熊野を中心とした絵とき比丘尼、若狭の八百比丘尼(はっぴゃくびくに)あるいは京都誓願寺(せいがんじ)を中心とした比丘尼たちはもとこの巫女の群であったと考える。
ただ神社の信仰のなかにあって巫女として清浄さを保った人々はなお一種の誇りを持ち得たが、それとて別に神官の発生があり、いわば男巫女の手に祭祀の主体は移っていった。
しかし年老いたものあるいは小さな社(やしろ)に属した巫女たちは、むしろ職業化されて地方流離をはじめたのである。
もとこの仲間は南島のコデに近い性質のもので、血縁因の神の祭祀にあたっていたものが多かったと思われる。
これには一つの神の祭祀によって一族の和平があったと考えられるのであるが、近世に至って個々の家が、個々に神を祀らねば幸福が来ないようにまで隣家との境ができてくると、巫女の用は漸(ようや)く殖えてきたのである。
一方公の管理する社から追放されると、管理なき雑神の祭祀へ転じたものも多かっただろう。
神がかりする女はそうどの家にもいるものではなかった。
家にさしさわりがあっても平凡な家刀自(いえとじ)ではまにあわなかった。
ここに巫女を待つ家がいくらでもできてきたのである。
そうしてミコの口寄せはいまも何か人間で判断のつかぬところに行われているのである。
同時に彼女らの作り出した応霊の数も多くここばかりはますます女の世界が栄えたのである。
さてしかし一方これら流離の女性の日本文化伝播に致した功績は実に大きかった。
そのために我々は長く女性的感情を自らのなかに培いつづけて来たのである。
人間感情の成長が文芸の力によるものであるとすれば、少なくも日本民間の文芸は大半女性の手によったもので、その深き影響を考えずにはいられない。
されば文字による文芸に対しても日本の男子は多くはこれを子女のたしなむものと考えたのである。
文字による文芸のすでに鎌倉以来多くは男子の手に牛耳られつつ、なお勇壮にして規模広大になる文芸の生まれなかったゆえんは単にこの国が箱庭式な優美な国であったによるのみとは想定したくない。
事実彼女らの持ちあるいた口承文芸は多かったのである。 信濃小県(ちいさがた)の寒村から出たシナノミコなるものは口寄せを業(わざ)としてひろく各地をまわったもののようで、大阪府などにもずいぶんやって来ていたのであるが、その口寄せのかたわら、諏訪神社の御本地甲賀三郎(こうがさぶろう)の話を語ってあるいた。
いま信濃に残っている甲賀三郎の話を申しあげると、
昔蓼科山の龍宮淵に甲賀三郎が住んでいた。
ある日この世界に出てこようと思って日ごろ用いていた藤梯子をのぼってこの世界に来た時、妻が大切な鏡を忘れていたのでそれをとりに下ると、三郎を邪魔にしていた兄が、再び上って来られぬように藤を根からきってしまう。
そこで三郎は淵で数年を暮したが、その第二の妻ともいうべきものが、握飯を四十九こしらえて与えたので三郎はその教えのままに一日に一つずつ食うてこの世に出る。
出てみると妻は自分を思うあまりに浅間の真楽寺(しんらくじ)でお経をよんでいた。
三郎は再会を喜んで夫婦でむつまじく暮らしていたが、ある日里人が「真楽寺の池では小さいから諏訪の湖へやろうではないか」と話しているのをきいて気づいてみると大蛇になっている。
おどろいて諏訪の湖へ出かけ神にまつられることになった。
というのである。
甲賀三郎の伝説の各地にひろがっているのはこの巫女たちの仕事であろうが、こうして一つの伝説は分布したのである。
かの有名な百合若大臣(ゆりわかだいじん)の伝説なども舞の本にのせられる前にミコの語りあるいたものと思われる。
現在壱岐などでは百合若を語るミコが生き残っているのである。
これを語るミコを市女(いちじょ)というのは東北のイタコに近く、イチコを中心にして転訛(てんか)した言葉であろう。
イチ女はユリという弓をならしつつ百合若を語ったのである。
百合若の伝説は西欧の神話ユリシーズにあまりにも似通うているので、坪内逍遥博士や島津久基(しまづひさもと)博士はこれを近世初頭の舶載(はくさい)であろうと、この伝説の日本での故郷ともいうべき大分と南蛮貿易との関係を考えあわせて論じているが、日本においては南蛮船渡来よりはるか古く信濃の熊谷家で興行があったことがその伝記に見えている。
この事実からしても、早計なる論定を下すことは少なくも文化の歴史上の問題については避くべきものである。
而してよし西欧からの渡来にしても、この国への流入はさらに古かったことが想定せられるのである。
壱岐のイチ女にあたるものに東北のイタコがある。
イタコは南部ではオカミン、遠野ではモリコといわれている。
神あそばせをし神がかりする史から見てやはりミコである。
イタコになるには七日の行を厳しく修してから三十三夜は生魚を食せず熱心に先輩のイタコどもが集まって祈るのである。
さて神つけができると、それからは盆中の口寄せからオシラ神あそびをするようになる。
口寄せするにはイタコの前に鉢をおきこれに砂を盛る。なんの成果も上がらないばかりか、事態はひどくなった。女性と信仰 (「近畿民俗」昭和12年5月)
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それがどうして今日のごとくにまで没落をはじめたか!
その第一の原因は儒仏思想の流入であろう。
女性のけがれの認めそめられたゆえんはここにある。
今日日本各地に残る女の月経中のいみごもりする田屋(たや)なるものは、女性の不浄をシンボルしたもののようにいうが私の考えはむしろその反対で、女がとくに血のけがれのために忌みごもりしなければならなかったのは、神を祀るほどに尊い身であるがゆえに血のいみをこもらなければならなかったので、神を祀るほどの力もなければ、敢えていみごもりをする要もないということになる。
要するに神の祭祀者なるがゆえに身の潔斎(けっさい)をたもとうとして生まれた方法にすぎぬと思うのである。
それが逆にとられる結果となった。
(『女の民俗誌』宮本常一 岩波現代文庫 2001年)
その第二の理由は男性の社会的進出である。
目に見えぬもの以上に四囲の敵からうかがわれるようになるともう女性の力ではどうにもならなかった。
そうして女の地位は転落をはじめた。 それにしても多くの神を祀った女たち、なかには国々から朝廷に撰進せられた巫女たちの群はどうなっていったかということは考えてみねばならぬ。
彼女たちは逆に比丘尼(びくに)などと呼ばれる仏教流布者におちていったのではあるまいか。
熊野を中心とした絵とき比丘尼、若狭の八百比丘尼(はっぴゃくびくに)あるいは京都誓願寺(せいがんじ)を中心とした比丘尼たちはもとこの巫女の群であったと考える。
ただ神社の信仰のなかにあって巫女として清浄さを保った人々はなお一種の誇りを持ち得たが、それとて別に神官の発生があり、いわば男巫女の手に祭祀の主体は移っていった。
しかし年老いたものあるいは小さな社(やしろ)に属した巫女たちは、むしろ職業化されて地方流離をはじめたのである。
もとこの仲間は南島のコデに近い性質のもので、血縁因の神の祭祀にあたっていたものが多かったと思われる。
これには一つの神の祭祀によって一族の和平があったと考えられるのであるが、近世に至って個々の家が、個々に神を祀らねば幸福が来ないようにまで隣家との境ができてくると、巫女の用は漸(ようや)く殖えてきたのである。
一方公の管理する社から追放されると、管理なき雑神の祭祀へ転じたものも多かっただろう。
神がかりする女はそうどの家にもいるものではなかった。
家にさしさわりがあっても平凡な家刀自(いえとじ)ではまにあわなかった。
ここに巫女を待つ家がいくらでもできてきたのである。
そうしてミコの口寄せはいまも何か人間で判断のつかぬところに行われているのである。
同時に彼女らの作り出した応霊の数も多くここばかりはますます女の世界が栄えたのである。
さてしかし一方これら流離の女性の日本文化伝播に致した功績は実に大きかった。
そのために我々は長く女性的感情を自らのなかに培いつづけて来たのである。
人間感情の成長が文芸の力によるものであるとすれば、少なくも日本民間の文芸は大半女性の手によったもので、その深き影響を考えずにはいられない。
されば文字による文芸に対しても日本の男子は多くはこれを子女のたしなむものと考えたのである。
文字による文芸のすでに鎌倉以来多くは男子の手に牛耳られつつ、なお勇壮にして規模広大になる文芸の生まれなかったゆえんは単にこの国が箱庭式な優美な国であったによるのみとは想定したくない。
事実彼女らの持ちあるいた口承文芸は多かったのである。 信濃小県(ちいさがた)の寒村から出たシナノミコなるものは口寄せを業(わざ)としてひろく各地をまわったもののようで、大阪府などにもずいぶんやって来ていたのであるが、その口寄せのかたわら、諏訪神社の御本地甲賀三郎(こうがさぶろう)の話を語ってあるいた。
いま信濃に残っている甲賀三郎の話を申しあげると、
昔蓼科山の龍宮淵に甲賀三郎が住んでいた。
ある日この世界に出てこようと思って日ごろ用いていた藤梯子をのぼってこの世界に来た時、妻が大切な鏡を忘れていたのでそれをとりに下ると、三郎を邪魔にしていた兄が、再び上って来られぬように藤を根からきってしまう。
そこで三郎は淵で数年を暮したが、その第二の妻ともいうべきものが、握飯を四十九こしらえて与えたので三郎はその教えのままに一日に一つずつ食うてこの世に出る。
出てみると妻は自分を思うあまりに浅間の真楽寺(しんらくじ)でお経をよんでいた。
三郎は再会を喜んで夫婦でむつまじく暮らしていたが、ある日里人が「真楽寺の池では小さいから諏訪の湖へやろうではないか」と話しているのをきいて気づいてみると大蛇になっている。
おどろいて諏訪の湖へ出かけ神にまつられることになった。
というのである。
甲賀三郎の伝説の各地にひろがっているのはこの巫女たちの仕事であろうが、こうして一つの伝説は分布したのである。
かの有名な百合若大臣(ゆりわかだいじん)の伝説なども舞の本にのせられる前にミコの語りあるいたものと思われる。
現在壱岐などでは百合若を語るミコが生き残っているのである。
これを語るミコを市女(いちじょ)というのは東北のイタコに近く、イチコを中心にして転訛(てんか)した言葉であろう。
イチ女はユリという弓をならしつつ百合若を語ったのである。
百合若の伝説は西欧の神話ユリシーズにあまりにも似通うているので、坪内逍遥博士や島津久基(しまづひさもと)博士はこれを近世初頭の舶載(はくさい)であろうと、この伝説の日本での故郷ともいうべき大分と南蛮貿易との関係を考えあわせて論じているが、日本においては南蛮船渡来よりはるか古く信濃の熊谷家で興行があったことがその伝記に見えている。
この事実からしても、早計なる論定を下すことは少なくも文化の歴史上の問題については避くべきものである。
而してよし西欧からの渡来にしても、この国への流入はさらに古かったことが想定せられるのである。
壱岐のイチ女にあたるものに東北のイタコがある。
イタコは南部ではオカミン、遠野ではモリコといわれている。
神あそばせをし神がかりする史から見てやはりミコである。
イタコになるには七日の行を厳しく修してから三十三夜は生魚を食せず熱心に先輩のイタコどもが集まって祈るのである。
さて神つけができると、それからは盆中の口寄せからオシラ神あそびをするようになる。
先祖の仏を祈り下すと、その砂の上にポツポツといくつも小穴があいたという。
これは先祖の足あとだと信じられた。
その神下しはオシアンまたはオシラという桑樹でつくった棒に絹布などをかぶせて幣のようにしてある。
これに信心祈願者の木綿のきれを出させてかぶせこれを左右にふって祈るのである。
オシラサマはもと養蚕の神であると一般に信じられているが、それでは羽後、北海道などの蚕に関係のないオシラ様の説明がつかず、多分は白山権現が本体ではないかと柳田先生は疑っておいでになる。 さて口寄せをするとオシラ神あそばせをした。
これは多くはオシラサマの本地ともいうべき祭文を語るのであるが文芸はここにも発生したのである。
それだけでなくイタコは炉辺にあって、集まって来た人たちに余興として昔話をしたものであるという。
恐らくはこういう女に好んで語ったであろうと思われるが、いまもいくつか流布している。 たとえば腰折雀などはその一つで、多くの舌切雀がおばあさんに舌をきられることになっているのに、この方ではおじいさんに尾の羽をきられ、金の出るつづらをもらうのがおばあさんである。
桃太郎に対して瓜子姫(うりこひめ)という話がある。
この話は川から流れてくるのが桃ではなく瓜で、そのなかから生まれるのが美しい姫子である。
それが爺婆の留守にアマノジャクに苦しめられるのであるが、ところによってはとって食われることになっている。
結末を悲惨なるものに改造したのは女性の心理からであろう。
継子譚のなかにもシンデレラ型の成功譚も多いが、継子が継母に殺されて鳥や虫になった話も女性の間に行なわれて改造されたものであろう。
こうしていくと昔話のなかには女によって語り出され、語りつたえられたものの多いことが判明する。
かの天女の話など女の語る話であったことは喜界島のユタの例をすでにあげ、海の神の女性である例の多いこともあげた。 ビクニについて前述したところであるが、これをさらに細説すると、熊野から出たビクニなどはその霊験の宣伝のために絵を持ってあるき、その絵ときをしたのである。
これの台本の展開がすなわち説教節で浄瑠璃の興隆までは日本を風靡したところであった。
かの名高い小栗判官(おぐりはんがん)の話などは恐らくこの仲間の持ってあるいたものではあるまいか。
この絵ときの零落職業化したのがかののぞきであると思う。
我々の故郷ではこれをゴロゼといっていた。
裏日本に多い八百比丘尼(はっぴゃくびくに)の伝説なども、みな比丘尼の持ちあるいたもので、彼女の伝説を伴うている椿(つばき)は恐らくアズサミコの神下しに使った弓のごとく、その他の巫女のもつ笹のごとく、神のヨリマシの意味があったのであろう。
京都の誓願寺を中心にして全国をあるいた尼僧の仲間が和泉式部の伝説を持ちあるいたことは柳田先生の『女性と民間伝承』にくわしい。
こうして、この久しく交通不便なりし国々の隅まで信仰の力によって文化を流布せしめた彼女たちの功績は実に大きかったのである。
かくて常民一般のこの耳による文芸への久しき訓練のあったゆえに我々がよく美しき多くの語彙を持ち得たのであり、明治以後の新しい文学に容易に理解を持ち得たのである。
これを培うた過去三千年の女性の努力はなおくわしく正しくかえりみていいのである。
而して日本の文芸の偉大なる功績をかの宮廷の女房たちに帰して、他を無為とするには毫もあたらないのである。
而して日本の政治が巫女の託宣政治であったごとく文学も巫女文学が大半を占めたのであった。
(『女の民俗誌』宮本常一 岩波現代文庫 2001年)
(続く)
今朝の父の一枚です(^_^)v図鑑を見て、マガモからアヒルができたことを知ってビックリしていました。
鳥の名前を知るだけでなく、生態などを知ると一層興味が湧きます。
マガモ(カモ科)
■50~65㎝
●ユーラシア、アフリカ北部、北アメリカ、ハワイ諸島
●日本全国(冬鳥、一部留鳥<りゅうちょう>)
◆夜、水田などで落ちた種子や草の実などを食べる。
この鳥からアヒルが作りだされた。
☆グェグェと鳴く。
(『ポケット版 学研の図鑑⑤鳥(旧版)』小宮輝之監修 2002年版)