挨拶をする方と「暖かいですね」と声をかけ合いました。
あせびの花が開きだしました。
「10日 寒さ緩む ほっとできそう」(えりの気象日記 2月9日)あせび
アシビともいい、馬酔木と書く。
馬が食べると麻痺するからであるというが、有毒であることは確かである。
本州、四国、九州の暖かい地方の乾いた山腹に生えるツツジ科の常緑性の低木で、高さは2.5メートル前後である。
やや先太りの、縁に細かいギザギザのある5センチほどの葉がとくに新枝に密生する。
花は白色のつぼみ状で、大きな総状に垂れ下がる。
花の長さは6~8ミリ、先がわずかに五裂し、10本の雄しべがある。
つぼ状の花は、ツツジ科の特徴である。
材は褐色でかたく、櫛や細工物の材料とし、太い樹幹はそのまま床柱に用いることもある。
(『四季の博物誌』荒垣秀雄編 朝日文庫 1988年)
ほとんど涸れていた沢の水量が増し、水音が耳に入るようになると、トウキョウサンショウウオの三日月型の寒天質に包まれた卵塊の中で幼胚がそれとわかるほどに育っている。
卵のかえるのも間近いころ、房総丘陵をたどって行くとしきりとアセビの甘く強い香りがする。
アセビは乾いたところに生えるが、樹林下の低木として生えるので、とくに乾いたところを好んで生えるという印象は与えない。
関東地方でも珍しい木ではなく、近畿以西ではごく普通に見られる。
庭木としても一般的で、京都八坂神社にはたくさん植え込まれている。
しかし奈良春日神社のものは自生と考えられる。
有毒なのでシカに食い残されたこともあろう。
いずれにしてもアセビは他感作用(有毒物質で他の植物の生育を抑える作用)によって林床には他の植物が生えにくくなる。 東日本にはそう多くない。
一応、北は宮城県と岩手県の境まで分布圏を伸ばしているが、福島県の浜街道に点在するほか、房総半島、秩父山地に多く見られるが、関東一円ではさして多くはない。
日本海側では能登半島、佐渡島まで点在している。
関西ではごくふつうに見られるので、春早く咲く花木として、万葉の昔から幾多の詩歌に詠みこまれ、民間伝承の中にも語り伝えられてきた。
アセビの花盛りのころがイノシシの交尾期であるという意味の伝承が紀伊半島の各地で聞かれる。
ウマが麻痺するほどの毒の正体は、この葉の苦味のもとにもなっているアセボトキシンとアンドロメトドキシンで、その毒作用は呼吸中枢の麻痺である。
これらの毒素と他感作用物質との関係は十分明らかにされていないが、薬の浸出液には他感作用がある。
この毒性を利用して、以前は葉や茎を煎じて、家畜の虫除け、農作物の殺虫剤として用いたこともあった。
(西田 誠)
(『四季の博物誌』荒垣秀雄編 朝日文庫 1988年)
なかのとおるさんのTwitterに
基準が満たされたのに解除にならなかったというのは、基準が甘すぎたという以外の解釈はありえませんわな。
「大阪モデル」と命名されていますが、和歌山モデルの科学的、疫学的モデルと違う。
迷走モデルだと思います。
〝大阪府、宣言解除要請見送りへ 幹部「ちょっと迷走中」〟(朝日新聞)
「感染症法の基本に忠実に、論理的に決断」仁坂吉伸和歌山県知事「WHO 武漢調査チーム帰国へ 米政府“調査結果 検討”」(NHK)
アメリカのバイデン政権は、中国政府のウイルスに関する情報公開について、透明性が足りないなどと批判
1年以上たっての調査では、真実は分らないと思ってしまう。
「中国、ミャンマーに一部のコロナワクチンを無償供与へ」(ロイター 1月12日)
中国は、ミャンマーをワクチン外交で取り込もうとしているんだなと思っていたけど
「安保理 スー・チー氏解放で声明も クーデター非難盛り込まれず」(NHK 2月5日)
中国とミャンマー軍との間に密約があったのだろなと勘ぐってしまう。『維摩経』の「天女」の章を転記しましたが、植木雅俊さんの本より、「解説」を転記しますφ(..)
チベット版からの現代語訳を紹介しましたが、植木さんはサンスクリット版からの現代語訳です。
また、各章ごとに註釈と解説が載っているのでおすすめの本です。
現代語訳は天女が登場する後半部分から転記しましたが、解説は前半部分も紹介します。
後半部分は後日転記しますφ(..)第六章 天女(観衆生品第七)
【解説】
本章のタイトルは、貝葉(ばいよう)写本でも、チベット語訳でも「天女」となっている。
これは、本章の後半部に天女が登場することからの命名である。
ところが、漢訳ではいずれも本章の冒頭で「衆生」(有情<うじょう>)をどのように観るかということが話題になっていることから、「観人物品」(支謙訳)、「観衆生品」(鳩摩羅什訳)、「観有情品」(玄奘訳)となっている。
これは、男尊女卑の著しい儒教倫理の中国社会にあって、智慧第一の男性出家者シャーリプトラをやりこめる「天女」を章の名前とすることに抵抗があったからであろうか?
(『サンスクリット版全訳 維摩経 現代語訳』植木雅俊 角川ソフィア文庫 2019年)
第一章では「衆生こそがブッダの国土」と語られ、第四章では「菩薩は、衆生に病があることによって病になり、衆生に病がないことによって無病となる」とあった。
『維摩経』では、衆生が重要なテーマになっているといえよう。
§1でその衆生を菩薩がどのように観るべきかというマンジュシリーの問いに対して、ヴィマラキールティが答えを述べている。
それは、衆生を実体のない「空(くう)」と観るべきだと言うのだ。
その譬(たと)えとして、
①反響(こだま)の音響、
②雲の塊り、
③水の泡、
④芭蕉(バナナ)の幹の芯(しん)、
⑤稲光(いなびかり)の閃光の永続性、
⑥四大元素以外の第五の元素、
⑦第七の感覚器官、
⑧無色界(むしきかい)における色(いろ)・形(かたち)、
⑨焼かれた種子の発芽、
⑩亀の毛で作った衣服、
⑪虚空中(こくうちゅう)の鳥の足跡、
⑫点(つ)けられていない火の出現……など、
はかないもの、あるはずのないものを列挙し、衆生をそれらのように観るべきだという。
こんなに多くの例を並べられると、衆生が否定的に見なされているのではないかと思えてくる。
ところが、§2を読むとその懸念は吹っ飛んでしまう。 マンジュシリーも同様の疑問を抱いたのであろう。
衆生をそのように見なして、一切衆生に対する大いなる慈しみ(大慈)はどのようにあり得るのかと尋ねた。
ヴィマラキールティは、衆生を「空」と見なして、実体視しないからこそ、衆生の個人個人に執着することなく平等に見ることができると答える。
だからこそ、
①真実の慈しみ、
②寂滅した慈しみ、
③あるがままの慈しみ、
④対立のない慈しみ、
⑤不二(ふに)の慈しみ、
⑥確固とした慈しみ、
⑦堅固な慈しみ、
⑧清らかな慈しみ、
⑨平等な慈しみ、
⑩疲れることのない慈しみ、
⑪私欲を超越した法を布施する慈しみ、
⑫偽善のない慈しみ、
⑬偽りのない慈しみ、
⑭高潔なる心の慈しみ、
⑮狡猾(こうかつ)さのない慈しみ、
⑯安楽の慈しみ……を生ずることになる。
これが菩薩にとっての大いなる慈しみ(慈)だと説いた。
それに続けて、大いなる憐れみ(悲)、大いなる喜び(喜)、偏見・差別を捨てて他者を平等に利すること(捨<しゃ>)に言及して、慈・悲・喜・捨の四無量心が完結する。 「菩薩は、衆生をどのように観るべきか」という問いに続き、マンジュシリーの質問に答えて、「六道輪廻の恐怖にとらわれた菩薩の心得るべきこと」が語られる。
それは、「ブッダの偉大なる精神」を自らの心として、「一切衆生の平等性」に立ち、一切衆生を解脱させ、煩悩から解放(解脱)するために正しく念いを傾注して、「悪が生じないで、善が滅しない」ようにするべきだと説いた。
その「善と悪」がどのように生ずるかと言えば、あらゆるものごと(諸法)には「依って立つ根拠がない」にもかかわらず、何かがあるかのように「倒錯(とうさく)した意識」を抱き、「虚妄(こもう)な分別」をなし、「欲望と貪り」、さらには「依存している身体」にとらわれて、「善と悪」を生じているという、従って、根拠のないものを妄想分別して恐怖にとらわれてはいけないと説いた。
(『サンスクリット版全訳 維摩経 現代語訳』植木雅俊 角川ソフィア文庫 2019年)
続く