2021年2月5日金曜日

穏やかな朝

昨日は、午後から風が冷たかった。
関東で「春一番」 1951年の統計開始以来最も早い発表〟(NHK 2月4日) 

今朝は、穏やかないい天気でした(*´▽`*)
お日様に手を合わせている方を何人か見ました。

5日 近畿各地晴れ間みられる」(えりの気象日記 2月4日)
2月5日
 尾崎行雄(おざきゆきお)が桂(かつら)内閣を弾劾する演説を行った。 1913(大正2)年

 首相桂太郎(たろう)の態度があまりにも横柄(おうへい)だったので、議員の尾崎行雄は思わずカッとなって、準備していた文句を忘れてしまった。
そこでかれは思い切り威勢のいい演説をすることにした。
今日はいつもの議会とはちがう。
桂の軍閥(ぐんばつ)・長州閥(ちょうしゅうばつ)本位の強引なやり方に腹を立てた民衆が議事堂をかこみ、口々に「桂内閣を倒せ」「憲法を守れ」と叫んでいるのだ。
あなた方は口では忠君愛国というけれど、実際は、天皇の威光に隠れて政敵を倒そうとしているのだ、と叫んで尾崎は桂につめよった。
桂の顔はまっ青(さお)だった。
5日後、ついに桂は総辞職を決意した。
これが大正デモクラシーの出発点であった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
安田菜津紀さんのTwitterに

森喜朗氏の会見、記者の質問を遮るように発言したり、開き直るような態度をとったり、
「いくつか発言します」という記者に「一つにして」と注文をつけたりしながら、
「女性がたくさん入っている会議は時間かかる」発言について問われ
「最近女性の話聴きませんから分かりません」と。
さらに後退。

会見時間は20分ほど。
内容としても「謝罪会見」というより「ひとまず"謝罪会見"をしたという形を作る」ためのもの、という印象。
本質は全く伴っていなかったと思う。

単なる「撤回」は「幕引き」ではありません。
発言の何が問題で、繰り返さないために何をしていくのか、具体的に示さなければただうやむやになるだけ。


森喜朗会長の発言にカナダのIOC委員「追い詰めます、絶対に」〟(湊彬子 HUFFPOST 2月4日)

ヘイリー・ウィッケンハイザーさんのTwitter。
 望月衣塑子さんのTwitterに

あれだけ総務省の役人たちを徹底的にいじめ、改革を迫っていた人間が、
東北新社がCSチャンネルを持っていたかどうかも「知らない」とは。
およそ信じ難い。
東北新社になぜ菅首相の長男が大臣秘書官から転職できたのか。
なぜ、事務次官候補らへの高額接待を彼が担ったのか。さらに追及する必要ある

森氏や菅氏のような方もいると思えば、ご高齢でも尊敬される方はいくらでもおられます。

岩田健太郎さんのTwitterに

そう、高齢者は尊敬すべき対象であり、そうあるべきなのです。
かつて日本もそうだったはず。


庭を100周歩き医療支援募った100歳男性へ 国を挙げ追悼の拍手」(NHK 2月4日)
リハビリ散歩を早めに終えて、歯科へ向かいました(10時診察)。
待合室で読んでいたのが『アンソロジー カラーライス!! 大盛り
各界のみなさんがカレーライス(ライスカレー)にまつわる話を書いていて
懐かしいなことやへ~ェと思うようなことが満載です(*´▽`*)
その中から一つ転記しますφ(..)
  インド人もびっくり   赤瀬川原平

 今日の夕食はカレーライスだった。
自宅のカレーライスである。
 最近は外であまりカレーライスを食べたことがない。
レストランで何か食べようとメニューを見ながら、カレーライスはいつも除外される。
カレーなんていつでも食べられるではないか、と思うのである。
せっかく外で何か食べるんだから、もっと何かちゃんとしたものを食べようと思うのである。
(『アンソロジー カレーライス!!大盛り』杉田淳子編集 ちくま文庫 2018年)
 ちゃんとしもの。
 カレーライスというのは可哀相だ。
ちゃんとしてないみたいに思われているのだから。
 本当はそうではない。
カレーライスはもっとも安全な食品なのである。
麻雀でいうと安全パイだ。
はじめてのレストランで様子のわからぬときにカレーライスを注文すれば、そう大きくはずれる、つまりそれほどマズイということはないものである。
メニューを見ながら何にしようかと迷って決断のつかぬときは、カレーライスにしておくのがまず無難であり、間違いがない。
 というところがカレーライスの悲哀なのだった。
間違いがないものだから、まず最初に除外される。
いつでも食べられるんだから、何もいま食べることはない、と思われてしまうのである。
ああ可哀相なカレーライス。
 で今日の夕食はカレーライスだった。
自宅のカレーライスというのはある安定した間隔をもって食卓にのぼる。
十日に一回とか、月に一回とか。
 これも安全パイだからこそそうなるのであるが、自宅のカレーライスの場合はそういう食べられ方が自然であり、そこが外でのカレーライスと違うところだ。
 味も違う。
味はもちろんレストランによっても違うのだけど、うちには子供がいるのだ。
こんど中学1年生。
もう大人に近いのだけど、やはり電車に乗るときはまだ子供料金であり、カレーライスはあまり辛いのが食べられない。
これが問題である。
子供のうちにあまり辛いのを食べるとバカになるというが、あれは本当に正しい理論なのだろうか。
 私は前述のように外食であまりカレーライスを選ばないので、それを食べるときはだいたい自宅ということになる。
ところが子供がいるので、ピリッと辛いのを食べることができない。
このことを考えるだけでも、子供というのは早く大人になって家を出ていくべきである。
家の中でいつまでも甘いカレーライスを食べていていいのか。
 まだ中学の1年生だからやむを得ないが、しかしあと3年ぐらいガマンして、高校ぐらいになればピリッと辛いカレーライスにしたいと思う。
もう高校になれば脳ミソも固まって、新たにバカになるということもできないだろう。
 しかし私の子供のころは、カレーライスといえばピリピリと辛かった。
その辛さはもう逃げられぬものだと思い諦め、食卓には必ずコップに水を用意して、その冷たさで口の中をなだめながらフーフーと熱いの頬張っていた。
それが本当のカレーライスというものではなかったのか。
 なんて正義を叫ぼうというわけではないのだけど、今日の夕食はカレーライスだった。
ひとつ不思議なのは、ジャガ芋が入ってないことである。
トロリと溶けたルウの中に、肉や人参や玉ねぎといったものは散見するが、期待のジャガ芋というものが見当らない。
 これはニョーボーの作品である。
ニョーボーはジャガ芋が好きではない。
しかし自分が嫌いだからといってジャガ芋をカレーに入れないということが許されていいものだろうか。
 というような家庭料理に対する不満は、全国のご家庭の男女諸君も互いに持ちつ持たれつしていることだろう。
 かくいう私はジャガ芋、とりわけカレーライスの中のジャガ芋が好きなのだ。
ここに家庭悲劇の発生する毒の種が、あのジャガ芋の芽のように埋め込まれているのであるが、あれは青酸が含まれているので必ず包丁の角のところでグリッと抉り取っておく必要がある。
 いや、そのあたりの常識問題はともかく、カレーライスの中のジャガ芋の好きな人は、やはり戦後の食糧難を生き抜いてきた人々だろう。
ジャガ芋の味もさることながら、あのゴロリとしたボリュームが何とも心強く感じられるのだ。
 それと同じ原理なのか、あのころのカレーライスにはごってりとメリケン粉が入っていた。
最近ではシャブシャブ状でライスの中にしみ通るほどの水っぽいカレールウがナウイというか、ポストモダンというか、ハウスマヌカンというか、何だか信奉されているみたいだけど、まあそれもいいだろう。
でも昔のカレーライスというのは粘土みたいに固かったのだ。
 これは誇張ではなく、半分残したカレールウを明くる日鍋の蓋を取ってみると、もう糊(のり)というか味噌というか、酷(むご)いときは全体が玄米パンみたいな固まりになっていたものである。
それほどメリケン粉が混入してほとんどそれが本体となっており、そのことが豊かさの象徴とされた。
 とにかくお腹いっぱいという第一目的は絶対に外すことはできなかったのである。
 そして辛かった。
いまみたいにバーモントカレーとかいろいろ加工されて、しかも辛さの表示1とか2とかあるのを選べるわけではなくて、すべてを素材から調理した上で缶入りのカレー粉をどどっと入れるのである。
せっかくカレーライスを食べるのに辛くしないという理由がなかった。
つまり家庭でカレーライスを食べるというときには何か意気込みがあり、それは祝祭であったのである。
 まったく日本人というのは、異文化を引き入れて神に祭り上げるのがうまい。
 前に新幹線に乗ってカレーライスを食べたことがあった。
ビュッフェに行ったら混んでいたのでカレーライスを注文した。
そうでなくても新幹線のビュッフェに行くと、これはもう忙しいんだからカレーライスでもいいのだと自然に思う。
それが臨時的な場所のレストランだからだろうか。
だからといって注文されるカレーライスの立場がまた可哀相なのではあるが、しかしその場所でのカレーライスは、気持のムリなく注文できる。
 でカレーライスを頼んで、そういう場所だから当然混んでいてテーブルは相席だけど、頼んでやれやれとホッとして前を見ると、テーブルの向いはインド人がいたのだ。
 このときは恥ずかしかったね。
しまった、と思った。
別に悪いことはしていないのだけど、消え入りたいくらいだった。
片足のない人の前で、
「足……」
 と言ってしまったようなものなのである。
やがてカレーライスが運ばれてきて、私はふつうにスプーンで掬(すく)いながら食べたのだけど、何だか顔が真っ赤になった。
カレーライスが足みたいに喉につっかえてしまう。
それをとにかく急いで飲み込みながら、向かいのインド人の顔はとても見られなかった。
だからそのインド人が私のカレーライスの、とくにラッキョ―と福神漬を見ていたかどうか、それはわからない。
まったく自意識過剰の話ではあるが。
  (『少年と空腹 貧乏食の自叙伝』中公文庫)

(『アンソロジー カレーライス!!大盛り』杉田淳子編集 ちくま文庫 2018年)