2021年2月8日月曜日

冷たい風

曇り空で運転しているとパラパラと雨が降り出した…。
予報では曇りだったのになぁと傘をさして歩き出しましたが、
すぐに止みました。
日がさすと一枚脱ごうかと思うほどだったけど
冷たい風が吹いたりすると寒くなる…
今朝の「たなくじ」は「鳥の鳴き声を聞くと吉」と出ました!
公園に着くとすぐにデーデー ポッポーと鳴き声が聞こえてきました♪
ちなみに「こどもようおみくじ!たぬくじ」は「大吉130%」でしたヽ(^。^)ノ
Dr.CatさんのTwitterに

オペ室のフロントデスクに↓が貼ってあって、かわいくていつもついつい立ち止まってしまう。
マスクの着用の仕方をイラストにしている。可愛いですよ(^^)v)

このポスターが好きすぎて昨年のクリスマスクッキーはマスク猫でした
 小野昌弘さんのTwitterに

従来株の感染では南アフリカ変異株の感染は防げない様子が再感染の調査からも明らかになってきている。
従来株で抗体ができていても南ア変異株には感染してしまう
(従来株に感染しコロナに対する抗体ができている人も、抗体がない人と同様の割合で、南ア変異株による中等症・重症のコロナを発症した)


インフルエンザのワクチンをしても型が違えば発症するのと同じだと思います。
 岸見一郎さんのTwitterに

リーダーが変われば立ち行かなくなるような組織は、組織のあり方に問題がある。

老いと人間としての賢さは関係がない。

岩田健太郎さんのTwitterに

我らがリーダーもかくあるべし。

米大統領 東京五輪「科学に基づくべき」〟(日テレNEWS24)
組織委員会会長の発言を聞きながら思い出したのが『維摩経』。
その中から「天女」の後半を転記したいと思います。
引用する本はチベット版からの訳なのですが、
サンスクリット版からの訳を植木雅俊さんが出しておられます。
文庫本で手に入りやすいです。
後日、植木さんの本から解説を転記したいと思っています。
維摩経 六 天女
(前略)
 天女と花

(七) そのとき、この家にひとりの天女がいた。
これらの菩薩大士の説法を聞き、喜び満足して心も奪われ、自分の実際の身体をあらわして、天の花をこれらの大菩薩、大声聞たちの上にふりかけた。
すると、菩薩たちの身体にふりかかった花は地に落ちたが、大声聞たちの身体にふりかかった花は、そこにくっついて地面には落ちない。
大声聞たちは神通力をふりしぼってこの花を振り落とそうとするが落ちようとはしない。
(『大乗仏典 7巻 維摩経 首楞厳三昧経』長尾雅人、丹治昭義訳 中央公論社 昭和49年)
(八) そこで、その天女が長老シャーリプトラに言った、「大徳よ、この花を振り落としてなんになさるのですか」。
答えて言う、「天女よ、これらの花(で飾ること)は、(出家の身には)ふさわしくないことですから、取り去ろうとするのです」
 天女が言う。
「大徳よ、そのようなことをおっしゃってはなりません。
なぜかといえば、この花は法にかなったものです。
その理由は、この花のほうでは考えたり分別したりしないのに、長老シャーリプトラこそが、思慮し分別しているからです。
大徳よ、出家して善説の法と律とのなかにありながら、思慮し分別するならば、それこそ法にかなわないことなのです。
長老は(法や律について)はからいをめぐらし分別していますが、思いはからうことのないことこそが正しいのです。

(シャーリプトラ 舎利弗<しゃりほつ>
 大徳よ、ごらんなさい。
思慮や分別を離れていればこそ、これらの菩薩大士の身体には花が付着しないのです。
たとえば、恐怖をいだいている人ならば、そのすきを悪霊(あくりょう)がねらうでもありましょう。
それと同様に、生死輪廻の恐怖におののく人に対しては、色や声や香りや味や触れ合うことが、そのすきにつけ入ってくるのです。
もし形成された諸存在への煩悩に対するおそれを去った人ならば、その人に対して、色や声や香りや味や触れ合うこと(という五欲)が、何をなしうるでしょうか。
(愛着によって)熏(くん)じつけられた習慣(熏習<くんじゅう>)をいまだ断ち切れない人には、花が付着しますが、それを断っている人の身体には付着しません。
ですから、熏習をすべて断っている(菩薩たちの)身体には花が付着しないのです」
  さとりの長さ

(九) そこで、長老シャーリプトラは、この天女に尋ねた。
「天女よ、あなたがこの家にきてから、どれだけの時間がたちますか」
 天女が答える。「長老(あなた)がおさとりになってからと同じだけです」
 また問う。「天女よ、あなたがこの家にきてから、もちろん長くはたたないでしょう」
 答える。「長老がさとりにはいられてから、どれだけたったのですか」
 そこで、長老(シャーリプトラ)は、一言も言うことができなくなった。
 (天女が)言う。「知恵第一のかたでいらっしゃる長老が、どうしてお答えにならないのですか。いまはあなたの番なのに、質問にお答えになりませんね」
 答える「天女よ、解脱(さとり)とはことばであらわせないものです。それをどう言ってよいのか、わかりません」
 言う。「長老が文字に表現なさるならば、それがすべて解脱のなのです。
なぜかといえば、およそ解脱というものは内にもなく外にもなく、またその両者を離れても認められません。それと同じく、この文字は内にもなく外にもなく、その両者以外にも認められません。
ですから、大徳よ、文字を離れて解脱を説いてはいけません。
なんとなれば、あらゆる法の平等なところに、聖者の解脱があるからです」
  また問う。「天女よ、愛欲と怒りと愚かさとを離れるからこそ、解脱があるのではありませんか」
 天女が答える。「愛欲と怒りと愚かさとを離れて解脱するというのは、慢心のある者に対して説かれたのです。
慢心のない者においては、愛欲と怒りと愚かさとの本性が、そのまま解脱なのです」
(一〇) そのとき、長老シャーリプトラは言った。
「たいへん結構です。天女よ、いったい、何を知り何をさとって、あなたはそのような弁才が生まれたのですか」
 答える。「大徳よ、私は何も知ったのではなく、さとったのでもありません。ですから、この弁才が私にはあるのです。自分で何かを知り、さとったと思う者は、この善説の法と律において慢心がある者といわれるのです」
(一一) 問う。「天女よ、あなたは声聞乗に属するのですか、それとも独覚乗に属するのですか、大乗に属するのですか」
 答える。「私は声聞乗を説きますから、声聞乗の者です。十二支縁起の門から進みますから、独覚乗の者です。大悲心を失うことがないから、大乗の者でもあります。
(一二) しかし、それにもかかわらず、大徳よ、たとえば、チャンパカの森にはいるとエランダの悪臭をかぐことはなく、チャンパカのよい香りだけをかぎます。
それと同じく、大徳よ、この家に住んでいると、仏法の功徳の香りがあるので、声聞や独覚のにおいをかくごとはありません。
大徳よ、この家に住んでいるインドラ神、ブラフマー神、護世の神々、天、龍、ヤクシャ、ガンダルヴァ、アスラ、ガルダ、キンナラ、マホーラガなどは、すべてこの家の高貴な人の法を聞いておりますから、仏法の功徳の香りによって進んで菩提心を起します。
大徳よ、私はこの家に十二年おりますが、大慈、大悲、および不可思議な仏法にかんした説法は聞いても、声聞や独覚にかんする説法はいまだかつて聞いていません。
愛欲と怒りと愚かさ 「愛欲」(貪欲)・「怒り」(瞋恚<しんい>)・「愚かさ」(愚痴)の三毒の煩悩は、修行者が断ち切るべき根本的な悪と考えられている。

十二支縁起 「縁起」は「縁(よ)りて起こる」と読み、「相対的に存在すること」を意味する。仏教の根本的な考え方として、世界の「相待性」を説くこの縁起の理念は、最も簡潔に「これあればかれあり、これ生ずればかれ生ず」等の四句をもって表現され、それがやがて「十二支縁起(十二因縁)」などによる体系化が与えられる。
「十二支の縁起」は「無明によって行あり」にはじまり、漸次同様に、識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死の十二支が、因果系列的に列挙される縁起観。
 八つの奇蹟

(一三) 大徳シャーリプトラ(舎利弗<しゃりほつ>)よ、この家はいつも間断なく、八つのふつうには見られない不思議な性質をあらわしています。
その八つとは何かといえば、間断なく金色の光がこの家にあるので、夜と昼との区別もなく、日も月もここにはあらわれません。
これが不思議な性質の第一です。
 さらにまた、大徳よ、およそこの家にきた者は、家にはいるやいなや、煩悩にわずらわされなくなります。
これが不思議の第二です。
 また、大徳よ、この家にはいつもインドラ神、ブラフマー神、護世神、いっさいの仏国土から集まった菩薩がいて立ち去ることがありません。
これが不思議の第三です。
 また、大徳よ、この家ではつねに法の声が聞かれ、それは六種のパーラミターを中心とし説法、不退転の法輪の説法を欠くことがありません。
これが不思議の第四です。
 さらに、大徳よ、この家ではいつも鼓や歌が音楽が神々や人々によって奏せられ、そのなかからは無量の仏法を実現する声がいつも聞こえます。
これが不思議の第五です。
 大徳よ、この家にはまた、あらゆる宝で充満した四つの大きな無尽の蔵があります。
困窮している人々すべて(に施与され、彼ら)によって運び去られても、その威力によってそれは尽きることがありません。
これが不思議の第六です。
 また、大徳よ、この高貴な人が願うやいなや、〝シャーキャ族の賢者(釈迦牟尼<しゃかむに>)〟、〝無限の光(無辺光)〟、〝動乱せられない(不動)〟、〝宝のめでたさ(宝吉祥<ほうきっしょう>)〟、〝宝の光明(宝焔)〟、〝宝のような月(宝月)〟、〝宝で飾られた(宝厳)〟、〝並ぶ者なき(難勝)〟、〝あらゆる願いがかなった(一切義成就)〟、〝多くの宝のある(多宝)〟、〝獅子吼)〟、〝獅子のような声のある(獅子声)〟という諸如来をはじめてとして十方の無量の如来が、この家においでになり、そして、如来の秘密とよばれる法門にはいることを説いてから帰られます。
これが不思議の第七です。
 また、大徳よ、この家には、あらゆる神々の宮殿の光輝と、仏国土の功徳のあらゆる光輝とがあらわれます。
これが不思議の第八です。
 大徳シャーリプトラよ、この家にはふつうの性質とは異なった、これらの八つの不思議な性質があらわれます。
このような不可思議な性質を見たならば、だれが声聞の法を願うでありましょうか」
(『大乗仏典 7 維摩経 首楞厳三昧経』長尾雅人、丹治昭義訳 中央公論社 昭和49年)

続く
今朝の父の一枚です(^^)v
アトリが群がってアキニレの実を食べていました。
上から食べかすが降ってきます(^-^;