2019年7月24日水曜日

梅雨は明けたけど…

昨日の雨で葉っぱについた雨粒の重さに耐えられなかったようです。
梅雨があけたそうですが、
カラッとしてなくて蒸し暑かったです(;'∀')
各地真夏日 25日も熱中症注意
最近、謝罪会見などが報道されているようですが(見ていませんが)
ひどいときには「土下座」までしているのを見たことがあります。
じつは、土下座はみじめなことではなく
生活が自由闊達であったことを意味しているそうです。
宮本常一の『絵巻物に見る日本庶民生活誌』より転記しますφ(..)
土下座の生活
 民衆を点景として描いた絵巻物には
共通してしの明るさと天衣無縫さが見られる。
民衆は公家社会の秩序の外にあるものであり、
度はずれた無法でないかぎり、
そして公家社会の秩序を乱しさえしなければ、
どこで何をしてもよかったのである。
(『 絵巻物に見る日本庶民生活誌』宮本常一著 中公新書 1981年)
「年中行事絵巻」を見ると、宮廷の行事の行われているとき、
民衆は庭前の軒下にたむろし、
時には焚火をして話しあっている。
門を守る衛士たちも、
そうした民衆が宮廷の域内にはいることを
とがめだてはしなかったようである。
 (『年中行事絵巻10巻』18/23より一部 国立国会図書館
他の場面でも庶民の姿を見ることができます。)
江戸時代にはいって武士の勢力が強くなると、
民衆は武士の行列の折、
「下におろう」の掛声に土下座して這いつくばらねばならなくなるが、
もとは土下座しておりこそすれ、
這いつくばらねばならぬことはなかったのである。
 土下座というと、きわめてみじめな姿を想像するけれど、
どこでも坐るということは、
それほど生活が自由闊達であったといってよかったと思う。
身分の高い公家でないかぎり、
地下人(じげにん)といわれる者はほとんど大地の上に坐り、
また腰をおろしている。
京都付近は土質が砂壌土で、
土の上に坐っても着物がそれほどよごれなかったためかもしれないが、
大地にあぐらをかいてこそ人びとは
ある安心感を持つことができたのではなかろうか。
 そのような姿勢は伝統として京都地方に長く残ったいた。
今日、三条のあたりから加茂川に沿うて上流へ歩いてみると、
ベンチがほとんどおいてなく、
人びとはみな草のあるところに坐って休んでいる。
地面に坐ると空罐などもそこに捨てていくことは少なくて、
下加茂のあたりの河原を歩いても清潔感があふれている。
土下座をあたりまえと思う世界には
それなりのマナーがあったのである。
ベンチのおかれているところに
空罐の多く捨てられていることに私は興味をおぼえている。

 公家には公家の世界があり、
民衆には民衆の世界があった。
そしてお互いに相手の世界を
侵さないように努力していたのではなかろうか。
そうでないと、戦国時代のように
内乱が百年もつづいた時代の解釈がつかない。
一方では戦争を事としている武士がいる。
しかし一方には米粟を作っている農民がいる。
農民が戦争に巻き込まれていたら、
武士は戦争ができなかったはずである。
農民は武士のおどしだけで米粟を作っていたはずはない。
農民には農民の世界がありそれを守らねばならなかったから、
戦争の外側で食物を作っていたのであろう。
(「アシナガバエってどんな虫?」琵琶湖博物館)
 同様に商人たちは争乱の中でも行商を続けていた。
絵巻物の中の民衆を見ていて、
そうした古い社会のことが想像されてくるのである。
どうも民衆は縦の系列の中だけで生きてきたのではなくて、
むしろ横へのひろがりの中で
生きてきたのではなかったかという感を深くする。
しかも武装しないということで、
どこへでもはいりこんでゆくことができたのではなかろうか。
 築地塀はじょうぶに造られているけれども、
民衆はその中へことわりもなしにはいりこむこともできた。
宮廷の域内にはいっても、とがめだてられることはなかったのである。
「駒競(こまくらべ)行幸絵巻」には、
そうした無遠慮な民衆の姿がいたるところに描かれている。
なかには追い払われている者もあるが、
それはひやかしたり悪口雑言などの過ぎた人たちであろう。
うずくまって見ている者は追われてはいない。
そして、行列に参加する人と
見物人の区別のつかないまでに入り交じっている。
雑言を吐かなければ、
天皇の通るすぐそばにいて見物することもできたのである。
(「駒競行幸絵巻」和泉市久保惣記念美術館)
 そういうこだわりのなさが、日本人を物見高くしたのであろう。
「石山寺縁起」にしても「年中行事絵巻」にしても
「法然上人絵伝」にしても、
民衆の姿はのびのびと描かれている。
そして、宮廷に仕える人たちはそれぞれ
儀礼に定められた服装を身につけて無表情に行動しているけれど、
見物人の顔の表情は豊かである。
いちおう、烏帽子(えぼし)をかぶり、水干(すいかん)を着ているが、
浅沓(あさぐつ)をはいている者もあれば、
草鞋(わらじ)をはいている者もあり、裸足もある。
 女の中には赤い深沓(ふかぐつ)をはいている者もあり、
それは今日のブーツを思わせるモダンなものである。
赤子を抱いている女もいる。
その一人は裸の子を抱いており、
中には追われて子供とともに倒れ伏しているものもいる。
子供は母親が育てたものであることを、
この「駒競行幸絵巻」ばかりでなく、
「石山寺縁起」その他の絵巻でもうかがうことができる。
日本人が子供をだいじにすることは、
明治以来日本にやってきた外国人の紀行文によって反省させられるが、
子供たちは物見高い母親に育てられることによって、
また好奇心の強い子供に育っていったのであろう。
 そのような自由闊達な雰囲気は、公家社会にもあったとみえて、
「寝覚物語絵巻」には桜花の散る下で
管弦の遊びをしている人たちが描かれているが、
土の上に敷物も敷かずに坐っている。
自然とともに生きようとした人たちの姿をそこに見ることができる。
(『 絵巻物に見る日本庶民生活誌』宮本常一著 中公新書 1981年)

寝覚物語絵巻(ねざめものがたりえまき)」大和文華館
自然体験観察園」の畑に野菜の花が咲いています。
名札を見ると
「玉造黒門越瓜(たまつくりくろもんしろうり)」と書かれていました。
「越瓜」と書いて「しろうり」と読むのが不思議だなと思って
午後から図書室に調べに行きました。

シロウリ(白瓜、越瓜)
漬物にぴったりのシロウリ

 中国、インド、近東、アフリカなどに分布し、
ククミス・メロの変種とされ、
果実が熟してもメロンやマクワウリのように甘くならない瓜です。
中国古代の越の国から伝わった瓜ということで、
越瓜と書いてシロウリと読んでいます。
(『なにわ大阪の伝統野菜』 
  なにわ特産物食文化研究会 農山漁村文化協会 2002年)

広東広西方面に消瓜や香瓜があり、
もっぱら醤菜(醤油漬)や味噌漬に愛用されています。
『斎民要術』に栽培法や加工法が記載されています。
わが国には『二条往来木簡』に「菓子瓜漬 天平九年九月一日」、
『本草和名』に「つのうり」、『和名抄』に「しろうり」、
また、果実が柔らかくならないことから「かたうり」とも呼ばれ、
シロウリは肉が厚く、
質が緻密で漬物に適すことから醤油漬、
粕漬、宰醤漬にされてきました。
江戸時代には重要な野菜の一つで、早出しが行われるほどで、
戦前まではいろいろな種類の漬物を各家庭で行っていたため、
小型の品種が重宝がられましたが、
戦後は漬物を作らなくなったために、青果の需要が減少し、
奈良漬の業務用として
大型の瓜のみが栽培される場合が多くなっています。
(『なにわ大阪の伝統野菜
 なにわ特産物食文化研究会 農山漁村文化協会 2002年)

続きは後日転記しますφ(..)
今朝の父の一枚です。
最近、花が少なくなったので残念がっています。
そんな中でノカンゾウを写していました。