今朝は、一気に気温が上がったという感じでした。
時々、目がかゆくなり、クシャミも…
「土日は春の暖かさ 花粉は非常に多く飛ぶ」(えりの気象日記 2月19日)1933(昭和8)年2月20日、小林多喜二が検挙された築地署で拷問死しました。
「小林多喜二の拷問死、遺族が告訴試みる 弁護士供述記録」(朝日新聞 2019年9月23日)
今、中国では
「ウイグル女性、収容所での組織的レイプをBBCに証言 米英は中国を非難」(BBC 2月5日)
そして軍事クーデターが起きたミヤンマ―では(中国は、クーデターと認めない)
「ミャンマー デモ参加の女性が死亡 軍への抗議活動拡大か」(NHK)
日本では、ETV特集「エリザベス この世界に愛を」にあったように
難民が入管施設に長期収監(監禁)されている。
「社説:入管長期収容 厳罰主義では改善望めぬ」(京都新聞 2020年8月11日)
「国連 “人権上の問題” 入管に収容される外国人」(NHK 2020年10月20日) 梅に鶯 春の鷺 大岡 信(おおおか まこと<詩人>)
(前略)
「梅に鶯」の美学
春の鳥な啼きそ啼きそあかあかと外(と)の面(も)の草に日の入る夕べ 北原白秋
水の音(ね)に似て啼く鳥よ山ざくら松にまじれる深山(みやま)の春を 若山牧水
私は中学三年の秋から、短歌や詩の本を読みはじめた。
戦争が思いも寄らぬことにとつぜん終って――といのが、当時の一億玉砕思想の中での一中学生の実感だった――明日からどうやら死ぬ覚悟をしなくても当分は生きていかれると思った時、目の前に文学書が現実の重味をもって立ち現れたのだった。
父親が歌人だったから、家の書棚には相応に歌書があり、詩書もあった。
そのほかにはほとんど何の財産も何の蓄えもない、いわゆる清貧の暮らしそのものだった。
(『野鳥の歳時記1 春の鳥』日本鳥類保護連盟監修 小学館 昭和59年)
白秋や牧水は、私に向かって、強い朗らかな声で哀しい歌を聴かせてくれた人々だった。
私は彼らの歌声に酔い、まったく自然に短歌を作り出していた。
もちろん親父の歌は、物ごころつくと同時に読みはじめていたし、父が尊敬して生涯の師とした窪田空穂(くぼたうつぼ)の歌も、父の書く空穂短歌鑑賞の文章を通じて、早くから愛読していた。
短歌から詩へ半年もしないうちに移ってしまったが、当時出していた同人雑誌の仲間である先生や同級生の中に、二、三の俳句好きがいたこともあって、短歌および俳句は、爾来(じらい)私にとって決して縁遠くはならず、数十年たった今でも相変らず関係は深い。
さて、初春といえば、植物なら梅、鳥ならウグイスと決まっている。
日本人は、梅に鶯、竹に雀、柳に燕(つばめ)、葦(あし)に雁、すすきに鶉(うずら)といった花鳥の取合わせを王朝時代から愛し続けてきた。
和歌・誹諧のみならず、近世花鳥画の題材もこれら取合わせの美学に従って選ばれているものが多い。
たとえば松に鶯という取合わせは、現実にいくら存在していようと、和歌の美学からは排除された。
これはまことに理不尽、不合理じゃないか、とだれしもが思う。
しかし、和歌を根本とする日本の古典主義の美意識は、元来リアリズムに立脚するものではなかったのだから、それを不合理だと責めてみても事は片付かない。
むしろそこには、現実の中で最も理想的な取合わせを示しているものをクローズアップし、顕称しようとする、それはそれできわめて積極的な思想があったのを、考慮する必要があるだろう。
少なくとも、「梅」と「鶯」の取合わせを愛(め)でる気持ちの中には、植物および鳥の世界において、春の到来を告げる最も美しく顕著な自然界の息吹は梅と鶯にある、という共通の認識があった。
梅はまずもってその芳香により、鶯はいうまでもなくその麗しい鳴き声により、遥か遠くからでも人々に「春」に出現の気配を実感させたのである。
香り高い梅から響く鶯の鳴き声は、まさしく春の言祝(ことほ)ぎ、すなわち寿(ことほ)ぎだった。梅に最もふさわしいものは鶯でなければならないとする美学が成立するには、そのような心の動きがあったにちがいない。
「目には青葉 山時鳥(やまほととぎす) 初鰹(はつがつお)」という山口素堂(そどう)の有名な句も、まったく同じ心から出ているのである。
人間と鳥の命の響き合い
山もとの鳥の声より明けそめて花もむらむら色ぞみえ行く 永福門院
ここの「花」の語は、古典和歌の常識からすれば桜の花を指す。
「鳥」はもちろんさまざまな鳥。
「むらむら」はまだらにという意味である。
山のふもとの鳥の合唱で夜が明けそめ、淡く射しはじめる朝の光を受けて、桜の花があちこちまだらに浮かびあがってくる情景を詠(よ)んでいるが、歌全体に運動感がある。
それは「明けそめて」「むらむら」「みえ行く」などの描写に動きがあるからで、こういう感覚は、今の私たちが朝の鳥や花に接するときの感覚と何の違いもない。
鎌倉末期を代表する女流歌人であり、伏見天皇中宮として宮中奥深くに起居していた永福門院のような閨秀(けいしゅう)歌人が、こいう印象鮮明な歌を作っていたところに、何ともいえない面白みがある。
鳥籠はしづ枝にかけて永き日を桃の花かずかぞへてぞ見る 山川登美子
「しづ枝」は下枝。
春の日永に、鳥籠を下枝にかけ、その桃の木の花の一つ一つをゆっくり数えてすごすというのだ。
艶麗(えんれい)ともいえるがまた、不思議に淋しい。
かげりのある倦怠(けんたい)の気も漂う。
山川登美子は与謝野鉄幹の弟子で、「新詩社」初期を彩る女流歌人だった。
のちに鉄幹の妻となる鳳晶子(ほうしょうこ)とともに鉄幹を慕ったが、恋を晶子に譲って他に嫁(とつ)いでいった。
しかもまもなく病を得て、三十歳で早逝(そうせい)した薄幸の人である。
そういうことを知ってこの歌を読むと、一層哀れ深いものがある。
鶯の啼くや小さき口あいて 蕪村
鶯という鳥をめぐる歌や句の中で異色の作である。
古来鳥といえばまず鳴き声だったことは言うまでもないが、その場合、鳥の姿そのものが詠まれることはまずなかった。
「憂き身にてきくも惜しきは鶯の霞(かすみ)にむせぶあけぼのの声」という西行の歌が示しているように、鶯の声はあちらの方から響いてくる時とりわけ懐かしく、いかにも春らしいものだったのである。
蕪村はその伝統を、「啼くや小さき口あいて」と言いとめることによって一新したのである。
それはあたかも芭蕉が、古来鳴き声を愛でるものだった蛙の扱いを、一跳び古池へ跳びこませることによって一新したのに似ている。
それどころか、蕪村の句は「小さき口あいて」啼く鶯には、思いなしか、可憐(かれん)な女人の姿さえもほうふつさせるところがある。
いずれにしても、私たちは鳥を歌うとき、いやおうなしに、命の躍動を歌い、つまりは人間と鳥の命の響き合いを歌ってしまうのである。 私の父は1981年秋に没したが、晩年十年間ほどのあいだに詠んだ歌は未刊のまま残された。
私はそれらを編集して、一周忌の時遺歌集として刊行した。
題名を『春の鶯』(花神社)という。
父は生前、鳥を歌うことがしばしばあった。
野鳥の名もよく知っていた。
晩年は病勝ちとなったため、鳥の歌も、飼っているチャボや庭に来る小鳥など、身近な鳥を歌うことが多くなったが、その扱い方には時に強い現実批判の裏うちがあった。
たとえば次のような歌。
「野の鳥」と題する一連にある。 椋鳥(むくどり)が庭にきてゐる現実を正眼に視(み)よと言ひて憐れむ 大岡 博
人間の秩序破壊をふせぎえぬ野の鳥どもの庭に虫あさる
青虫などもすくなくなりし郊外か芝生にせせり椋鳥(むく)余念なし
父の頭の中に比較的多いのは、高い空をゆく鷺を仰ぎ見てうたった歌がある。
書名ともなった「春の鷺」という一連には、次のような作があって、私には最晩年の父の心境そのもののように思われさえすることがある。 高々と没(い)り日をさしてゆく鷺のひたすらに翔(と)ぶ茜(あかね)に染みて 大岡 博
呼びかはす声もきこえぬ鷺どもか影ひそやかに翼搏(う)ちつづく
大らかに翼伸びやかに翔ぶ鷺のまこと静かに没り日をめざす
(『野鳥の歳時記1 春の鳥』日本鳥類保護連盟監修 小学館 昭和59年)