今日は、Windowsアップデートということで、
朝、4時前に起きたのでパソコンを起動させました。
ところがインストールの失敗が続いている
トラブルシューティングをしたり、HDのエラーチェックもしたのに…
ブログを更新している現在もエラーが続いていて
去年の悪夢の再来かと…(-_-;)「プーチン大統領の作戦継続発言 ゼレンスキー大統領は強く非難」(NHK)
プーチン大統領もトランプ氏も嘘を言い続けることで、支持者に嘘を真実だと思いこませる。
日本では、「記憶にない」、「想定外」が通用すると思っている。 あとがき
史上「南京事件」と呼ばれているものが三つある。
最初は1853年、太平天国軍の南京争奪に際し、3万人以上が虐殺されたと伝えられる事件である。
次は1927年3月、蒋介石のひきいる国民党軍が南京を占領したときに起きた外国公館の襲撃事件だった。
日本領事館も暴兵に略奪されたが、警備兵が抵抗しなかったため、痛憤した海軍士官が切腹を試み、幣原(しではら)協調外交排撃のきっかけを作った。
戦前期の日本では「南京事件」といえば、通常はこの事件を指した。
(『南京事件(旧版)』秦郁彦 中公新書 1986年
最後が本書の対象としたもので、1937年末、日中戦争の最中に南京で日本軍がひき起こした残虐事件である。
「南京(大)虐殺事件」とか「南京アトローシティ」とも呼ばれ、呼称は必ずしも一定していないが、前の二つは一般にほとんど忘れられていることもあり、本書ではあえて「南京事件」の書名をえらんだ。 筆者としては先入観や政治的配慮を排し、そのとき南京で何が起きたのかという観点から、事実関係を洗い直し復元することをめざし、資料の収集と執筆に当った。
さりとて入手しえた範囲のデータを羅列しただけでは、単なる資料集になってしまうから、「史料批判」(テキスト・クリティーク)の手法に従って検証を加え、著者なりの解釈も示した。 この意味で本書の核心部分は第五章と第六章であるが、それだけでは南京事件の位置づけが明確にならないので、第一章と第二章ではジャーナリストと東京裁判の法廷が形成した事件像を紹介、第三章と第四章では南京戦に至る歴史的背景を要約的に記述した。
また第七章と第八章では、論争の焦点となっている被虐殺者(不法殺害者)の数を概算し、アトローシティの原因論と責任論に触れた。 新書という制約から、量的に十分な書きこみはできなかったが、それなりの特色は出したいと考えた。
とくに従来の研究書には、被害者である中国側の証言や主張を軸に組み立てたものが多く、全体像が見えにくくなる傾向があった。
そこで、本書では加害者である日本側の戦闘詳報や参戦者の日誌など、いわゆる第一次史料を軸として構成し、日本側史料でも後になって書かれたり語られたいわゆる第二次史料は、原則として補足、参考の範囲で利用するにとどめた。 これら第一次史料の発掘と利用については、相当の苦心を重ねたが、快く協力して下さった各方面の方々に厚く御礼を申し述べたい。
南京事件の解明はなお途上にあり、将来の研究に待つ点が少なくない。
思いもよらぬところから、新資料が飛び出してくる可能性は残っている。
筆者が約4万人と概算した被害者数も、積み上げ推計に基づいているだけに、新資料の出現で動くことになるかも知れず、あくまで中間的な数字にすぎない。 日本が満州事変いらい十数年にわたって中国を侵略し、南京事件をふくめ中国国民に多大の苦痛と損害を与えたのは、厳たる歴史的事実である。
それにもかかわらず、中国は第二次大戦終結後、百万を超える敗戦の日本兵と在留邦人にあえて報復せず、故国への引きあげを許した。
昭和47年の日中国交回復に際し、日本側が予期していた賠償も要求しなかった。
当時を知る日本人なら、この二つの負い目を決して忘れていないはずである。 それを失念してか、第一次資料を改竄してまで、「南京〝大虐殺〟はなかった」といい張り、中国政府が堅持する「三十万人」や「四十万人」という象徴的数字をあげつらう心ない人々がいる。
もしアメリカの反日団体が日本の教科書に出ている原爆の死者数(実数は今でも不明確だが)が「多すぎる」とか、「まぼろし」だとキャンペーンを始めたら、被害者はどう感じるだろうか。 数字の幅に諸論があるとはいえ、南京で日本軍による大量の「虐殺」と各種の非行事件が起きたことは動かせぬ事実であり、筆者も同じ日本人の一人として、中国国民に心からお詫びしたい。
そして、この認識なしに、今後の日中友好はありえない、と確信する。
数字の幅に諸論があるとはいえ、南京で日本軍による大量の「虐殺」と各種の非行事件が起きたことは動かせぬ事実であり、筆者も同じ日本人の一人として、中国国民に心からお詫びしたい。
そして、この認識なしに、今後の日中友好はありえない、と確信する。
最後に、巻末の主要参考文献の項で示したように、本書のために御協力いただいた方々と諸機関、および刊行について尽力された中央公論社の横山恵一、岩田堯、木村史彦の諸氏に感謝します。
1986年1月 秦郁彦
(『南京事件(旧版)』秦郁彦 中公新書 1986年) 今朝の父の一枚です(^^)v
父がキクモモを見て「ほんとうに菊みたいだなぁ」と話していました。
そういえば子どもの頃、こんなこと言われたなぁ…
明和8年
喰ふて寝て牛にならばや桃の花 落日庵(明和8.2.9子曳宛 耳たむし 句集 新五子)
[訳]食って寝て牛になりたいよ。桃の花。
[季]「桃の花」春。
[語]喰ふて寝て牛になる――諺のように使われる。
桃の花――武陵桃源の花(陶淵明・桃花源記)。
[解]ほほえましい願い。蕪村が書簡等でしばしば使う「疎懶(そらん)」(怠けること)願望と陶淵明的な仙境へのあこがれ。
[参]涼菟「喰うて寝て都へ春を置て行」(簗普請)。
一休作という有名な道歌に「世の中は食うてはこして寝て起きてさてその後は死ぬるばかりそ」。
(『蕪村句集 現代語訳付き』玉城 司訳注 角川ソフィア文庫 2011年)