暑かったですが、時々、気持ちのいい風が吹いてくれました(^^)v
今朝の番組で多くの人に見てほしいなと思ったのが
こころの時代~宗教・人生~「武器ではなく一冊の本を」
マララ・ユスフザイが出演されていました。
録画を一緒に見ていた父が、マララさんの演説を見ながら
原稿をほとんど見ずに自信をもって語りかけている姿。
その力強い言葉に感銘を受けていました。
一方、それに比べて原稿を見てばかりで、
それでも読み間違う日本の首相のことを嘆いていました。
(父は、自●党支持者です(^_-)-☆)
日本の首相が最後の方で映りますが
G20に期待していたマララさんの評価は、的を得ています。
再放送はEテレで7月13日(土)午後1時00分~
七月七日は七夕に小暑に…といろいろある日(*´▽`*)
年号が「令和」と決定した時に
「日本独自」という言葉が飛び交ったけど
中国の伝統・文化を抜きにして日本の文化は成り立たないですよね。
漢字はもちろん、
漢字を変化させてつくりあげた「ひらがな・カタカナ」
日本独自の文字はないのですから…
七夕について『有識故実大辞典』より転記しますφ(..)
なお、漢文の返り点などは、表示がうまくできないので省略します。
たなばた 七夕
七月七日に行われる星祭の行事。
「しちせき」とも訓む。
「七月七日、為牽牛・織女聚会之夜」(『荊楚歳時記』)とあるように、
古代中国では牽牛は Aquila(鷲座)の Altaor'
織女は Lyra(琴座)の Vega をいい、
この両星を擬人化し、
一年に一度七月七日の夜天の川を渡って逢う瀬を楽しむとされた。
この伝説と乞巧奠(きこうでん)の行事が中国から輸入され、
わが国古代の棚機女(たなばたつめ)に関する信仰と習合されたとみられる。
(『有識故実大辞典』鈴木敬三編 吉川弘文館 平成7年)
棚機女とは棚の機中にいる女の意で、
村の神女の中から選り出されて神の嫁となる処女が、
棚作りの建物に住んで神の訪れを待ち、
来るべき神のために機を構えて布を織るという。
これを棚機女・弟棚機(おとたなばた)といった(折口信夫)。
「たなばた」は『源氏物語』ではすべて棚機つ女・棚機姫、
つまり織女星の意に使われている。
七月七日は令(りょう)に定めた節日の一つで、
古来の神祭の日として天皇相撲御覧と
文人による七夕の賦詩の宴が行われたが、
平安時代になり平城天皇の国忌により
相撲の儀は変更され行事は分化し、
星合・乞巧奠が盛んになった。
古代中国では七は陽数であり、その重なる日に意義を認めた。
牽牛星はもと農業生活を主とした上代漢民族の間で重視された。
中国古典では天の川を渡るのに橋を用いるが、
わが国の和歌では船とすることが多く、
それも川というよりも海を渡るような意識が強いのは、
天上を海と観ずる習慣からとみられる。
また中国では織女が牽牛のもとを訪れる(父系家族制)のに対し、
わが国では牽牛が織女のもとに通う(妻問婚)という形をとり、
大陸文化の国風化がみられる。
『万葉集』には二星会合の歌が多い。
藤原教通は長和4年(1015)七月七日の夜
二星の会合を見たとしてその様子を藤原道長に語り、
道長は「近代未聞也、感懐不少」(『御堂関白記』)と記している。
16光年と26光年と遠く離れた星々が
一夜のうちに動いて川を渡ることはありえないが、
瞬き交わす清澄な光に浪漫的な天上への憧憬を見出したのであろう。
銀河系宇宙である千億個の星の集団を横に見通した天の川や、
二星が会するとき鵲(かささぎ)が翼を並べて
天の川に渡すという想像上の「鵲の橋」も和歌に登場する。
南北朝時代のころから七遊といい、
七百首の詩歌、七調子の管絃、七十韻の連句・連歌、
七百の毬、七献の酒など、七の数に掛けた各種の遊びも行われた。
江戸幕府では諸大名が七夕の祝儀として使者をもって鯖代を献上する。
江戸時代には五節供の一つとして広く一般にも行われ、
和歌や願い事を書いた五色の短冊・色紙、切紙細工を
笹竹につけて家ごとに掲げる楽しい祭となった。
また、この日邪気を払うために
索餅(さくべい)・冷素麺を食べることも行われた。
なお遊里では七夕の故事から、
きわめてまれにしか来ない客のことを七夕客といった。
(『有識故実大辞典』鈴木敬三編 吉川弘文館 平成7年)
きこうでん 乞巧奠
「きっこうでん」「きっこうてん」ともよみ、乞巧ともいう。
織女は手芸に巧みであるとされるところから、
婦女子が裁縫が巧みなるのを乞いねがう意。
奠は祭。
陰暦七月七日の夜に行われた年中行事。
『荊楚歳時記』にみえ、
唐の玄宗皇帝のころには盛んに行われた(『開元天宝遺事』)。
この行事が大陸から渡来し、
わが国古来の棚機津女(たなばたつめ)の祭と結びつき、
乞巧奠の儀として完成した。
(『有識故実大辞典』鈴木敬三編 吉川弘文館 平成7年)
宮中では当日掃部寮が清涼殿の東庭に葉薦、
その上に長筵をしき、その上に朱漆高机四脚を立て、
これらの机には梨・桃・大角豆・大豆・熟瓜・茄子・薄鮑(干鯛)などを供え、
蓮房を盛り、楸(ひさぎ)の葉一枚をおき、
金・銀の針各七本をさし、七つの孔に五色の糸をより合わせて貫く。
また琴柱(ことじ)を立てた箏の琴をのせ、
香炉に空薫(そらだき)を絶やさず、
机の四すみに近く黒塗りの燈台九本を立てて燈を点ずる(『江家次第』など)。
(ネコハエトリ♀ )
平安時代中期以降にはそれまでの主行事だった詩文を賦す儀が後退し、
乞巧奠、二星会合を観る行事が主となった。
(『有識故実大辞典』鈴木敬三編 吉川弘文館 平成7年)
巻第十(秋の雑歌) 2027
我(あ)がためと織女(たなばたつめ)のそのやどに織(お)る白(しろ)たへは織りてけむかも
私のためにと織女がその家で織る白い布はもう織り上げたろうか。
▽彦星の歌。
織女が彦星への思いのあまりに機織りを怠りがちなこと。
(『万葉集(三)』佐竹昭広他校注 岩波文庫 2014年 )
今朝の父の一枚です(^^)v
フヨウの花が咲きだしました。
一説には芙蓉は中国から渡来したそうです。