こちらは夜中に雨が降って朝には止んでくれたけど…
豪雨の被害が出ている地域がありますね。
「記録的大雨 鹿児島 地盤緩む しばらくは土砂災害警戒を」
父は、昨夜、田舎に電話で様子を聞いていました。
今日、7月4日は「梨の日」で
「ふなっしーの誕生日」だそうです
年齢を見てビックリ!
1881歳は神話に登場する神様よりも長寿だ(*´▽`*)
ミミズが木に這い上がるのかなと見ると頭がT字型だ…
ミミズに似ているけど、ミミズやナメクジを捕食するコウガイビル
「コウガイ」は女性の髪飾り「笄」のことだそうです。
「櫛・笄」(玉川大学教育博物館)
きのこを食べる楽しみとそのリスク 大舘一夫
タバコを吸えば肺癌の、酒を飲めば肝硬変の、
競馬やパチンコに凝れば自己破産の、
とにかく楽しみにはリスクがつきものだ。
きのこを食べる楽しみとてその例外ではなく、
中毒というリスクがつきまとう。
何とか、中毒という心配なしに、
野生のきのこを味わう道はないものだろうか。
(『都会のキノコ図鑑』
大舘一夫、長谷川 明監修 八坂書房 2007年)
「縦に裂けるきのこは食べられる」、
「茄子といっしょに煮れば中毒しない」
などに代表される言い伝えは数多くあるが、
これらのほとんどがあてにならない。
というより、むしろ危険ですらある。
毒キノコを覚えるというのはどうか。
毒キノコが見分けられれば、
あとはどんなきのこでも食べられるというわけだが……。
研究が進み、最近では名前のついたキノコがだいぶ増えてきた。
それでも日本にいるキノコの半分以上は未だ名無しで、
そのなかにも毒キノコはあるだろうし、
名前がついているキノコとて、
そのすべての食毒がわかっているわけではない。
毒キノコを覚えても安全ということにはならない。
きのこを安全に食べる唯一の道。
それは食べられるきのこを一種ずつ覚えていくことだ。
ところが、先ごろ日本にかぎらず世界中で
安全な食用キノコとされてきたスギヒラタケが、
命まで奪う毒キノコに突如変身した。
少し古い図鑑などで食用となっていたキノコが
現在有毒になっている例はいくらもある。
せっかく覚えた食用キノコのなかにも、
いつか毒キノコに変身するものがあるかもしれないのだ。
きのこを食べることを放棄しないかぎり、
完全に中毒から逃れることはできないようだ。
毒キノコもキノコのスリリングな魅力と開き直る御仁もいるが、
なにせ命にかかわるリスクである。
常に情報に耳を傾け、
中毒を避ける努力を忘れずに楽しんでいただきたい。
(『都会のキノコ図鑑』
大舘一夫、長谷川 明監修 八坂書房 2007年)
「坂東の風雲児●平将門」(林睦朗)の続きを転記しますφ(..)
坂東の桓武平氏
将門は桓武天皇五代の皇胤(こういん)という貴種の出である。
祖父は高望(たかもち)王といった。
この高望王が寛平(かんぴょう)元年(889)臣籍に下り、
平朝臣(たいらのあそん)高望と称したのであるが、
ことのとき王は既に六十数歳の老齢であった。
(『人物群像・日本の歴史 第4巻 貴族の栄華』学研 1977年)
これより60年も前の天長(てんちょう)2年(825)、
高望の伯父高棟(たかむね)王が平朝臣となったのが
桓武平氏のはじめであった。
この高棟は結局大納言正三位(だいなごんしょうさんみ)という
高い地位にのぼり、
貞観(じょうがん)9年(867)に没したが、
その子惟範(これのり)は中納言従(じゅ)三位、
またその子時望(ときもち)も同じく中納言従三位になるというように、
この系統は代々朝廷に仕えてかなりの地位まで進んでいる。
これに対して高望の系統はそれより低い待遇であった。
すなわち高望が姓(かばね)を賜ったとき、
すでに六十数歳の老境であり、
位はわずかに従五位下(いのげ)、
任ぜられた官は上総介(かずさのすけ)という
坂東辺境の国司だったのである。
当時の国司は一般に遙任(ようにん)しない者もあったが、
高望は任国上総の現地に赴(おもむ)いたとみられる。
というのは、この上総は親王任国に指定されていて、
守には親王が任ぜられて、これを太守(たいしゅ)といい、
得分(とくぶん)だけとって任国に赴任せず、
介が事実上の長官として現地にのぞむことになっていたからである。
坂東に下向(げこう)した高望は間もなく任地で没したようである。
その子息は数多く、いずれも坂東の各地に土着してそれぞれ土地を開発し、
付近の人民を従え、皇胤の権威をもって勢力をたくわえたのである。
子息らの名前は、記録や系図類によってかなりの違いがみられるが、
ほぼ確実なものだけをあげると、
国香(くにか)・良兼(よしかね)・良持(よしもち)・
良文(よしぶみ)・良正(よしまさ)などであり、
良持が将門の父である。
その名を良将(よしまさ)とする系図もあるが、良持の方が正しい。
良持は鎮守府(ちんじゅふ)将軍であったと伝える。
鎮守府将軍は陸奥(むつ)の多賀(たが)城や
胆沢(いさわ)城に派遣されて、
蝦夷(えぞ)の鎮圧にあたる者であるが、
この当時、実際に胆沢城に赴いたかどうかは明らかでななく、
良持につていもその点不明である。
しかし、将軍と伝えられるからには、
坂東屈指の武将だったのであろう。
将門は良持の次男とみられ、
兄とされる将弘(まさひろ)は早世したらしいから
事実上の嫡男(ちゃくなん)の地位にあった。
弟には将頼(まさより)・将平(まさひら)・将文(まさぶみ)・
将武(まさたけ)・将種(まさたね)という人々がいたという。
彼らは将門と同じく父の遺領たる下総の豊田(とよた)郡や
猿島(さしま)郡の各地に居を据(す)えていたようである。
将門はこの当時の地方豪族のならわしとして、
若いころに都にのぼって官位をえようとした。
官位をえて故郷に錦をかざり、
その権威によって在地(ざいち)に勢力をのばそうとするわけである。
将門の場合は、都の権門藤原忠平家に仕えたのである。
しかし官位につくという目的を達しないうちに、
故郷に帰らざるをえなかった。
将門帰郷の理由は明らかではないが、
父良持の死没に関係がありそうである。
遺領の分配という問題があったのであろう。
しかし、将門を待ちうけていたのは、
一族の内紛というきびしい現実であった。
当時の坂東の社会はどのようだったろうか。
(『人物群像・日本の歴史 第4巻 貴族の栄華』学研 1977年)
この公園でクマゼミにはよく出会いますが、
ニイニイゼミには初めて会ったような…
声は聞いていながら姿を見なかったのかな?
「いろいろなセミの鳴き声を聞こう」( 子供の科学 )
マミジロハエトリには時々会うのだけど、
ジーッとしていないので写せないことが多いです(^-^;
今朝の父の一枚です(^^)v
チョウトンボを写していましたp(^^)q