2022年4月7日木曜日

桜の花びらが…

朝から暖かかったです。
フジの花が開いてきましたし、ホオノキももうじき咲きそう。
レンゲソウもポツポツ咲き出しました。
午後から買い物に出かけると、風が強く桜の花びらが舞っていました。
 梨(なし)

なんとしましょうぞ
梨むいて出せば
梨は取らいで
手をにぎる。
(『朝鮮民謡選』金素雲 岩波文庫 1933年)
今朝の天声人語に戦艦大和のことが取り上げられていました。
1945年の今日、戦艦大和が米空軍の攻撃を受けて撃沈された。
アニメ映画のすずと周作の会話が引用されていましたが

この世界の片隅に <上>』の昭和19年4月に

すず …周作さん ありゃ なんですか 船ですか!?

周作 大和じゃ! よう 見たってくれ あれが東洋一の軍港で生れた世界一の戦艦じゃ
 「お帰り」いうたってくれ すずさん

海底に眠る戦艦大和が確認される」(NHKアーカイブス 1985年)

犬田布岬(いぬたぶみさき) 戦艦大和慰霊塔」(徳之島観光連盟)
 呉海軍工廠の歩み

 明治22年、呉鎮守府設立とともに造船部が設置される。
明治36年には、呉海軍工廠となりさまざまな軍艦を製造する。
大正10年には隣の広村に飛行機を研究するための広支廠を設立。
広支廠は独立し、大正12年には広海軍工廠となった。
円太郎が口ずさむ広工廠廠歌は、昭和9年に制定された歌だ。
(『この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック』 『この世界の片隅に』製作委員会 双葉社 2016年)
 呉工廠は、他の海軍工廠と比較しても非常に大規模で、日本海軍艦艇建造の中心的役割を担った。
呉工場で建造された主な艦艇には、戦艦の扶桑、長門、大和など、巡洋艦の最上、愛宕などがある。
大和と長門は呉工廠で建造され、それぞれの二番艦である武蔵と陸奥は他工廠や民間造船所で建造している。
 呉工廠を含む呉軍港は、重要拠点であったため、昭和20年になってからは3月19日や7月下旬などに何度も空襲を受けている。
 昭和15年には、広工廠の航空機部が独立し、第十一海軍航空廠となった。
円太郎は第十一航空廠の発動機部に勤め、発動機の製造と試験を行っていた。
広工廠は昭和20年5月5日に空襲を受けて、第十一航空廠ともども壊滅的な打撃を受けた。
 戦後の呉は、戦前から培われてきた造船技術を生かし、造船国・日本をリードする存在となった。
 呉には呉市海事歴史科学館(愛称:大和ミュージアム)があり、大和に代表される造船技術や歴史を学ぶことができる。
(『この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック』 『この世界の片隅に』製作委員会 双葉社 2016年)
今朝のあさイチ「(め)でたいnippon 山形県」 で朝ドラ受けの後に紹介されたのが

コミック『戦争は女の顔をしていない』(「試し読みをする」)

原作者のスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチさんの言葉

闇はあらゆるところ
あらゆる方角から迫ってきますが
どの国にも明るい側にいる人がいて
対抗しようとしているのです
自分のすべき小さなことをやるべきです


原作の『戦争は女の顔をしていない』(岩波現代文庫)にも「試し読み」があります。
 子どもたちへの回想  長倉洋海

 フォト・ジャーナリストになって18年。
世界の紛争地をめぐり、撮りためた写真を見かえすと、どのフィルムにも、子どもたちの姿あった。
当初は、戦闘や劇的な瞬間を撮ろうと意気ごんでいたのに、いつのまにか、子どもたちの写真がふえていた。
 はじめての国で、勝手のわからない私の緊張感をといてくれたのが子どもたちが。
ひげもじゃでこわそうな私に、臆(おく)することなく、フィルターをかけずに向きあってくれる。
エル・サルバドルの下町では、私が兵士に尋問されるのを見て、新聞売りの子たちが「このおじさんは悪い人じゃないよ」と助けてくれた。
カメラをもった外国人を警戒していた人々も、子どもたちと私のつきあいを見て、しだいに心をひらいてくれた。
 子どもたちは、紛争地での最初の“ともだち”だった。
(『ともだち Dear Friend』長倉洋海 偕成社 1998年)
再会

 中米のエル・サルバドルは'82年から撮りつづけている国。
中でもよく通った場所がサンタ・テクラの難民キャンプだ。
仕事がなくても、朝早くから起き、小さな菜園をたがやし、パンとコーヒーだけの質素な朝食を家族でとる……。
農民らしいたたずまいが好きで、何度もおとずれた。
 そこで出会ったのが3歳のヘスース。
その後も、5歳、10歳、15歳と彼女の成長を見つづけてきた。
'92年に内戦が終結しても、彼女は難民キャンプにとどまっていた。
故郷の家は破壊され、一家が農業を再開する資金もなかったからだ。
母親の再婚で、次々と生まれた弟や妹のめんどうをみながら、週一回の夜学に通うヘスース。
近くの店で彼女にノートとえんぴつを買おうとしたら、「遠くのストアーの方が安いから」と案内してくれた。
帰りにごちそうしたフライド・チキンも「おばあさんにもって帰りたい」といっていた。
 '97年、17歳のヘスースが未婚のまま子どもを生んだのを知っておどろいた。
娘のジャクリーンを抱きあげながら、「大丈夫。しっかり生きていくわ」と母親らしいたのもしさ。
ジャクリーンの父親は元ゲリラ兵士で、キャンプのそばの建築現場で働いているときに知りあったという。
後日、子どもが生まれたのを知って、彼は結婚を申し込みにきた。
 ヘスースはキャンプを出て、新しい生活をはじめた。
部屋はおじさんの家の間借りで、給料もないが、山あいのトウモロコシ畑で働くヘスースの姿は生き生きとしていた。
「ヘスースがおばあちゃんになるまで写真を撮るよ」というと、娘を見ながら笑っていた。
 つらいニュースもあった。
賭けビリヤードで生活していたカルロス('82年当時14歳)が、刑務所内で暴動にくわわり、看守に射殺されたという。
'90年におとずれたときに、「盗みをして、服役している」ときいていた。
'95年にも会えなかったから、今回こそはと楽しみにしていたのに……。
ビリヤード場の男たちは「血の気が多く、暴力的だった」と話したが、カルロスがプレイの合間に見せたおだやかな表情ばかりが思いだされた。
親がいないため、学校にも行かず、ビリヤード場の周辺で寝泊まりしていたカルロス。
大人に負けまいと、つっぱるように生きていた少年。
平和になったエル・サルバドルを見ることも、新しい生活を経験することもなく、彼が逝(い)ってしまった。
子どもたちの思い

 戦火が絶え間なくつづいたアフガニスタン。
この国での、子どもたちとの出会いもわすれられない。
食事の単調さをなげいた私に、「戦争をやっているからごちそうができないんだ」とおこりだした手伝いの少年。
「戦争でおいらの将来は破壊されちゃったんだ」といいながら、「モノはないかもしれないけど、アフガニスタンは最高さ」と得意げに話した馬追いの少年。
隣国パキスタンにも、路上であげパンや文房具などを売って働くアフガン難民の子がおおぜいいた。
私がファルシー(アフガニスタンの公用語)で話しかけると、みんな集まってきて、なかなか仕事にもどろうとしない。
母国の言葉で話すのがうれしくてたまらないのだ。
「おじさん、アフガニスタンはいいところだろ?」――大きな目をして、みんなが私の返事をくいいるように待っていた。
 カメラを前にすると、ミュージカル・スターのようなおおげさなポーズをとり、私をこまらせた南アフリカの子どもたち。
私が昼寝をしているのに、「遊ぼうよ」とハンモックをゆらし、ニッと笑いかけるアマゾンの子どもたち……。
 出会った子どもたちの喜びや悲しみ、つらさや誇りの一瞬に、シャッターを切ってきた。
いろんな国の、ぼくの“ともだち”、本当にありがとう。
(『ともだち Dear Friend』長倉洋海 偕成社 1998年)

長倉洋海ホームページ
 今朝の父の一枚です(^^)v
野良ネコちゃんに声をかけると振り向いてくれたそうです(*´▽`*)

安永8年
 巡礼の宿とる軒や猫の恋 夜半叟

[訳]巡礼が宿をとる軒のけたたましさよ、恋猫が鳴く。
[季]「猫の恋」春。
[語]巡礼――霊場を巡拝する人。当時、西国や四国などの霊場巡りがさかんだった。
[解]巡礼と恋猫の取り合わせが新しい。頼朝に会って銀の猫をもらった西行が、それを惜しげもなく門前の子どもに与えたという逸話(東鑑・六)をかすめ、世俗を離れようとする巡礼者が恋猫に悩まされるおかしさ。
[参]几董「売家のいせが軒ばや恋の猫」(井華集)。
(『蕪村句集 現代語訳付き』玉城 司訳注 角川ソフィア文庫 2011年)