2022年4月19日火曜日

痛いけど…

すがすがしい朝です。
でも、ギックリ腰が痛い…
歩きはじめが一番痛いのですけど、歩いていると少し楽になる。
無理せずに短めのリハビリ散歩をしました。
おかげで初めて見ることができた(^^)v
テントウムシがサナギから成虫になったばかりの姿

カマキリとテントウムシの育ち方」(小学3年)
朝刊の一面に
「解放軍」振る舞うロシア 「人道物資」食料配布を国営メディア宣伝 マリウポリ〟(朝日新聞)

以前紹介した
南京の奉祝<戦捷第一次祝賀>」(NHKアーカイブス 1942年)

そして、
南京の移動学園<週間話題>」(NHKアーカイブス 1941年)

日本は、敗戦によって南京などでどのような残虐なことが行なわれていたかを知った。
曝露された南京の大虐殺 -東京裁判」(NHKアーカイブス 1946年)

ロシアでは、真実を知るときがくるのかな?

3月12日の記事で半藤一利さんの『世界史のなかの昭和史』から転記しましたが、
スターリンの死後に大虐殺がソ連(現、ロシア)国民に知らされます。

ソ連共産党中央委がスターリン派を追放」(NHKアーカイブス 1957年)
石川達三の『生きている兵隊』の解説を半藤一利さんが書かれています。

『生きている兵隊』の時代 解説に代えて 半藤一利

 この小説は、昭和13(1938)年3月号の『中央公論』に発表された。
が、内務省の通達により、書店の店頭に並ぶ暇もなく発売禁止となる。
一般読書人の目にふれることなくあっという間に消え去り、戦前の日本では幻の名作の如くにひそかに、その存在が囁かれていた。
(『生きている兵隊――(伏字復元版)』石川達三 中公文庫 1999年)
 われわれがこの小説を読むことができたのは戦後である。
戦争が終わるのを待っていたかのように発刊された。
昭和20年の押し詰まった年の瀬に世に出たようであるが、わたくしはそれより三、四年後に、旧制高等学校の寮でそれを読んだように記憶している。
粗末なザラ紙の本で、誰の所有ともわからぬままに寮の一室にころがっていた。
話には聞いていたが、読みながらしばしば息を呑んだ。
冒頭、民間人かスパイかわからない青年を、日本軍の伍長が無造作に捕らえて土手に座らせ、首を斬って河に蹴こむ、というショッキングな場面からはじまる。
部隊は上海から転戦し、南京攻略戦に加わるが、その戦闘続行の間に、現地徴発という名の略奪、若い中国女性を裸にして刺し殺す兵士、逃げる中国人の頭をシャベル割って武勲を誇る従軍僧、と残忍さが日常と化した「皇軍」の実態が点綴(てんてい)して描かれる。
それ以前の昭和23年11月に判決の下った東京裁判で、南京虐殺という思いもよらない残忍な事実を知らされていたから、この小説に描かれたむごい光景の一つ一つが胸にしみ、背筋に冷たいものを走らせた。
そして、あの戦時下という冷酷無残な時代に、よくぞまた勇を鼓して書いたものよ、と作者の精神の強靭さに心から敬意をいだいたことであった。
 その後、雑誌の編集者となってからわたくしは、石川達三氏(いや、石川さんと呼んだ方がぴったりする)に会い、人生百般いろいろな話を聞く機会をもった。
談論風発のうちにも、大抵のことには真っ向から直言する石川さんが、『生きている兵隊』をこっちがやたらと褒めまくったときだけは違った。
大照れに照れて「いやぁ、あれは若気の至りだったところもある」と、珍しく韜晦(とうかい)の面持ちを見せたのを覚えている。
 石川さんがこの小説を書いたのは32歳のとき。
その若さからくる生真面目さ、無鉄砲さ、というものがあったことは確かである。
それとともに、戦時下日本の〝国家的統一〟という背景がもう一方にある。
中国を敵として戦争を開始したばかりという国民的熱狂のうちに、日本人のすべてが否応もなく放り込まれていた、といいかえてもいい。
つまりは、時代の要請というものが石川さんを追い立てたに違いないのである。
  ◆

「『生きている兵隊』事件」とはどんなものであったか。
説明するために、いくらか歴史年表的になるが、事実経過から記したい。
 昭和12(1937)年7月7日朝まだき、日中両軍が北京郊外の盧溝橋で衝突した。
日中戦争のはじまりである。
政府は不拡大の方針をとったが、軍部の戦略に引きずられ、中国軍も執拗に抵抗し、8月には上海に飛火して本格的な戦争になった。
動員令が発せられ、戦争遂行上当然のことのように、報道機関への言論の制限は厳格さをましていく。
9月25日、言論統制の一元化を目的に内閣報道部が設置された。
そして11月に大本営が宮中に設置されると、これに合わせ大本営内に陸海の両報道部が設けられた。
こうして世情は一変し、言論への当局の目はいっそう厳しく光りだし、いよいよ軍主導の政治時代に突入したのである。
思想戦の名のもとに、言論取締りは言論指導へと変わっていく。
 こうした一億をあげての戦時協力に呼応して、新聞・雑誌は一挙に変容をとげた。
各雑誌は作家の現地特派員という企画で競い合うことになる。
『中央公論』は7月にもう尾崎士郎、林房雄を中国に派遣している。
同じく『主婦の友』は吉屋信子を送った。
9月には『日本評論』から榊山潤がでかけ、その報告が誌面を派手に飾った。
負けてはならじと『文藝春秋』『改造』などの各誌がそれにつづいた。
厳しい検閲のもとに、がぜん戦意を高める現地報告、従軍記、ルポルタージュが、主流という情勢になっていく。
(『生きている兵隊――(伏字復元版)』石川達三 中公文庫 1999年

つづく…
今朝の父の一枚です(^^)v
キランソウが咲いているところを父が通りかかったので教えてあげました。

キランソウ シソ科
…前略…
このキランソウは切り傷から胃腸病までいろんな薬効があるといわれ、そんなところから九州地方で「医者殺し」と呼ばれたり、「地獄の釜のふた」(みなの病気を治してしまい、死んで地獄に行く人をなくしてしまう)との別名があったりもします。
(『花のおもしろフィールド図鑑(春)』ピッキオ編著 実業之日本社 2001年)

キランソウはギックリ腰には効かないだろうなぁ…
我慢強い父もさすがに我慢できなかったのが帯状疱疹

「帯状疱疹」コロナ禍で増えてる?症状・接種との関係は?〟(NHK 4月18日)

高校の同級生が2回目のワクチン接種の後に帯状疱疹になった。
あきれるほど我慢強い彼が音を上げるほど痛かったそうだ。

パソコンの修理?を明日、頼もうと思っています。
サポートセンターからの返事は、やはりリカバリが必要だとのこと。
土曜日にするつもりでしたが、去年、5月に同じような状態になった。
一度、修理専門の会社に頼もうと思っています。
費用がかかることと、これからメーカーのサポートが得られなくなるのは痛いけど…
パソコンが帰ってくるまで、しばらくの間、ブログの更新をお休みします_(._.)_
また、スマホでなく携帯なので訪問もできません(^^ゞ