2019年2月12日火曜日

穏やかな朝

昨日は、天気も怪しくて咳も出ていたのでリハビリ散歩は中止にしました。
先日、循環器科の先生からインフルエンザを発症すると
心不全の危険性があるので無理をしないようにと注意を受けていました。
今朝は、久しぶりに青空をみたような(^。^)
病はいつ襲ってくるかわかりませんね…
池内璃花子」さんのTwitter
昔は、死の病といわれ沖縄の伯母が白血病で亡くなり
中学の時に同じアパートに住んでいて遊んだ1級上の人が亡くなった。
でも、今は、スポーツ選手でも復帰する人がいる。
『平家物語』より「大原御幸(おおはらごこう」を転記しますφ(..)
  大原御幸(おおはらごこう)

 こうして建礼門院はわびしい生活を送っていられたがそのうちに、
文治二年の春の頃、後白河法皇は、
建礼門院の大原の閑居のお住まいを御覧になりたくおぼしめされたが、
二月・三月の間は風が激しく、余寒もまだなくならず、
峰の白雪も消えてしまわないので、谷のつららも解けないので、
実行されるに至らなかった。
そのうちに春が過ぎ夏が来て、賀茂(かも)の祭りも終わったので、
法皇はまだ夜の明けないうちに、大原の奥へ御幸になった。
忍びの御幸であったが、お供の人々は、
徳大寺(とくだいじ)・花山院(かざんのいん)・土御門(つちみかど)以下、公卿六人、
殿上人(てんじょうびと)八人で、それに北面の武士が少々お供をした。
鞍馬通(くらまどおり)の御幸であるから、
あの清原(きよはら)の深養父(ふかやぶ)の補陀洛寺(ふだらくじ)
小野の皇太后宮に旧跡を御覧になって、
それから御輿にお乗りになった。
遠山にかかる白雲は、花の雲を思わせ、
散ってしまった花の形見のようである。
青葉がちに見える桜の梢(こずえ)を見ては、
もう花も散り青葉になったかと春の名残りが惜しまれる。
頃は四月二十日過ぎの事なので、夏草も生い茂り、
その茂った草葉の先をかき分けてはいって行かれると、
初めての御幸なので、見なれておいでになる所もない。
人の往来が全くない様子も法皇の御心に察せられてしみじみと感慨深い。
(『平家物語二 日本古典文学全集30』
  市古貞次 校注・訳 小学館 昭和50年)
  西の山の麓に一棟の御堂がある。
すなわちこれが寂光院である。
庭前の池や木立ちなどが古びて造りなしてあって、
由緒ありげな趣のある所である。
「屋根の瓦が破れては、霧が室内に立ちこめ、
 絶え間なく香をたいているようであり、
 扉(とびら)がくずれ落ちては、月の光が室内にさしこんで、
 常夜燈をつけているようだ」
というのも、こういう所を申すのであろうか。
庭の若草がいっせいに茂っており、
青柳が風のために糸のような枝をなびかし乱しており、
池の浮草は波にゆられて漂い、
錦を洗いさらしてあるのかとまちがえられるほどだ。
池の中島にある松にからみついた藤の花の紫に咲いた色も美しく、
青葉に交じって咲く遅桜の花は、春初めて咲く花よりも珍しく思われる。
池の岸の山吹が咲き乱れ、幾重にも重なる雲の絶え間から、
鳴いて通る山郭公(やまほととぎす)の声が聞こえるが、
その一声も法皇の御幸を待ち顔に聞こえる。
法皇はこれを御覧になって、次のようにお詠みになる。

  池水にみぎはのさくら散りしきてなみの花こそさかりなりなりけれ
 (池水の上に、汀(みぎわ)の桜の花が一面に散り敷いて、
  波に浮かぶ花のほうが花盛りだ)

古びた岩の切れ目から落ちてくる水の音までも、わけありげに趣の深い所である。
緑の蔦(つた)かずらの垣をめぐらし、
後ろには黒緑色の眉墨(まゆずみ)で書いたような山が見え、
絵に書いてもとうてい書き尽くせないような景色である。
(『平家物語二 日本古典文学全集30』
  市古貞次 校注・訳 小学館 昭和50年)
  女院のご庵室を法皇が御覧になると、軒には蔦や朝顔がはいかかっており、
萱草(かんぞう)に忍ぶ草が入り交じっていて、
「顔淵(がんえん)は一瓢の飲物、一箪の食物も欠乏して、
 草が顔淵の住む家のの付近に生い茂っている。
 あかざが繁茂(はんも)して原憲(げんけん)の家の前をおおい、
 雨が原憲の家の枢(とぼそ)をしめらせている」
ともいえそうな情景である。
杉の皮の葺目(ふきめ)もあらくまばらで、時雨も霜も草葉の上に置く露も、
屋根から漏れて家の中にさしこむ月の光に負けず劣らず漏れてきて、
とてもそれを防げようとも見えなかった。
後ろは山、前は野辺でわずかばかりの小笹(おざさ)の原に風が吹いてざわざわと音を立てており、
俗世間に出て生活しない身の常として、悲しい事が多く、
節の多い竹柱のそまつな家に住み、
都の方からのたよりも間遠(まどお)で、
柴・竹をあらくまばらに結った垣根をめぐらしているが、
その垣根を尋ねて来る者といっては、
わずかに峰で木から木へと飛び伝わる猿の声や、
卑しい木こりが薪(たきぎ)を切る斧(おの)の音だけで、これらが訪れるほかは、
まさきのかずらや青つづらが生い茂っているばかりで、尋ねて来る人もまれな所である。
(『平家物語二 日本古典文学全集30』
  市古貞次 校注・訳 小学館 昭和50年)
  後白河法皇は、「誰かいないか、誰かいないか」と召されたが、ご返事申す者もない。
ずいぶんたってから、老い衰えた尼が一人参った。
「女院はどこへおいでになったのだ」と仰せられたところ、
「この上の山へ、花つみにいらっしゃいました」と申す。
「そんな事に奉仕する人もないのだろうか。
 いくら世を捨てた御身といいながら、まことにおいたわしい事だ」
と言われると、
この尼が申すには、
「五戒十善を保って得られた前世からのご果報がなくなってしまわれたので、
 今こういう目にあっておいでになるのです。
 肉身を捨てる仏道修行に、どうして御身を惜しまれる事がございましょう。
 因果経には、『欲知過去因(よくちかこいん)、見其現在果(けんごげんざいか)
 欲知未来果(よくちみらいか)、見其現在因(けんごげんざいいん)』と説かれています。
 過去・未来の原因と結果をあらかじめお悟りになったら、
 けっしてお嘆きになるはずがありません。
 檀特山(だんどくせん)の麓で、木の葉を綴ったものを着て皮膚をおおい、
 峰を登って薪(たきぎ)を取り、谷に下って水を汲(く)み、
 難行苦行を続け、その功によってとうとう悟りを開き成仏なさいました」
と申した。
この尼のありさまを御覧になると、身体には絹・布の区別も見えない物を結び集めて着ていた。
あんな様子でもこんな事を申すのは不思議だと思われて、
「いったいお前はどういう者だ」と言われたところ、
この尼はさめざめと泣いて、しばらくはご返事もしない。
しばらくたって涙をおさえて申すには、
「こんな事を申すにつけてもはばかり多く思われますが、
 故少納言入道信西(こしょうなごんにゅうどうしんぜい)の娘で
 阿波(あわ)の内侍(ないし)と申した者でございます。
 母は紀伊の二位です。
 以前はあんなに深くご寵愛くださいましたのに、
 お見忘れなさっていらっしゃるにつけても、
 わが身の衰えた程度も思い知られて、
 今更なんともしようのない気持でございます」
といって、袖を顔に押し当てて、がまんできずに泣く様子、まことに目も当てられない。
法皇も、
「それではお前は阿波の内侍なんだな。今となって見忘れていたぞ。
 ただ夢とばかり思われる」
といって、御涙をおさえることがおできにならない。
お供の公卿・殿上人も、
「不思議な尼だと思っていたら、そうなのか、それならもっともだ」
とめいめい話し合っておられた。
(『平家物語二 日本古典文学全集30』
  市古貞次 校注・訳 小学館 昭和50年)
 あちらこちらを御覧になると、庭の千草は露をしっとりと受けて、垣根の方に倒れかかっている。
その垣根の外側の田も水があふれて、鴫(しぎ)の降り立つ隙間も見分けられない。
法皇は女院の御庵室におはいりになって、襖(ふすま)を引き開けて御覧になると、
一室には阿弥陀(あみだ)・観音(かんのん)・勢至(せいし)の来迎の三尊がおられる。
中央の阿弥陀如来の御手には五色の糸をおかけになっている。
左には普賢菩薩(ふげんぼさつ)の絵像を、
右には善導和尚および先帝(安徳天皇)のご肖像をかけ、
法華経八巻、御書九帖も置かれてある。
昔たきしめていた蘭麝(らんじゃ)の匂いとはうって変わって、
今は仏前の香の煙が立ち上っている。
例の浄名居士(じょうみょうこじ)の一丈四方の居室の中に、三万二千の座席を並べ、
十方の諸仏を招待なさったというのも、こんなんであろうかと思われた。
襖には、いろいろな仏経の重要な文句などを色紙に書いて、所々にはりつけておかれた。
その中に大江の定基(さだもと)法師が、中国の清涼山で詠んだという、
「笙歌(しょうが)はるかに聞こゆ孤雲の上、聖衆来迎す落日の前」
とも書かれてある。
少し引き離して、女院の御製と思われて歌がある

  おもひきや深山(みやま)のおくにすまひして雲ゐの月をよそに見んとは
 (このように深山の奥に住んで、宮中で眺めた月を、
 よそで、それもこんな宮中を離れた寂しい所で見ようとは、
 かつて思いもかけなかったことだ)
(『平家物語二 日本古典文学全集30』
  市古貞次 校注・訳 小学館 昭和50年)
  さてその傍を御覧になると、ご寝所であるらしく、
竹のお竿(さお)に麻の御衣、紙の御夜具などをおかけになってある。
以前には、あれほど日本・中国のすぐれて立派な衣類をことごとく取り揃え、
綾羅錦繡(りょうらきんしゅう)を着飾っておられたご様子も、まるで夢になってしまった。
お供の公卿・殿上人も、それぞれかつての華麗なお姿を拝見した事なので、
それが今のように思われて、みな涙を流されたのであった。
(『平家物語二 日本古典文学全集30』
  市古貞次 校注・訳 小学館 昭和50年)
 そのうちに上の山から、濃い墨染の衣を着た尼が二人、
岩石の険しいがけ道を伝い伝いして、降りなやんでいられた。
法皇がこれを御覧になって、
「あれはどういう者だ」とお尋ねになると、老尼は涙をこらえて申すには、
「花籠(はなかご)を肘(ひじ)にかけ、岩つつじを取りそろえて持っておられるのは、
 女院でいらっしゃいます。
 薪(たきぎ)に蕨(わらび)を折りそろえて持っておりますのは、
 鳥飼の中納言伊実(これざね)の娘で、五条大納言邦綱(くにつな)卿の養女となり、
 先帝の御乳母として仕えた大納言佐(だいなごんのすけ)です」
と申しも終わらぬうちに泣いた。
法皇もまことに哀れな事に思われて、御涙をおさえる事がおできにならない。
(『平家物語二 日本古典文学全集30』
  市古貞次 校注・訳 小学館 昭和50年)
女院は、
「いくら世を捨てた身だといっても、
 今こんなありさまを法皇のお目にかけるのは全く恥ずかしいことだ。消えてなくなりたい」
とお思いになるが、なんともしかたがない。
毎夜毎夜、仏前に供える閼伽(あか)の水を汲む袂(たもと)も水にぬれしおれるうえに、
早朝起きて山路を分ける事だから、袖の上に山路の露もしっとりとかかって、
露と涙でぬれた袖を絞りかね、悲しみをこらえかねられたのであろう、
山へも帰られず、御庵室へもはいられないで、
呆然(ぼうぜん)として立っていらっしゃるところに、
内侍の尼が参って、花籠を女院から頂戴(ちょうだい)した。
(『平家物語二 日本古典文学全集30』
  市古貞次 校注・訳 小学館 昭和50年)
顔淵・原憲 
ともに孔子の門人で、清貧に安んじ、道につとめた人。
顔淵の故事は『論語』に、原憲の事は『荘子』や『史記』の「仲尼弟子列伝」に記されている。

五戒十善 仏の説く五つの戒め。
 不殺生、不偸盗(ふちゅうとう)・不邪淫(ふじゃいん)・不妄語(ふもうご)・不飲酒(ふおんじゅ)
十善は十悪をしないという戒めを守ること。

欲知過去因、見其現在果、欲知未来果、見其現在因
 「過去の因を知ろうと思うなら、現在の果・結果を見るがよい。
 未来の果を知ろうと思うなら、現在の因を見ればわかる」の意。
(『平家物語二 日本古典文学全集30』
  市古貞次 校注・訳 小学館 昭和50年)

十善(じゅうぜん)
 仏教では善とは楽(らく)の果(か)をもたらす行為をいうが、
身・語・意(身口意 しんくい)の三方面におけるその代表的な10の行為が十善である。
まず身の行為に関し、不殺生(ふせっしょう)・不偸盗(ふじゅうとう)・不邪淫(ふじゃいん)
語の行為に関し、不妄語(ふもうご)・不悪口(ふあくく)・不両舌(ふりょうぜつ)・不綺語(ふきご)
意の行為に関して、無貪(むとん)・無瞋(むしん→瞋恚 しんに
・正見(しょうけん→八正道 はっしょうどう)がいわれる(受十善戒経、十善業道経など)。
大乗の戒(戒律)は、この十善業道を基本とする。
この反対を、十悪、十不善業などという。
なおインドでは、帝王は世の中に十善を実現すべきであると考えられていた。
日本にこの思想が入ると、帝王は前世に十善を守った功徳(くどく)により、
この世に王位を得るにいたったという意で、
天皇・天子を<十善の君(きみ)><十善の主(あじる)>ともいい、
その位を<十善の帝位>ともいうようになった。
「われ十善の戒功におって、万乗の宝位をたもつ」〔平家1.二代后〕
(『岩波仏教辞典(旧版)』中村元他編 岩波書店 1989年)