入学式に絶好の日和となりました。
「神戸市外国語大で入学式 ロシア学科へ43人が学びの志を胸に」(兵庫 NHK)
学生たちにはエールを送りたいです。
嫌がらせをする人がいるとのこと。
かつて英語が敵性語だとされた時代みたいです。
安子の時代に逆戻りしたのかな?今日は、小学校の入学式もありました。
1年生の子どもたちが親御さんと歩いている姿を見かけました。
幼稚園の前で手を振っている子がいました。
先生に報告にきたのかな(*^^*)伐採された桜の幹を見ると樹液が出ていました。
伐採されてもまだ生きている。
根が生きていれば、水分を送り続けている。
「樹液は何の役に立つの?」(ののちゃんのDO科学)今朝の朝日新聞の記事
「仲間よ生き延びて、祈りの詩 ウクライナの障害者へ、日本から届いた」(朝日新聞 4月5日)
…前略…
朝日新聞の取材に対し、(ウクライナ障害者国民会議事務局の)ラリーサ・バイダさんは
「(加盟団体との会議で)詩を読むと、多くの仲間が泣き出しました。
ある者は殺されてしまった人たちを、またある者はもう存在しない自分たちの家を思い出したからです。
詩は、日本の障害者が私たちの痛みを感じ、寄り添ってくれていることをはっきりわからせてくれました」。
脱出できない街の人には「心の中から希望が切り離されないよに」などと詩のフレーズを引用し、伝えた。
「日本の作詩者が心配してくれていますよ」と。
…後略…
3月にも記事になっていたようです…
〝ウクライナの障害者へ「生き延びて」 日本の障害者が祈り込めた詩〟(3月13日)
詩「連帯と祈りウクライナの障害のある同胞(はらから)へ」ふじいかないり作(日本障害者協議会のHP)
ウクライナ発見さんのTwitterには
お母さんが書きました。
ロシア人に殺され、子供が生き残った場合は必要となると判断したからです。
春 五節気清明(せいめい)
春の暖かい日差しを受け、天地万物が清らかで生き生きとするころ。
「清浄明潔(しょうじょうめいけつ)」を略したのが清明です。
雨水(うすい)のころに顔をのぞかせた芽も、種類が判別できるまでに伸びてくる時季。
中国では、古くからこの時季の先祖の墓参りや、野に出て春の青草を満喫する「踏青(とうせい)」を行う風習がありました。
中国の五行説では、春は青、夏は赤、秋は白、冬は黒。
「青春」はそこから生まれた言葉で、まさに清明のような活力みなぎる時季を人生の春にたとえています。
(『イラストで楽しむ日本の七十二候』アフロ著 森松輝夫絵 中径出版 2013年)沖縄県の先祖供養 伝統の「清明祭(シーミー)」
沖縄では、この時季に行う先祖供養「清明祭」があります。
中国の伝統を受けたもので、親族が墓掃除を行い、重箱料理や酒、花を供えます。
そして墓前で料理を広げ、泡盛を飲み、歌い踊って先祖と食事を楽しむもの。
(『イラストで楽しむ日本の七十二候』アフロ著 森松輝夫絵 中径出版 2013年)
「清明祭(シーミー・ウシーミー)」(沖縄県公文書館)四月 晩春
清明から穀雨のころ
春はあけぼの
いつのころからか、「春の曙(あけぼの)」と「秋の夕暮」は日本人の美意識の象徴として、詩歌や物語に定着してきました。
「春の曙」といえば、きまって思い出されるのが『枕草子』第一段の冒頭です。
(『NHK俳句 暦と暮す 語り継ぎたい季語と知恵』宇多喜代子 NHK出版 2020年) 春はあけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎはすこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
まことに簡潔な文章です。
東の空がうすらと白みはじめ、暗い空の山際あたりがほのかに明るくなり、紫がかった雲がたなびいている。
まだお日様が見えるまでにはすこし時間がある。
この時間帯がこそがいい、というのです。
学生時代に、この「はるはあけぼの」という流れるような書き出しに惹(ひ)かれて、では夏は何なの、秋は、冬は、と興味をつのらせてついに『枕草子』一巻を読み通したという思い出があります。 ちなみに「夏は夜。月のころはさらなり、闇(やみ)もなほ、蛍のおほく飛びちがひたる、また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし」。
「秋は夕ぐれ。夕日のさして山のはいと近うなりたるに、烏(からす)の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛びいそぐさへあはれなり。まいて雁(かり)などの列(つら)ねたるが、いと小さく見ゆるはいとをかし。日入りはてて、風のおと虫の音など、はたいふべきにあらず」。「冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火などいそぎおこして、炭もてわたるもいとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶(ひおけ)の火も白き灰がちになりてわろし」。
右は『枕草子』第一段の全文です。
長い引用に思われますが、四季それぞれの一日のうちもっとも好ましい時分を、かくも短い文章で言い終えたことに、ただただ感服させられます。
「春はあけぼのがよろしい」という叙述を省き、「春はあけぼの」だけで言い果たせた簡潔な表現のよろしさで、ここのところは俳句に重なるところなのです。 「春はあけぼの」とおなじく「冬はつとめて」と夜明けのよさが書かれています。
「つとめて」は早朝の意ですが、「あけぼの」という「ほのぼのと夜が明ける」やわらかい感じとはやや異なります。
もし「春はあかつき」「春はつとめて」であれば、『枕草子』開巻第一声の魅力は半減していたかもしれません。
また「冬はあけぼの」では、冬の夜明けのきりっとした感じは消えます。 清少納言が、春、目にしている山と同じ山を秋にみますと、山の稜線(りょうせん)がはっきりしてきたことに気づきます。
この山を背景に烏が塒(ねぐら)に帰ってゆくという近景、おなじくはるか向こうの空を雁が飛ぶという遠景、いずれも大夕焼を舞台にしています。
秋の山には、春のぼんやりした景がないのです。
…後略…
(『NHK俳句 暦と暮す 語り継ぎたい季語と知恵』宇多喜代子 NHK出版 2020年)