歩きはじめは肌寒かったのでウインドブレーカーを着るほどでした。
でも、青空が広がると暑くなり脱ぎました。
昨日、今日のEテレ0655 おはようソングは、
「だじゃれ DE 一週間 ちょっとくるしいフランス語編」だったのですが、
「薄着で肌さむディ( samedi )」は何曜日? ムギワラトンボ(シオカラトンボ)は、
今朝の肌寒さに早く出てきてしまったかなと後悔しているかも(^_-)
「トンボのとび方」(小学3年)(「『生きている兵隊』の時代 解説に代えて 半藤一利」つづき)
このとき、その二年前に第一回芥川賞を受けた気鋭の作家石川達三が「俺が全然こんなのとは違った従軍記を書いてみせる」と、ひそかに野望を抱いたとしても、なんら奇怪(おか)しいことではない。
「毎日読む記事が画一的なんで腹が立ちました。戦争というものは、こんなものではない。自分の目で確かめたいと思っているところへ、中央公論特派員の話があったのです」
と石川は語っているが、とにかく、こうしてかれは中国戦線へ従軍することにになる。
12年12月25日に東京を発ち、神戸から軍用貨物船で出港、上海を経由して南京に着いたのは、13年1月5日。
念のために書くが、南京を日本軍が後略したのは12月13日。
石川はずっと遅れてその地に着いている。
東京裁判でいう暴虐事件を目撃することはなかったが、なお血なまぐさい、なまなましい事件後の状況を見聞することは可能であり、そこで日本軍の実態に接してふかい衝撃をうけた。
その回想が残されている。
(『生きている兵隊――(伏字復元版)』石川達三 中公文庫 1999年)「小便くさい貨車に便乗して上海から南京へゴトゴトゆられて行きました。南京市民は難民区に隔離され、町のなかにゴロゴロと死体がころがっていて、死の町という言葉がピッタリでした。はじめて目撃した戦場は、ショックでした」
そして南京で八日、上海で四日、精力的な取材をすませると、ただちに帰国する。「原稿は昭和十三年二月一日から書きはじめて、紀元節の未明に脱稿した。その十日間は文字通り夜の目も寝ずに、眼のさめている間は机に座りつづけて三百三十枚を書き終わった。……私としては、あるがままの戦争の姿を知らせることによって、勝利に傲った銃後の人々に大きな反省を求めようとするつもりであった」(『生きている兵隊』初版自序より) かつてない体験に、烈しく創作意欲に揺すぶられた様がよく察せられる。
それにしても大変なスピードである。
というのも、雑誌の締切り日がギリギリと迫ってきていたからである。
ときの『中央公論』編集長雨宮康蔵の回想がそのことを語っている。
「……原稿が手許にとどいたのは出張校正の間際であった。……掲載するについては、ところどころ伏字を用いるという姑息な手段をとることにしたが、これが失敗の原因であった。伏字の操作は、輪転機にかけられはじめた際まで続けられたが、そこにケアレス・ミステークをおかす盲点が伏在した。そして納本(内務省検閲課など関係当局に発売二日目に納入したもの)での伏字の箇所が市販にだしたものでは生かされていたり、逆に後者で伏字になっている箇所が納本では生かされていたり、という事態が発生した」 これは弾圧をかける方には絶好の言いがかりをつける理由となる。
伏字の相違があって刷り上がった『中央公論』は三十数種類もできたという。
これが当局を騙すための眼眩ましととられたのである。
それでなくとも日本陸軍が看過できない内容をもっていた。
『中央公論』三月号は昭和13年2月17日配本された。
翌日の午後6時、「聖戦にしたがう軍を故意に誹謗したもの」「反軍的内容をもった時局柄不穏当な作品」として内務省は発売禁止を通告してきた。
はじめは「厳重注意」にとどめようとしたが、背後にいて「断固たる言論指導を狙う」陸軍の激怒はそんな生温さを許すものではなかった。
当然、追求と強圧はそれだけではすまない。
二月下旬、石川は警視庁に連行される。
取調べは一日ですみ、帰宅は許されたが、8月には、編集・発行・印刷人ともども、「虚構の事実をあたかも事実の如くに空想して執筆したのは安寧秩序を紊すもの」との理由で、「新聞紙法違反」の罪に問われ起訴されてしまう(当時、雑誌には「新聞紙法」が適用されていた。
その第二十三条「安寧秩序を妨害し、また風俗を壊乱するものと認む」ものにたいしては厳罰が科せらえたのである)。 しかし、石川は、公判で堂々と自己の意見を開陳するのである。
「国民は出征兵士を神様の様に思い、我が軍が占領した土地にはたちまちにして楽土が建設され、支那民衆もこれに協力しているが如く考えているが、戦争とは左様な長閑なものではなく、戦争というものの真実を国民に知らせることが、真に国民をして非常時を認識せしめ、この時局に対して確固たる態度を採らしむる為に本当に必要だと信じておりました。殊に南京陥落の際は提灯行列をやりお祭り騒ぎをしていたので、憤慨に堪えませんでした」 が、当局は正論にたいして聞く耳はもたなかったばかりではなく、かえって心証を害したようである。
判決は昭和14年4月の第二回公判で早くも下された。
予想を越えて重く、石川は禁錮四ヵ月、執行猶予三年。
ただちに検事控訴があったが、判決は第一審に同じであった。
判決理由は「皇軍兵士の非戦闘員殺戮、掠奪、軍規弛緩の状況を記述したる安寧秩序を紊乱する事項」を執筆した故、というのである。
判決文にあるとくに許さざる場面は四ヵ所。
〔三章〕北支と南支での掠奪方法の違うことを記述したところ。
〔五章〕平尾と近藤が姑娘を殺す場面。
〔五章〕笠原が凌辱したうえ殺した娘から奪った指輪を、倉田がみつけて、俺も一つ記念にほしいと言う場面。
〔六章〕砂糖を盗んだ人夫を武井が殺す場面。
これらは日本国民の日本軍人にたいする信頼を傷つけ、社会の安寧を乱すというのである。
石川の憂国の至情や、戦争にたいするリアリスティックな認識などてんから認められることはなかった。
つまり、表現の自由はすでになくなっていたのである。 ◆
長々と書いたが、単なる発禁処分ではなく、刑事処分まで科せられた「『生きている兵隊』事件」とは大略以上のような事件であったのである。
まさしく内務省と陸軍は日中戦争下という新しい時局をリードすべく、機会を狙っていた。
その意味からは、この小説の掲載は言論弾圧そして言論界への威嚇のためにも、恰好の材料となったのである。 いま読めば、とりわけ反戦小説とか、反軍小説と言うわけでもないことが分かる。
べつに「皇軍」内部の非人道的な残虐・不法を暴き立てているわけではない。
内部告発なんかではないのである。
誤った読み方をすれば、たとえば敵味方の観点からだけでみれば、逆に戦意と士気を鼓舞されるような人もあるかも知れない。
公平にみて、日本軍の戦闘下の実態がリアルに、そして幾分かニヒリスティックに描写されている作品なのである。
なのに、軍は躍起となった。
何故なのか。 戦後はじめて明らかになった事実に南京虐殺がある。
被害者三十万余というのは虚構にしても、数万の中国人が犠牲になったことは否定できない。
陸軍中央はその当時においてその事実を知っていたし、その対策に頭を悩ましてもいた。
そこにこの『生きている兵隊』なのである。
たしかにこの小説は、直接にそのことに触れたものではない。
としても、その厳然たる不法の事実を明らかに示唆しているのである。
陸軍にしてみれば、それはもうアキレス腱にふれられたの思いがあった。
なんと、小説は「皇軍」の不法・暴虐をあからさまに書いている。
いや、書き過ぎている。
それは伏字なんかで誤魔化せるようなものではなかった。 改めて考えてみるまでもなく、日中戦争下の中国民衆には、戦場も銃後もなかった。
そのことは、広大な中国大陸で戦わねばならない日本兵のとっては、混迷を深めさせられる一方となる。
なにしろ付近に生活する中国人のなかから真の抗日軍をかぎわけて、戦わねばならないからである。
戦闘員か非戦闘員か、およそ曖昧模糊としている。
白か黒かはっきりすることを好む日本人のもっとも不得手とするところで、敵と民衆とが区別しにくくなればなるほど、やむを得ず民衆全部を相手にしなければならなくなる。
結果は、ときとして略奪、強姦、殺人という非人間的行為が実行されることになった。 昭和14年2月に作成された陸軍省秘密文書第404号「事変地ヨリ帰還ノ軍隊、軍人ノ状況」の一部をここに引用したい(原文は片かな)。
「戦闘間一番嬉しいものは掠奪で、上官も第一線では見ても知らぬ振りをするから、思う存分掠奪するものもあった」
「ある中隊長は『余り問題が起らぬように金をやるか、又は用をすましたら後は分からぬように殺しておくようにしろ』と暗に強姦を教えていた」
「戦争に参加した軍人をいちいち調べたら、皆殺人強盗強姦の犯罪者ばかりだろう」
中国戦線にある日本軍の軍紀のゆるみは、個人のレベルではなく、すでに集団になっていることを、これらの言葉は示している。 石川さんのリアルな眼はすでにしてこの状況を見抜いていたのである。
戦闘のなかで人間性を失っていく兵隊の心理と行動が、次々に抉り出されていく。
その回想によれば「くわしく事実を取材し、それをもとにして、たとえば殺人の場面などには、正当な理由を書きくわえるようにした」というし、また検閲を考慮して「作中の事件や場所は、みな正確である」というのである。
軍はこれを読み、むしろ猛反省すべきときであったのに、それどころか臭いものに蓋の無謀を敢えてしたのである。
なぜなら、忌まわしい南京事件が背景にあったればこそ、『生きている兵隊』は抹殺しなければならなかったから。
彼らの側からすれば、この作品は「軍人を人間として書いた」ゆえに発禁なのである。
この作家は「戦争に必然的にともなう罪悪行為」にふれたゆえ有罪なのである。
また、いざとなれば「作家ごときは束にして海に捨ててもいい」と軍は軽く見なしていた。 こうして『生きている兵隊』以後、裏返して言えば、軍のタブーはより明確になったという。
すなわち日本軍の敗戦、必然の罪惡行為、作戦の全容、部隊の編成と部隊名、人間としての軍人、これらは絶対に書いてはならない。
そいて大いに書くべきは「敵を嫌らしく憎々しく」なのである。
戦前の昭和はそんな度し難い時代であったのである。
(『生きている兵隊――(伏字復元版)』石川達三 中公文庫 1999年)
つづく…今朝の父の一枚です(^^)v
公園のスタッフ?が設営した巣箱を野鳥が利用していないか眺めています。
鳥を招く
■巣箱をかける
最近の建物はすき間が少なくなってきて、鳥たちも住宅難。
自然が豊かな所では全く心配ありませんが、町中では鳥同士でマイホームの奪い合いということもあるようです。
そんな所では巣箱をかけてみてはいかがでしょうか。
だれにでも簡単に作ることができます。
ただ、巣箱を利用する鳥は限られていて、種類によって巣箱の形や寸法もちがいます。
思い立ったら、まず日本野鳥の会などに相談してみて下さい。
木に取り付けるには、幹を傷めないようにシュロ縄を使うとか、木片をはさみ込んで針金でしばるなど工夫します。
出入りする穴から雨水が入らないように正面をやや下向きにし、水はけ用の穴をあけます。
高さは、いたずらされないように地面から3~5mがよいでしょう。
時期は、繁殖シーズンに入る3月より前、冬のうちが適しています。
12月ころに取り付ければ、冬のねぐらにもなり鳥も慣れるでしょう。
使い終わったら秋に、中につまったものを全部取り出して掃除し、傷んだ所を直しておけば何年でも使えます。
(『野鳥ブックス1 BIRD WATCHING―野鳥と出会うために』 日本野鳥の会 1981年)