2022年4月8日金曜日

カレンダーを見ると

朝、真新しい制服姿の生徒たち新入生なんだろうな。
自転車通学をしているスラックス姿の女生徒に出会いました。
動きやすそうでした。
  梨(なし)の花

梨の花さね
梨の花さね
総角(わかいしゅ)の頭巾(ずきん)
梨の花さね、

梨の花のよな
頭巾の下に
鏡のような
あの目を見さい。 
(『朝鮮民謡選』金素雲 岩波文庫 1933年)
 アオジに出会ったので写そうとするとツルンと滑った(*´▽`*)
 サクラについた虫を食べるのかなと思ったら、花びらを食べていました。
種子などだったら何度も見ているのですが…
 4月10日は
釈迦の誕生祝い像に甘茶 奈良の東大寺で伝統行事「仏生会」〟(奈良NHK)

甘茶で検索するとこんな行事がありました。
白久保のお茶講 味を利き分け1年の豊作を占う」(みちしる 2019年)
この行事がすてきだなと思ったのは
全問正解だけでなく、全問不正解の人の数が多いほど、豊作になるとのこと( ^^) _旦~~
 はじめに

 しばしば日本は仏教国といわれます。
たしかに、市、町、村には、必ずといっていいくらいお寺(寺院ともいいます)があります。
たとえ、仏教にまったく関心がない人でも、ユネスコの世界文化遺産となった奈良の法隆寺や東大寺などの寺院を訪ねたことのある人は多いでしょう。
そして、東大寺の巨大な大仏を前にして、この大きさに感嘆の声をあげたのではないでしょうか。
そのうえ、数多くの日本人は、仏教式の葬式により「あの世」に旅立っていきます。
 しかし、そうだからといって、どれほどの人が仏教について理解しているのか疑問に思えます。
いや、理解とまでいかなくとも、知識をもっているかどうかも疑問です。
(『仏教入門』松尾剛次 岩波ジュニア新書 1999年)
 毎年、私の勤務する大学は、2000人を超える新入生を迎え、私は、そのほぼ半数の学生たちに仏教の歴史を講義しています。
毎年、「四月八日はなんの日か」尋ねることにしています。
四月八日は、花祭(灌仏会<かんぶつえ>の俗称)の日ですが、じつに仏教の開祖、仏陀(釈迦)の誕生日なのです。
けれども、学生たちは、平均以上の学力レベルの若者たちなのに、答えられるのは一割にもみたないのです。
 年配の方には信じられなかもしれませんが、現在のわが国の若者たちの大部分は、キリストの誕生日が12月25日であることを知っているのに、身近なはずの仏陀の誕生日のほうは知らないのです。
 けれども、仏教は、過去のみならず現在においても社会的、文化的、いや政治的にも大きな影響を与えつづけています。
たとえば、「彼は志望の大学に入学でき、うれしくて有頂天(うちょうてん)になっている」の「有頂天」、「受験勉強で四苦八苦(しくはっく)している」の「四苦八苦」ほか、「現在」「過去」「未来」「有難い」「畜生」「釈迦に説法(せっぽう)」など、ふだん何気なく使っている言葉にも、仏教に由来する言葉は非常に多いのです。
そうした点にも、仏教がいかに日本社会に根づいているかが読みとれます。
 さらには、『平家物語』『太平記』『山椒太夫(さんしょうだゆう)』(絵本などでは『安寿姫(あんじゅひめ)と厨子王(ずしおう)』として知られています)などの語(かた)り物(もの)文芸は、もともと、仏教を広め、勧(すす)めるために作られたと考えられているように、仏教はいわば日本文化の創造の源でもあったのです。
 ところで、私が少年の頃、お盆をはじめとするさまざまな機会に、父と母が仏壇を前にして「ナムマイダ」と称(とな)えるのを聞いたものです。
「何枚だ」ではないだろうし、何だろうと思いつつ、その意味を父や母に尋ねたことがありました。
 ところが、「知らない」と答えられて、啞然(あぜん)としました。
意味もわからず、仏さまの絵像に向かって父と母が称える言葉「ナムマイダ」とは何なのだろうか。
それ以来、「ナムマイダ」は謎の言葉、いや謎の呪文(じゅもん)となりました。
多少、漢字に親しんできた頃には、「ナムマイダ」とは「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」のことだとわかったのですが、意味はよくわかりませんでした。
 仏教を研究するようになってからようやく、それが「南無 阿弥陀仏」といっているということ、南無とは「帰依(きえ)する」(おすがりします)という意味である、阿弥陀仏とは、西方極楽浄土(さいほうごくらくじょうど)に住む仏であることが理解されました。
要するに、「南無阿弥陀仏」とは、「阿弥陀仏さまおすがりいたします」という意味なのですが、この「南無阿弥陀仏」と称えることを念仏(ねんぶつ)といいます。
 このように、私と仏教との出会いは、父と母が「南無阿弥陀仏」と称えながら仏前で手を合わせる姿を見ることであったように思えます。
読者のみなさんには、そういう体験はありませんか。
 そうした個人的な経験は別にしても、いろいろな面で、重要な意味をもち、主要な役割を果たしてきたし、現在も果たしている仏教について、中学生や高校生から一般の方たちにも知ってもらうために、本書を執筆することにしました。
 ところで、従来は、仏教入門といいますと、仏教がもともとインドで生まれた宗教であるため、インド学の専門家が書くことが多かったのです。
ですから、ほとんどの仏教入門書ではインド思想の一つとしての仏教思想に焦点がしぼられています。
 しかし、本書で述べるように、仏教といっても、セイロン(現スリランカ)などの仏教と日本仏教とは大いに異なっています。
その結果、インド学の専門家によって書かれた入門書は、日本人である私たちにとって身近な印象をもたらない傾向があります。
そこで、本書では私の専門である日本仏教にも重点をおいた仏教入門をめざしたいと思います。
(『仏教入門』松尾剛次 岩波ジュニア新書 1999年)
発病する前(2010年05月30日)比叡山を訪ねたことがあります。
比叡山延暦寺から坂本へ降りて行く途中に「花摘堂跡」がありました。
その時に記録したブログはサービス終了でなくなったのですが
画像があったので載せたいと思います。
花摘堂跡(はなつみどうあと)

 伝教大師(でんぎょうだいし)の御母堂・妙徳(みょうとく<藤原藤子(ふじわらとうし)>)夫人(ふにん)は、山上の大師の房(ぼう)を訪ねてこの峯に至ったが、これより進むことができず、大師が山を下って母と謁(えつ)した由緒の地である。
 後に智証大師(ちしょうだいし)は、ここに自ら悲母(ひぼ)を祭る三宮(そうのみや)を建てた。その後四月八日の釈尊降誕会(しゃくそんこうたんえ)に限って伝教・智証両大師の母君を偲んで女性もこの地に花を供えることが許された。
花はこの峯(花摘峯<はなつみのみね>)の花を摘んで供えたので花摘堂と呼ばれた。
ところでカレンダーを見ると今日は仏滅なんですよね(^_-)

ぶつめつ【仏滅】
①仏が死ぬこと。
②↔大安〔←仏滅日〕〔陰陽道で〕万事に不吉であるとする日。
(『新明解国語辞典<第四版>』山田忠雄〔主幹〕他編著 三省堂 1997年 )

ちなみに涅槃会(ねはんえ)は2月15日だそうです(浅草寺 年中行事 涅槃会)。
【第九十一段】
 赤舌日(しやくぜちにち)といふ事、陰陽道(おんやうだう)には沙汰無(さたな)き事なり。
昔の人、これを忌(い)まず。
この頃、何者の言ひ出(い)でて、忌み始めけるにか、「この日、有(あ)る事、末通(すゑとほ)らず」と言ひて、「その日、言ひたりし事、したりし事、叶(かな)はず。得たりし物は、失ひつ。企(くはた)てたりし事、成(な)らず」と言ふ。
愚かなり。
吉日(きちにち)を選びて成(な)したる業(わざ)の、末通(すゑとほ)らぬを数(かぞ)へてみんも、また等(ひと)しかるべし。
 その故(ゆゑ)は、無常変易(むじやうへんえき)の境(さかひ)、有(あ)りと見る物も存(ぞん)ぜず。
始め有(あ)る事も、終(を)はり無し。
(こころざし)は遂(と)げず、望みは絶えず。
人の心、不定(ふぢやう)なり、物皆(ものみな)、幻化(げんげ)なり。
何事(なにごと)か、暫(しばら)くも住(ぢゆう)する。
この理(ことわり)を、知らざるなり。
「吉日(きちにち)に悪(あく)を成(な)すに、必ず凶(きよう)なり。悪日(あくにち)に善(ぜん)を行ふに、必ず吉(きち)なり」と言へり。
吉凶(きつきよう)は、人に因(よ)りて、日に因(よ)らず。
(『徒然草』兼好著 島内裕子翻訳 ちくま学芸文庫 2010年)
訳 世間では、六日目ごとにめぐってくる「赤舌日(しゃくぜつにち)」を凶日だと言うが、もともと陰陽道(おんみょうどう)では、特に問題とはならないことである。
昔の人は、この日を忌み嫌わなかった。
それなのに最近、いったい誰が良くない日と忌み始めたものか、「赤舌日にすることは、成就(じょうじゅ)しない」と言ったり、「赤舌日に言ったことや、したことは、叶わない。得たものも、なくしてしまう。計画したことは、実現しない」などと言う。
まったく愚かなことだ。
縁起のよい吉日を選んでしたことで、けっきょく成就しなかったことを数えてみても、赤舌日にしたことで成就しなかった数と比べてみたら、割合は同じようなものだろう。
 なぜそうなるかと言えば、この世界は「無常変易(むじょうへんえき)」であり、すべてのものは変化してやまないからだ。
有ると見えるものでも、永遠に存在できないし、始めがあったとしても、終わりはない。
こうしたいと思う気持ちは、遂げることは出来ず、願望は果てしもなく湧いてくる。
人間の心は定めなく揺らぎ、万物は「幻化(げんげ)」であり、幻のように変転きわまりないものである。
いったい何が、わずかな間でも不変であり続けられるだろう、何事も不変ではあり得ないのだ。
世間の人は、この道理がわかっていないから、「赤舌日」を忌み嫌ったりするのだ。
「吉日だからと言って悪事をすれば、必ず凶事(まがごと)であるし、悪い日に善行すれば、必ず吉事(きちじ)である」と言う。
『事文類聚(じぶんるいじゅう)』に書いてあるように、吉凶というものは、その人本人の心懸けによるものであり、日の良し悪しによるものではない。
 現代にもそのまま通じるような合理的な考え方であるが、それだけに、当時はこのような考え方をする人は少なかったろう。
「吉凶は、人に因りて、日に因らず」というのは、漢籍からの引用だが、兼好の肉声が聞こえてくるような表現である。
(『徒然草』兼好著 島内裕子翻訳 ちくま学芸文庫 2010年)
今朝の父の一枚です(^^)v
ソメイヨシノの花びらが風に舞って、池はサクラの花で覆われています。
ソメイヨシノはそろそろ終わり…

カムカムエヴリバディが終わってしまいましたね…
母は朝ドラを必ず見ていましたが、私は連ドラは苦手でたまに見る程度でしたが、今回は、はまってしまった(^^ゞ
ネット上ではいろんな意見が飛び交っていますが、その中で、
森山良子さんが安子役をしたことに違和感を感じたというコメントがあったのだけど
良子さんがデビューの頃から知っている。
上白石萌音さんのように可愛くてチャーミングな女性だった。
萌音さんも年齢を重ねると、良子さんのように魅力的な女性になると思う。
服装が派手になったことに対しても批判的な意見があったけど
年をとった女性は、地味な服装をするという固定観念があるのと違うかな?
ハリウッドなどで活躍する方が地味なファッションだったら可笑しいなと思う。
よく言われるのが、日本の入院患者はお化粧をしないし、服装も病人らしく?することを要求されるみたい。
でも、欧米では、女性は化粧をすることで元気を取り戻すと読んだことがある。
そういえばスキージャンプの高梨沙羅さんへのメイク批判があったけど、批判する人たちはどんな心理なんだろう?

今回のカムカムエヴリバディにはまったのは三人のヒロインの演技が凄かったこと
脇役がまた素晴らしく、名言集が出ないかなと思うほど。
藤本有紀さんの脚本が素晴らしくて、読むと元気になる金言がいっぱいだった。

コロナ禍でなかったら太秦の映画村や、岡山の偕行社など訪ねたいなぁ…

「カムカム」で注目 旧岡山偕行社 人気スポットに秘められた波乱の歴史〟(山陽新聞)