2022年4月16日土曜日

3月の寒さに戻ったのかな?

ついこの間は、5月6月並みの暑さだったのに
今朝は、3月に戻ったような寒さでした
春を迎えた若者たちがいます。

宝塚音楽学校で入学式 未来のタカラジェンヌ目指し第一歩」(関西NHK)
 セイヨウシャクナゲの花、蜜が出ていました。
指で触るとツバキに比べて粘っこかったです。
ちょっと味見をしようかなと思ったけど、舐めなかったのが正解でした。
ツバキの花には、メジロたちがやってきて花びらに爪痕が点々とついているけど
セイヨウシャクナゲにはついていません。
メジロたちは蜜に毒があることを知っているみたい…

自然毒のリスクプロファイル:高等植物:シャクナゲ類」(厚生労働省)

ツツジ科の植物には毒をもつものが多く、蜜にも毒性成分があることがあり、注意が必要。
別の場所の桜の花びらですが 
桜の下で三脚にデジカメをセットしていた中年の男性が、桜の枝を振って桜を散らしていました。
ネット上には、いろいろな情報があふれているけど

ウクライナのSNS投稿の検証方法、BBCの偽情報検証チームが解説」(BBCNEWS JAPAN 4月15日)
ロシアのウクライナ侵略で忘れられているのではないかなぁと思うのが

ミャンマー、軍政主導で水かけ祭り復活も国民はボイコット 国内各地で戦闘続く」(Newsweek 4月15日)

ミャンマーの軍に影響力を強めているのが中国
ミャンマー軍 中国との関係をアピール “王毅外相と会談”」(NHK 4月2日)

中国では、国民に都合のいい情報しか流していないので
プーチンに「熱狂」し、ウクライナ侵攻を「手本」と見なす中国人の心理〟(Newsweek 3月15日)

ロシアや中国のように支配者に情報を管理されていた時代が日本にもありました。
日本帝国の軍部とロシアのプーチンを始めとするロシア軍首脳は、補給を軽視している点で共通していると思う。
 解 説

 火野葦平は、『土と兵隊』(杭州湾敵前上陸記)、『花と兵隊』(杭州警備駐留記)、『麦と兵隊』(徐州会戦従軍記)の、いわゆる兵隊三部作のルポルタージュで知られる戦中の兵隊流行作家だ。
 著者は、1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件に始まる日中戦争の開戦―日本軍の予備役の動員開始という中で、小倉歩兵第百十四連隊に召集(下士官伍長)され、以後・アジア太平洋戦争が拡大していく事態の中で、中国各地のみならず、フィリピン戦線・ビルマ戦線など、アジア各地の戦争に従軍していくことになる(1938年の芥川賞受賞以後は、軍報道部に所属)。
(『土と麦 麦と兵隊』火野葦平 社会批評社 2013年)
 この中で、1937年11月、中国杭州湾北砂に敵前上陸し、嘉善・嘉興・湖州などへの進軍を描いたものが『土と兵隊』である。
また、その後の同年12月、杭州に入城し、杭州城内での駐屯・警備を描いたものが『花と兵隊』だ。
そしてその後、軍報道部に所属しながら193年5月の、いわゆる徐州大会戦への従軍を記録したのが『麦と兵隊』である。
 本書には、これらの戦争体験がほぼ日記(郷里の弟に伝える手紙)の体裁で綴られており、著者が『土と兵隊』の初版の前書きで言うように「小説」ではなく、戦争の記録、戦争ルポルタージュというべきものだ。
 実際、本文中には、その敵前上陸作戦から始まる、果てしなく続く戦闘と行軍の日々が延々と綴られている。
しかも、この中国戦線の戦争は、それほど華々しい戦闘ではなく、中国の広い大地の泥沼化した道なき道を、兵隊と軍馬が疲れ果て倒れながら、糧食の補給がほとんどない中で、もっぱら「現地徴発」を繰り返していく淡々とした戦争風景である。
  そこには、陸軍の一下士官として、兵隊と労苦をともにする著者の人間観がにじみ出ている。
この人間観はまた、本編のあちらこちらで中国民衆に対してもにじみ出ているが、しかしながら、現地徴発を繰り返し、さまざまなところで中国の大地を侵していながら、そこには「侵略者」としての自覚は、全くない。
 著者・火野葦平は、戦後、文筆家追放処分(公職追放)にあい、戦犯ともされた。
なるほど、例えば「兵隊は、人間の抱く凡庸な思想を乗り超えた。死をも乗り超えた。それは大いになるものに向って脈々と流れ、もり上がって行くものであるとともに、それらを押し流すひとつの大いなる高き力に身を委ねることでもある。……私は弾丸の為にこの支那の土の中に骨を埋むる日が来た時には、何よりも愛する祖国のことを考え、愛する祖国の万歳を声の続く限り絶叫して死にたいと思った」などと描かれるとき、その戦争賛美の責任は免れ得ない。
 しかし、他方では、この戦争が中国人を虐殺する非人間的な戦争であることも、著者は自覚しているのである。
 本文中に以下のような箇所を読み比べて見れば、おそらく、戦時中の軍部の検閲の中での、ぎりぎりの表現をしていることにも気づく(以下は本文89~90頁に該当する、1937年12月15日、父へ宛てた手紙から)。
  「つないで来た支那の兵隊を、みんなは、はがゆさうに、貴様たちのために戦友がやられた、こんちくしょう、はがいい、とか何とか云ひながら、蹴つたり、ぶつつたりする、誰かが、いきなり銃剣で、つき通した、八人ほど見る間についた。
……中隊長が来てくれといふので、そこの藁家に入り、恰度、昼だつたので、飯を食べ、表に出てみると、既に三十二名全部、殺されて、水のたまつた散兵濠の中に落ちこんでゐました。
山崎少尉も、一人切つたとかで、首がとんでゐました。
散兵濠の水はまつ赤になつて、ずつと向ふまで、つづいてゐました。
僕が、濠の横に行くと、一人の年とつた支那兵が、死にきれずに居ましたが、僕を見て、打つてくれと、眼で胸をさしましたので、僕は、一発、胸を打つと、まもなく死にました。
すると、もう一人、ひきつりながら、赤い水の上に半身を出して動いてゐるのが居るので、一発、背中から打つと、それも、水の中に埋まつて死にました。
泣きわめいてゐた少年兵もたほれてゐます。
濠の横に、支那兵の所持品が、すててありましたが、日記帳などを見ると、故郷のことや、父母のこと、きようだいのこと、妻のことなど書いてあり、写真などもありました。
戦争は悲惨だと、つくづく、思ひました」(昭和12年12月15日、南京にて)。
[『国文学』2000年11月号、花田俊典「新資料・火野葦平の手紙」]
 火野葦平は、この中国兵士の虐殺現場に遭遇し、「私は、胸の中に怒りの感情の渦巻くのを覚え、嘔吐を感じた」と、書く。
また、翌年1938年5月、徐州入城後には、
「城壁の前に掘られた濠の中に、支那兵の屍骸が山のように積まれてあった。……堆積された屍骸も新しく、まだ血が乾いていない。屍体の間に挟まって蠢いているのもある。私はこれを見ていたが、ふと、私がこの人間の惨状に対して、暫く痛ましいという気持を全く感ぜず眺めていとことに気づいた。私は愕然とした。私は感情を失ったのか。私は悪魔になったのか」、
「私は眼を反らした。私は悪魔になっていなかった。私はそれを知り、深く安堵した」と。
 作家の中野重治は、この火野葦平の『土と兵隊 麦と兵隊』の著述について、「人間らしい心と非人間的な戦争の現実を何とか調和させたいという心持ち」を表現したという。
 火野葦平は、「火野葦平選集第4巻」(東京創元社)の解説の中で、「自分の暗愚さにアイソがつき、戦争中の言動を反省して、日々が地獄であった」とも述べているが、この戦争責任との狭間の中で、1960年1月24日、自殺した。
亡くなった当初は「病死」としてしか発表されなかった。
 この時代は、戦後初めて国民的運動の拡がりを見せた、60年安保闘争という反戦運動の前夜でもあった(社会批評社編集部)。
(『土と麦 麦と兵隊』火野葦平 社会批評社 2013年)

日本兵の残虐行為を、ウクライナでは、ロシア兵が行なっている。
なお、この作品は、角川文庫でも読むことができ、サイトでは、「試し読みをする」ことができます。