2022年4月29日金曜日

昭和の日

空を見るといつ雨が降ってもおかしくないなぁと歩いていました。
駐車場に戻るとポツポツ…
帰り道は、ワイパーを動かすほどの本降りになりました。
90mmマクロレンズでは遠かったのだけど
コサギの顔を見ると婚姻色で目元がピンク色をしていました。
そして足を見ると指が、いつもは黄色だけど、ピンク色になっている。
黒いアゲハチョウに出会いました。
白い紋が見えたのでクロアゲハのオスのようです。
今日は「昭和の日
子どもの頃は「天皇誕生日」。
そして「みどりの日」になった。

 みどりの日

 国民の祝日の日の一つで、4月29日。
「自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」日として、平成1(1989)年に「国民の祝日に関する法律」によって定められた。
この日は昭和天皇の誕生日にあたるので、昭和2(1927)年に天長節に定められ、昭和23年以来昭和63年まで天皇誕生日として祝われていた。
昭和天皇崩御後、昭和天皇の遺徳をしのぶ心情によって、新たに「みどりの日」に定められた。  (田中)
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 三省堂 1999年)
昭和天皇の涙
 ――ただ一度、在位六十年記念式典で


 昭和史を通観すれば、また太平洋戦争の開戦と終戦にあたって、昭和天皇という存在はひじょうに大きなものです。
戦前戦後を問わず、政治的にも精神的にも、昭和は天皇を中心に動いてきました。
ですから、天皇を抜きにして昭和を語ることはむずかしい。
また、天皇を語ることそのものもなかなかむずかしい。
(『文春ムック 永久保存版 半藤一利の昭和史』前島篤志編集 文芸春秋 2021年)
 戦後四十年目の昭和60年8月15日に私は『聖断――昭和天皇と鈴木貫太郎』を出しました。
その最後で、私は昭和21年の東北巡幸の一エピソードを書きました。
白木の箱と遺影を手にした若い娘が天皇の前に進み出ると、天皇は立ちどまり、その頰がかすかに痙攣する。
涙を出さず、頰が痙攣する、それがお付きのものには、天皇の泣き方だ、とわかっていたと書きました。
 戦後ずっと私は昭和天皇はいずれかの時点で退位をされた方がよかったのでは思ってきました。
ご自身、終戦後に三回退位を口にされていますが、諸般の事情でかないませんでした。
私の中にも天皇に対する複雑な思いがあります。
戦争を体験して生きてきた人間は、口に出さなくても、みんなそう思っているでしょう。
 昭和61年4月29日に天皇陛下在位六十年記念式典が両国国技館で行われました。
その時に文春のカメラマンが撮った写真を見て、私はショックを受け、感動しました。
大写しになった昭和天皇の頰に涙が光っていたのです。
国民の前でただ一度涙を見せられたのがこの時でした。
 戦前の天皇家というのは「皇統の護持」とそのための「三種の神器」こそが第一なので、「国民」はその次にならざるを得ない。
ところが同時に、終戦の詔書にあるように、「戦陣に死し職域に殉じ非命に斃(たお)れたる者及其の遺族に想を致せば五内為(ごだいため)に裂く」と、天皇は戦争責任に苦しみ続けてきたということが、あの涙からわかりました。
さらには、今まで出会った戦争責任者と言うべき人がみな罪悪感のかけらもないような顔をしていたのを思い出しました。
 私はその涙を見た瞬間、なにもかも承認することにした

 私は天皇のその涙を見た瞬間、なにもかも承認することにしました。
以来、天皇の悪口は一切言いません。
べつに「臣一利」になったわけじゃないんだけど(笑)、素直に昭和天皇のファンになりました。
私の昭和史はその意味からは右派的かもしれませんが。
 少年時代に空襲で戦争を体験し、青年時代に歴史の本に触れ、会社に入ってからは、安吾さんに歴史のおもしろさを教えてもらい、伊藤(正徳)さんに昭和史とは何かを教えてもらった。
そして伊藤さんの遺言を守っての、昭和の深究はまだ終わりません。
もういい年でポンコツになりかかっているけど、知りたいこと、調べなければいけないことが昭和史の中には、いくらでも眠っているのですから。
 昭和史探偵の仕事はつづけます。
たしかヘーゲルの言葉ではなかったかと記憶しますが、「人が歴史から学んだ最大の教訓は、人は決して歴史から学ばないということだ」といいます。
歴史を賢く学ぶことは、言うは易(やす)く行うはまことに難しいことなのです。
幸い、ボートで鍛えた体力と忍耐力はまだ衰えていません。
それにくり返しくり返しやって飽きない、それがスポーツの醍醐味といいます。
昭和史深求の面白さもそれです。
くり返しくり返しくり返し……なんですね。
(『文春ムック 永久保存版 半藤一利の昭和史』前島篤志編集 文芸春秋 2021年)
今朝の父の一枚です(^^)v
シランを見るたびに母との会話を思い出しています。

公園で休憩のコーヒータイムに父が
「天長節に学校は休みでなかったなぁ」と思い出話をしてくれました。
登校して校長先生が教育勅語を奉読されたあと、
教室で教育勅語の全文を間違えなく言えたものから帰ることができたそうです。
今でも全文をそらんじることができる。