薄い雲に太陽が覆われていて、丸く大きな暈(かさ)が見えました。
明日の予報は雨になっている…
(画像を編集して、実際より輪郭を強調しています)5章 低気圧・高気圧と前線のしくみ
寒冷前線・温暖前線と温帯低気圧の構造
…前略
古くからある天気のことわざに、「月や太陽がかさ(暈)をかぶると雨になる」というものがあります。
かさというのは、、太陽や月のまわりに光の輪が取り囲んで見える現象で、巻層雲をつくる無数の氷晶が、太陽光や月の光をどれも同じ角度で反射・屈折させることによります。
温暖前線にともなってよく現れ、半日後くらいに雨になると言われます。
この予報は70%の確率で当たるという人もいます。
この確率の真否は定かではありませんが、巻層雲(うす雲)や巻積雲(うろこ雲)といった雲がもっと厚くてやや低い高層雲に移り変わったときは、温暖前線の接近がかなり濃厚です。
…後略…
(『図解・気象学入門』古川武彦、大木勇人 講談社 2011年) 岩波書店児童書編集部のtwitterに
1805年の今日、デンマークの島の貧しい家で、ある詩人が産声をあげました。
初作品は子どもの頃、部屋の片隅で劇場のチラシを見つめ頭に描いた劇。
表現する喜びと挫折と称賛と自負…
自らの生涯を「一編の美しいメルヘン」と表現したその人の名は、ハンス・クリスチャン・アンデルセン。
#絵のない絵本
ちひろ美術館(東京・安曇野)【公式】のtwitterに
4/2は、童話作家アンデルセンの誕生日
IBBY(国際児童図書評議会)は
世界中が子どもの本を通して
国際理解を深めるために
この日を「国際子どもの本の日」
に定めました。
●開催中
https://chihiro.jp/azumino/exhibitions/54925/
作品:いわさきちひろ 道で踊るカーレン
『あかいくつ』(偕成社)より 1968年
「天声人語」(2022年4月2日)に
夢をカタチにするやり方を、ロックミュージシャンの忌野清志郎が著書で述べている。
実現する方法ではなく、それよりずっと手前の話。
高校時代、なりたい自分をマンガに描いていた
▼落書きのような絵の中の自分と仲間たちは売れっ子のバンドで、人気がありすぎて困っている。
ビートルズのようにレコード会社を設立して、好きなように音楽をやっている。
決意を示すためだろうか、ラジオの深夜番組にも送りつけたという(『ロックで独立する方法』)
…後略…
「NHKニュース おはよう日本」に紹介されていました夢をカタチにするやり方を、ロックミュージシャンの忌野清志郎が著書で述べている。
実現する方法ではなく、それよりずっと手前の話。
高校時代、なりたい自分をマンガに描いていた
▼落書きのような絵の中の自分と仲間たちは売れっ子のバンドで、人気がありすぎて困っている。
ビートルズのようにレコード会社を設立して、好きなように音楽をやっている。
決意を示すためだろうか、ラジオの深夜番組にも送りつけたという(『ロックで独立する方法』)
…後略…
「ウクライナ国歌 National Anthem of Ukraine -
Ще не вмерла України by the Yokohama Sisters」(YouTube)
検索すると
「ウクライナ国歌」(世界の民謡・童謡)を紹介しているサイトより
ウクライナの栄光は滅びず 自由も然り
運命は再び我等に微笑まん
朝日に散る霧の如く 敵は消え失せよう
我等が自由の土地を自らの手で治めるのだ
自由のために身も心も捧げよう
今こそコサック民族の血を示す時ぞ!
(お、こんな若い奴か……)
と思ったのではないか。
筋金入りのプロレタリア詩人というにはまだ書生っぽい、純な面立ちの、二十八歳の青年だった。
鶴彬、本名、喜多一二(かつじ)。
明治42年(1909)石川県生れ。
小学校を出て大阪の町工場労働者になる。
貧しかったが、石川啄木を思わせる早熟の天才で、十五、六から川柳を作りはじめ、十八のとしにはもう、プロレタリア川柳作家としてみとめられるようになった。 鶴彬がはじめ影響された川柳作家は、田中五呂八(ごろはち)である。
五呂八の名が出てきたので、ついでに当時五呂八らの唱えた「新興川柳」についていうと、大正末年から昭和12、3年までのごく短い間に花開いた川柳文学運動だった。
江戸末期からの旧態依然とした狂句風な川柳に、新風を吹きこんだのは、井上剣花坊と阪井久良伎であったことは第一回でのべたが、その中でも阪井久良伎は「古川柳」の昔にかえれ、と唱え、瑣末(さまつ)伝承派といわれている。
おまけに久良伎は江戸っ子なので江戸趣味礼讃がつよく、川柳が田舎者にわかってたまるかという気があって、それが彼ら一派をかえって動脈硬化にしてしまった気味がある。
鶴彬は「長詩・阪井久良伎」で、彼を揶揄する。Ще не вмерла України by the Yokohama Sisters」(YouTube)
検索すると
「ウクライナ国歌」(世界の民謡・童謡)を紹介しているサイトより
ウクライナの栄光は滅びず 自由も然り
運命は再び我等に微笑まん
朝日に散る霧の如く 敵は消え失せよう
我等が自由の土地を自らの手で治めるのだ
自由のために身も心も捧げよう
今こそコサック民族の血を示す時ぞ!
「ウクライナの穀物生産、半減の恐れ 農業食料相インタビュー」(AFP●News 4月1日)
ロシア軍は最近になり、これまで比較的攻撃を受けていなかった西部の複数の大規模燃料貯蔵施設を爆撃した。
ソリスキー氏は、種まきの季節の始まりを狙ったものだと非難している。
先日紹介した『物語 ウクライナの歴史』に
21世紀に世界の食糧危機が起こった場合には、それを救う国のひとつはウクライナだという予想さえある。
ロシア軍は最近になり、これまで比較的攻撃を受けていなかった西部の複数の大規模燃料貯蔵施設を爆撃した。
ソリスキー氏は、種まきの季節の始まりを狙ったものだと非難している。
先日紹介した『物語 ウクライナの歴史』に
21世紀に世界の食糧危機が起こった場合には、それを救う国のひとつはウクライナだという予想さえある。
(「手と足をもいだ丸太にしてかへし 鶴 彬」つづき)
特高はただちに柳誌『川柳人』の主宰者を検挙し、編集所を家宅捜索する。
主宰者は井上信子という女流川柳作家で、故井上剣花坊(けんかぼう)夫人であった。
六十八という老齢なので身柄は不拘束、しかしこの、井上信子老夫人も、なんと度胸のいい女性ではないか。
鶴彬の作品が当局の忌避にふれるかもしれぬという危険をおかして、堂々と載(の)せつづけていたのだから。
(『川柳でんでん太鼓』田辺聖子 講談社 昭和60年)
特高のオッサンは、鶴彬を見て、特高はただちに柳誌『川柳人』の主宰者を検挙し、編集所を家宅捜索する。
主宰者は井上信子という女流川柳作家で、故井上剣花坊(けんかぼう)夫人であった。
六十八という老齢なので身柄は不拘束、しかしこの、井上信子老夫人も、なんと度胸のいい女性ではないか。
鶴彬の作品が当局の忌避にふれるかもしれぬという危険をおかして、堂々と載(の)せつづけていたのだから。
(『川柳でんでん太鼓』田辺聖子 講談社 昭和60年)
(お、こんな若い奴か……)
と思ったのではないか。
筋金入りのプロレタリア詩人というにはまだ書生っぽい、純な面立ちの、二十八歳の青年だった。
鶴彬、本名、喜多一二(かつじ)。
明治42年(1909)石川県生れ。
小学校を出て大阪の町工場労働者になる。
貧しかったが、石川啄木を思わせる早熟の天才で、十五、六から川柳を作りはじめ、十八のとしにはもう、プロレタリア川柳作家としてみとめられるようになった。 鶴彬がはじめ影響された川柳作家は、田中五呂八(ごろはち)である。
五呂八の名が出てきたので、ついでに当時五呂八らの唱えた「新興川柳」についていうと、大正末年から昭和12、3年までのごく短い間に花開いた川柳文学運動だった。
江戸末期からの旧態依然とした狂句風な川柳に、新風を吹きこんだのは、井上剣花坊と阪井久良伎であったことは第一回でのべたが、その中でも阪井久良伎は「古川柳」の昔にかえれ、と唱え、瑣末(さまつ)伝承派といわれている。
おまけに久良伎は江戸っ子なので江戸趣味礼讃がつよく、川柳が田舎者にわかってたまるかという気があって、それが彼ら一派をかえって動脈硬化にしてしまった気味がある。
阪井久良伎
鶴 彬
人は生きながらにして
銅像になつても
墓石にはならない
人は死んではじめて
博物館に陳列されるが
生きたままでは
博物館は引きとつてくれない
とは言へわれわれは不幸にして
生きながらにして
博物館行きを志願する
老ひたる一人の川柳作家を
見なければならない
彼は現代の中に空気を吸ひ
飯をたべて生きてゐる
しかし彼は
いつもたえずみづからを
過去の歴史の中に生かさうと
ひたすらつとめてゐる
彼はやせおとろへた
駄馬にまたがつてゐる
駄馬の名は「古川柳」
めざすところは
封建のむかし、花の「お江戸」
川柳は江戸の
武士と町人の共同社会のシンボル
いざこの川柳をもつて
ブルジョアとプロレタリアの格闘に
ふみ荒らされた現代を
花のお江戸の平和にかへさん!
つづけ! ものどもよ
とは言へつづく従者は一人もない
逆転させんといきり立つ
なんぢ川柳の騎士! ドン・キホーテよ
サンチョ・パンサをもたぬ
不幸な英雄よ
唄、三味線、常磐津(ときはづ)、浄瑠璃
花や囲碁
さては清元、新内と
彼の七つ道具のすばらしさよ
あゝこの典形(ママ)的な川柳の騎士は
うるはしの吉原のほかげに
紅、おしろいにふるさとを
売られた涙おしかくす
奴隷 おいらん
あこがれのドロテアを見る
古川柳にくらさはない
みんな平和な江戸の明るさにみちてゐる
古川柳のくらさを言ふ奴はたれか
馬上の騎士は
虫の食つた大身の槍をしごきながら
白髪を逆立てわめき立てる
どういたしまして!
彼のまたがる駄馬はつぶやく
――売つた日を命日よりもさびしがり
また
――もののふも米をば高く売りたがり
あゝいとしいドン騎士が
そまつな旅館を王様の城と早合点したやうに
わが愛すべき川柳の騎士は
花のお江戸へゆく道が
博物館の表玄関へ通ずるとは
知る由もない
いさむ悲劇の主人公の
姓は阪井! 名は久良伎
(昭和11年2月15日『蒼空』第3号)
これに対して井上剣花坊は古川柳を尊びつつその軌範(きはん)からのがれて、新機軸を川柳に出そうという情熱がいつまでも衰えなかった。
彼は川柳を民衆芸術と信じており、技巧の着物をまとわず、ハダカになって、しかも洞察の目をもってよむこと、社会と交渉をこちつつ、「熱愛的共感」をもってよまねばならぬといっている。
そのへんが、やはり古い狂句の宗匠(そうしょう)とは、ひとあじちがう。 全国に門人をあまた持ち、柳壇の大御所で、しかも門人には太っぱらでやさしかったらしい。
昭和9年に65で死んでいるが、となえる主義のちがう鶴彬をも
<よし! と一言答へてかくまつてくれた>――と鶴は「若き精神を讃(たた)へる唄――井上剣花坊をとむらふ」でうたう。
ただ剣花坊は明治3年生れの長州人だけに尊皇家でもあって、
「上(かみ)御一人を除くほかは人間に貴賤はない」
という観点からの民衆芸術論である。
彼はそれを「川柳王道論」といっている。
つづく…
(『川柳でんでん太鼓』田辺聖子 講談社 昭和60年)