風が吹いていなくて、途中で日差しが射しこんで
そのうえクマゼミの合唱で
昨日以上の蒸し暑さでした(-_-;)
昨日の岩波書店のつぶやきに
三好達治の詩の一節が紹介されていました。
その詩を転記したいと思いますが、
引用元は岩波文庫ではありませんし(^^ゞ
原文は、改行をしていません。
郷 愁
蝶のやうな私の郷愁!……。
蝶はいくつかの籬(まがき)を越え、
午後の街角(まちかど)に海を見る……。
私は壁に海を聴(き)く……。
私は本を閉ぢる。私は壁に凭(もた)れる。
隣りの部屋で二時が打つ。
「海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。
――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。
そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」
(『日本の詩歌22 三好達治』中央公論社 昭和42年)
「蝶のやうな私の郷愁!」とは、郷愁のあざやかな情念が、
蝶の形をしてひらひらと軽やかに飛ぶさまをいう。
私は海に近い港町の下宿の一室で、
読書に疲れて壁にもたれている。
私の幻想は「籬を越え、午後の街角に」飛び行く蝶の行方を追う。
私の耳は海の声を聞きつける。
そんな午後二時の時計のほどけていくような倦怠感の中で、
海を思い、母を思う。
「海、遠い海よ!」以下は母のイメージの強調である。
私たちの使う「海」は母という字を含んでいるが、
フランス語の母 me're は海 mer を含んでいる。
この機知的表現はなんのためになされたか。
この表現は、母への慕情、
母へのなつかしさを強めるための作者の知性の作用、
知的な把握によって感性の濃度を一層強める作用である。
(『日本の詩歌22 三好達治』中央公論社 昭和42年)
(ウラギンシジミ♂)
元号が令和となり万葉集が注目されています。
なんか古代の難しい歌集のように思われるでしょうが
万葉集の中にはナンセンスな歌もあるんですよ(^_-)
我(わ)が背子(せこ)が
犢鼻(たふさき)にする
円石(つぶれいし)の
吉野の山に
氷魚(ひを)そ懸(さが)れる
巻16・3839 安倍子祖父(あへのこおおじ)
(『NHK日めくり万葉集vol.7』中村勝行編 講談社 2009年)
うちの人が
ふんどしにする
丸石の
かたちよろしい吉野の山に
小さな鮎のそのまた稚魚が
ぶら下がっているわ
――「無心所著(むしんしよぢやく)、
つまり意味のない歌と題されたナンセンスでシュールな一首です。
[選者 坂田明 アルトサックス奏者]
いわれてみれば、いつの世にも物事をちゃかす人間はいるわけで。
僕らも昔は、ハナモゲラ語という意味のない言葉で、
意味のないちゃかしをさんざんやっていましたが、
いやー、先祖もなかなかやるなあと……。
吉野の山をふんどしに見立てて、
そこに小さなアユの稚魚である氷魚がぶら下がってるというところで、
訳がわかんなくなるんですが。
でも、吉野の山をふんどしに見立てるスケールの大きさは、
なかなかじゃないですか。
――この歌は、天武天皇の皇子・舎人(とねり)親王が、
そばに仕える者たちに賞金を出して意味のない歌を募ったところ、
それに応えて安部子祖父が作ったと伝えられています。
[坂田]
皇太子がこういうことを詠わせる、そのおもしろがり方は、
あの時代のある種の豊かさを表わしているんじゃないでしょうか。
一方には、兄弟や肉親間の血で血を洗うような世界もあったのに、
こういう遊びもしている。
まことに妙なものが同居していますけどね。
そこが人間らしいところで、
人間以外は、こういうバカなことはしない。
そこがおもしろいですね。
――かつて坂田明さんが、
ジャズ仲間の間でつかっていたナンセンスな言葉、
それが「ハナモゲラ語」です。
[坂田]
最初は「ハネモコシ」なんて言ってたんですよ。
例えば料理教室の場面では、
「今日はハネモコシという料理を作ります」と誰かが言うと、
こっちは「ヘレモコがありまして、
カサハタナを大さじ一杯」なんて言っているうにち、
「ハナモゲラ」が定着した。
ジャズだけでなくあらゆるものの中に、
意味性のあるものとナンセンスなものとの両面があり、
それが人間存在のダイナミックスにつながるんだと思います。
【無心所著歌】
舎人(とねり)皇子の父天武天皇は、
黒雲が天に現れるや親(みずか)ら式(ちよく)を秉(と)り占い、
天下両分の祥(しるし)を読み、自分が天下を得ることを予告した。
また、天神地祇(あまつかみくにつかみ)が我を扶(たす)けるならば
止(や)むと祈(うけ)いて雷雨を止めた
天文(てんもん)・遁甲(とんこう)を能くする人だった(『日本書紀』天武条)。
天皇は、王卿に「無端事(あとなしこと)」を問いかけ、
実(まこと)を得たら物を賜(たま)うと命じ、
正解者に御衣三具・錦の袴二具・絁(あしぎぬ)二十匹・
糸五十斤(きん)・錦百斤・布百端(たん)を与えた。
既成の観念にとらわれない闊達(かったつ)な精神の発露にみえる。
無端事とは、端緒なく尻尾をつかみにくく、
真意の見定めにくいことばであり、
ここに秘めた実(まこと)を問うのは謎かけに似る。
おそらく古来の呪的な言語が、遊戯性を延ばしてきた類で、
次の斉明紀歌謡に似て、理解しにくい性質のことばであったのだろう。
まひらくつのくれつれ をのへたをらふくのりかりが
みわたとのりかみ をのへたをらふくのりかりが(以下略)
そこでは、真実解明の才能が試される。
背中が冷たくなる緊張だろう。
舎人皇子は、無端事を問う父の意識を受け継いだ。
あえて心(意味)にかかるものを求めないという趣向を立てた。
ことばの連携に破綻をきたさなしようにしながら、
しかも全体を見えなくすることば。
相手に興味と混沌を同時にもたらす言語技術への欲求である。
「歌作の芸(わざ)」(3837番)の心得を持たない者には
手にし難い果実が求められた。
後に『奥義抄』(12世紀)は、
無心所著を雑会とし『歌経標式』の類例をあげた。
春日山峰漕ぐ舟の薬師寺淡路の島の犂(からすき)のへら
道理の合わない出来だが、
ことばの連携に破綻があり興趣薄く混乱の度合いが深刻ではない。
(藤原茂樹)
(『NHK日めくり万葉集vol.7』中村勝行編 講談社 2009年)
今朝の父の一枚です(^^)v
ムクドリも暑かったみたいですね(*´▽`*)
父は、公園から帰ってきた後、投票に行きました。
参議院は支持政党の候補者がいるので悩まなかったけど
市長選は、父もカジノ反対だし、対立候補も支持政党でないので
「誰に入れたらいいんだ!」とぼやいていました。
でも、棄権せずに投票場に向かいました。
私は、期日前投票をすませています。